日本の都会のカラスって、餌がすぐ手に入る(ゴミとか)→餌を取る時間が減る→人生に余暇が出来る→遊びだす
— げっぺスッスッスい (@geppeichanwan1) June 23, 2018
で知能が高くなったらしい。生物は余暇があると知能が高まるらしい。聞いてますか。聞いているのかと言っているんだ企業経営者!
FF外から失礼します。
— ✟✟✟クズモチ✟✟✟ (@kzmch_yktr) June 24, 2018
その現象について私は非常に興味深いと思います。
詳しく知りたいため、よろしければ出典などを教えて頂けないでしょうか?
昔見たNHKの番組で得た知識なので出典などはハッキリできないのです申しわけないです。カラスを研究されている学者の方が仰っていたのでその筋を当たれば論文などがあるかもしれません。
— げっぺスッスッスい (@geppeichanwan1) June 24, 2018
軽く調べてみたらこれっぽいですね。
— ✟✟✟クズモチ✟✟✟ (@kzmch_yktr) June 24, 2018
丁寧な対応ありがとうございます。https://t.co/KiuiwnhoiE
生存競争に使われる筈の脳領域がヒマになって、それが余録として別のことに回るのですよね。ネコもそうらしいです。イヌより野生なぶん、家畜化すると感情が豊かになるとか。(ff外よりお邪魔しました
— マリウス(ふたたびはぐれ者 (@mari2pso) June 24, 2018
そして代償に進化が止まる?
あるいはこういう考え方も。
「〈新しい実在論〉がポストモダン以後の哲学であるのは、何よりもそれが…近代的ニヒリズムに抗して、人生の意味への問いをわたしたちの手にとりもどそうとするからである。」これは『週刊読書人』掲載の浅沼光樹のМ・ガブリエル解説だが、「人生の意味」とは、実につまらない。そんな程度なのか。
— 千坂恭二 (@Chisaka_Kyoji) June 29, 2018
昔から世の中の動きには全く関心がなかったが、それは現実に関心がないことかもしれない。現実よりも、なぜ、現実なるものが現実としてあるのか、ということの方に関心がある。だが、そんな私にも一つだけ、まさに唯一の現実がある。無の上にある現実だが、それは秘密だ。
— 千坂恭二 (@Chisaka_Kyoji) June 29, 2018
物心ついた時から、生の向こう側にある死は、一番、関心のある対象であり、当時はいつも、そしてその後も、死について考えている。死について考えるとは存在論的に考えることになるが、しかし、全てを清算し、何事も元から無かったことにする死の事実は、実に不思議だ。
— 千坂恭二 (@Chisaka_Kyoji) June 29, 2018
現世でのことは、何処か、何事もどうでもいいと手抜きをしているような私は、俗にいう真剣に、真面目に生きている人からすれば、恐ろしく無責任で、いい加減な、何を考えているのか分からない人間に見えるのかもしれない。それは多分、生きながら、半分は、あの世に行ってるからと思ったりもする。
— 千坂恭二 (@Chisaka_Kyoji) June 29, 2018
たぶん、真面目に現実を生きていたなら、現実を考えることは出来ないだろう。考えるということは、生きることの外に出ることだからだ。
— 千坂恭二 (@Chisaka_Kyoji) June 29, 2018
要するに「事象の地平線としての絶対他者」と、どう向かい合って生きるかが人生の価値を決めるという話…
- 炭焼党(伊カルボナリ (Carbonari)、仏シャルボンヌリー(Charbonnerie))の中世的神秘主義から出発し「一揆主義(Putschism)」に到達した「ヨーロッパで一番危険な男」オーギュスト・ブランキ(Louis Auguste Blanqui、1805年〜1881年)は「真に革命が勝利する日など訪れない。何故なら、体制転覆は常に新たなる反体制派弾圧の起点に過ぎないのだから」なる諦観について語っている。
そのスタンスは「(実際の到達は不可能でも)我々は精神そのものへの到達を目指すべき」とした戦前日本最大の無政府主義者大杉栄の政治的態度や、時空を超えた果てで待つ宮沢賢治の「久遠仏(法華経)」やキルケゴールの「イエスそのもの(キリスト教)」を追い求める宗教的態度とも重なる。
バルトとキルケゴール : 本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かうことを志向し目指すサイト
要するにこの次元においては「ベクトルとしての運動先鋭化」のみが問われる。「江戸歌舞伎の父」初代市川團十郎が諸肌脱いで障子や障子を破り、「日本騎兵の父」秋山好古が窓ガラスを拳で粉砕しながら説いた「運動だけが不可能を可能とする」精神…
荒事歌舞伎の創始者である初代市川團十郎は、とある大名屋敷で「荒事を見せよ」といわれ障子や襖を破いて見せ、かえって喜ばれた逸話を有する。神を降ろすが故に狼藉を許される、そういう芸風だったのである。
*そしてこの芸風が、幽閉状態における鬱屈が力任せの脱却に至る「景清(かげきよ)の牢破り」として一つの完成型に到達する。まさしく「ハイド氏の解放」にして「超人ハルクへの変身」「ウルヴァリンの暴発」…
陸軍大学校で、学生たちに騎兵の特徴(高い攻撃力と皆無に等しい防御力)を説明する際、素手で窓ガラスを粉砕。血まみれの拳を見せ、「騎兵とはこれだ」と示した。
*授業において「もちろんゴム毬自体には窓ガラスを傷付ける硬さは存在しない。だが思いっ切り叩きつければガラスは割れる。これが運動量の原理である」と講義したという逸話もある。*考えてみれば河原礫「ソートアード・オンライン(2002年〜)」や「アクセル・ワールド(2009年〜)」の主人公達がただひたすら全てを犠牲にしてまで追い求め続ける「速さ」や「強さ」もこれ?
- カール・マルクス(Karl Heinrich Marx, 1818年〜1883年)は「経済学批判(Kritik der Politischen Ökonomie、1859年)」の中で「我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものは、実際には社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない(本物の自由意思や個性が獲得したければ認識範囲内の全てに抗え)」としたが、そのスタンスからは彼自身の到達した闘争史観だけでなく(「経済学批判」出版に際してのパトロンで「社会民主主義の父」と称される)フェルディナント・ラッサール(Ferdinand Johann Gottlieb Lassalle、1825年〜1864年)や「私には道程こそが全てであって、目標などないに等しい」と豪語したベルンシュタイン(Eduard Bernstein, 1850年〜1932年)の修正主義も派生してくる。
豊富な法知識を駆使した私有財産概念の推移を巡る論文。
法律制度は特定時における特定の民族精神の表現に他ならない。この次元における権利は全国民の「普遍精神(Allgemeine Geist)」を唯一の源泉としており、その普遍的精神が変化すれば奴隷制、賦役、租税、世襲財産、相続などの制度が禁止されたとしても既得権が侵害された事にはならないと説く。
普遍精神(Allgemeine Geist)…一般にルソーがその国家論の中心に据えた「一般意志(volonté générale)」概念に由来する用語とされるが、その用例を見る限り、初めてこの語を用いたD.ディドロの原義「(各人の理性のなかにひそむ)法の不備を補う正義の声」、あるいはエドモンド・バーグの「時効の憲法(prescriptive Constitution、ある世代が自らの知力のみで改変する事が容易には許されない良識)」を思わせる側面も存在する。
その結論は「一般に法の歴史が文化史的進化を遂げるとともに、ますます個人の所有範囲は制限され、多くの対象が私有財産の枠外に置かれる」という社会主義的内容だった。
すなわち初めに人間はこの世の全部が自分の物だと思い込んでいたが、次第に漸進的にその限界を受容してきたとする。
①神仏崇拝とは神仏の私有財産状態からの解放に他ならない。
②農奴制が隷農制、隷農制が農業労働者へと変遷していく過程は農民の私有財産状態からの解放に他ならない。③ギルドの廃止や自由競争の導入も、独占権が私有財産の一種と見做されなくなった結果に他ならない。
④そして現在の世界は資本家と労働者の富の収益の再分配はどうあるべきかという問題に直面する事になっている。
こうした思考様式は「ハノーファー王国(1714年から1837年にかけて英国と同君統治状態にあり、普墺戦争(1866年)に敗れてプロイセン王国に併合されるまで存続)」経由でドイツが受けてきた英国からの影響の総決算とも目されている。この次元においては「(全体をとどこおりなく導き続ける筈の)計画が(実際にはリアルタイムで修正され続け)未完の状態に留まり続けざるを得ない」ジレンマが問われる事になる。我々はむしろこの緊張感に耐えかねて、勝手に「完成」を宣言したシステムこそすべからず滅んできたという現実と向き合うべきなのである。
ファシズムとコミュニズム(共産主義、スターリニズム)は似ているようで違うが、その違いは、コミュニズムの原理は原理であるところにあるが、ファシズムの原理は融通であるところにある。そのため、コミュニズムと比べるとファシズムには例外が少なくない。
— 千坂恭二 (@Chisaka_Kyoji) June 30, 2018例外状態というのは法律的形態をとることのできないものが法律的形態をとって現れたものであるという逆説的状況を指す。たとえば戒厳令とか、これが実は例外ではなく、法の中心にあるものとして捉える。
要は民主主義であれ、独裁であれ(両者は対立するものではなく)、法の停止状態という空白を作り出し、そこで超越的な法が施行される(戒厳令、ブッシュ政権の法令など)という事態は、実は現代において例外状態ではなくもはや常態と化しているように、そもそも法治国家システムに本質的に内在しているものである、というのだ。
「例外状態というのは本質からして空虚な空間であって、そこでは法との関係を持たない人間の行動が生との関係をもたない規範に対峙しているのである。」
「空虚な中心をもった機械が効力をもたないということを言っているのではない。むしろ逆に、わたしたちが示そうとしてきたのは、まさしく、この機械は第一次大戦このかた、ファシズムとナチズムをつうじて現代にいたるまで、ほとんど中断なく機能しつづけてきたということなのだ。それどころか、例外状態は今日、その惑星的な規模での最大限の展開を達成するにいたっている。」
法と生との関係(フーコー流に言えば「生政治」)を現代的コンテクストであぶりだすその手際は実に巧みで、多くの示唆を読者に与える書である。ちなみに萱野稔人の『カネと暴力の系譜学』に、アガンベンに触れている箇所があった。要約するとこう言っている。
法を措定し維持する主体が法秩序を一時停止し合法性の名目のもとに法の規定を超えた暴力をふるう「例外状態」は、合法的な暴力を独占しその暴力の実践に対する法の制限を合法性を保ちつつも無力化していくことで、統治をめざそうとする国家の本質的なあり方やその戦略・活動から必然的に生じるものだ、ということ。*だからロシア革命(1917年)の成功が、むしろこうした意味合いにおけるマルクス本来の人間解放思想からのマルクス=レーニン主義の解放なんて思わぬ茶番を産んでしまったとも。
いかなる思想や運動も、それ自身を目的化したり絶対化してはならない。するとすれば確信犯的に、つまり信じてはいないという前提でやるべきだ。なぜなら人間は生きているが、いずれは死ぬからだ。つまり、進行形の現在と目的的な終局があるからだ。その意味でリアリズムと原理主義の双方が必要になる。
— 千坂恭二 (@Chisaka_Kyoji) July 1, 2018
特に最近では「定向進化(orthogenesis、determinate evolution)」なる概念そのものが「(進化論上、絶対的に正しい方向性が見出せない以上)見掛け上の仮想として存在するに過ぎない」と考えられる様に。
そういう時代にはむしろ「過酷な生存競争からどれだけ自由でいられるか」自体が重要なファクターとして表面化してくるのかもしれません…あれ? 何だか「インテリ=ブルジョワ=政治的エリートの責務」みたいな話に到達してしまった?