諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【差別と黒人が大嫌い】【リベラルな福音派】【有頂天家族】世間は矛盾した概念に満ちている?

最近時々思う事があります。現代人は本当に「ルネサンス以降」を生きてるのかと。

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ここでいう「ルネサンス」とは何か? 当時まで人々は様々な次元で伝統的共同体に分割されて暮らし「主権概念」を備えていませんでした。

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  • 「主権概念」が存在しない世界冲方丁は「微睡みのセフィロト2006年)」の中でこう語っている。「中世とは誰もが笑いながら歌って踊りながら楽しく暮らす世界だった。何故なら「もしかしたら心から一緒に楽しんでない?」と周囲から疑われた次の瞬間には「異端者」の烙印を押され一族郎党ことごとく私刑で惨殺されたり、密告で魔女狩りや異端審問に検挙されて火炙りにされてしまう緊張感が常に表裏一体で漂っていたからである」。そしてさらには同時に「Game of Thronesシリーズ」において克明に描かれた様に「領民と領土を全人格的に代表する領主や教区長や都市参事会メンバー」にとっては「誰もが隣人を公敵認定して抹殺する機会をお互いに虎視眈眈と狙い合う陰険な陰謀社会」でもあったという次第。

ここでいう「主権概念」とは「究極の自由主義専制の徹底によってのみ達成される」「個人の自由は周囲の他人全ての屈服によってのみ実現する」ジレンマを抱え、その弊害は勢力均衡によってしか緩和し得ないと諦観する態度を指しています。そしてこのコンセンサスを踏み台に国際的にはハンガリー出身の経済人類学者カール・ポランニーが「大転換(The Great Transformation、1944年)」の中でのイングランドにおける囲い込み運動の研究を通じて到達した「運動推進側も反対側も同じくらい正しく、かつ間違っていた。しかしながら歴史上重要だったのは、両者の衝突が現地住人の価値観変遷に必要な時間を稼ぎ出す事に成功した事、それのみだったのである」なる見解が積み上げられてきたのです。

  • 究極の自由主義専制の徹底によってのみ達成される」…この概念をスイスの文化史家ブルクハルト「イタリア・ルネサンスの文化Die Kultur der Renaissance in Italien, ein Versuch、1860年)」やゾンバルト恋愛と贅沢と資本主義Liebe, Luxus und Kapitalismus, 1912年)」は「王座上の最初の近代人」ホーエンシュタウフェン朝シチリア王フリードリヒ2世(Friedrich II., 1194年〜1250年)や「権力者が伝統的行事の行使者から奢侈の甘受者に変貌したアヴィニョン捕囚期(1309年〜1377年)以降のローマ教皇領主化と結びつける。
    *不思議な事に日本の左翼陣営は「全ての権力(領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的権威体制)は悪である」とするブルクハルトのスイス的無政府主義には熱狂的に共鳴を表明しつつ、彼がスイスにおけるその概念(ハプスブルグ家支配に徹底抗戦したスイス独立戦争を伝統的に支えてきたイデオロギー)の大源流を(ローマ皇帝とフランスの謀略によって滅ぼされた)ホーエンシュタウフェン朝(Hohenstaufen, 1138年〜1208年、1215年〜1254年)神聖ローマ帝国の直轄領だった時代、すなわちシュヴァーベン公国時代に求める立場にある事を黙殺してきた。いうなればそれは日本において領主(受領、地頭、守護、守護代、大名)支配に抵抗する土俗的無政府主義的勢力の多くが「我々が戴くは天皇のみ」と主張してきた歴史に自然と照応するのだが「天皇制こそ一刻も早く打倒すべき悪の封建主義」なるイデオロギーに凝り固まった彼らは、下手をしたら今日なお絶対にかかる歴史的現実を認めない立場を貫き続けているのである。その一方で彼らはレリャーノの戦い(1176年)においてホーエンシュタウフェン朝神聖ローマ帝国皇帝「バルバロッサ(赤髭王)」フリードリヒ1世(Friedrich I., 1122年〜1190年)の貴族騎兵隊がイタリア北部都市が集結したロンバルディア同盟の市民歩兵密集陣に撃破された事例については「市民の封建的権力に対する重要な勝利の一つ」として手放しで褒めちぎる。実際には当時イタリア北部都市が「教皇のみ」を旗印に団結した事、その教皇が領主化してイタリア統一事業に乗り出すと今度は全力で抵抗した事、こうした過程において常に重要な役割を果たしてきた「古都」ボローニャが「カソリック教学とローマ法学と近代解剖学の本拠地」にして「(ボローニャ・ソーセージやボロネーゼ・スパゲッティといった「美食」を絶え間なく生み出し続けてきた)奢侈の極限」ながら「(貧富格差に対する怨嗟が共産主義への熱狂を支える)赤い都市」という矛盾だらけの土地柄で、まさにかかる状況こそが「ファシスト英雄を父に持つ共産主義者パゾリーニ監督の遺作「ソドムの市(Salò o le 120 giornate di Sodoma、1975年)」における「究極の自由主義専制の徹底によってのみ達成される」なるジレンマの提示を引き出した事実には全く無頓着。特に1970年代においては平然と「エジプトのピラミッドも、東大寺奈良の大仏も実際に建立したのは庶民で権力者は搾取以外何もしていない!! 百害あって一利なしだから一刻も早く全員滅ぼし尽くすべき!!」みたいな暴論がまかり通っていたので、なおさら当時世界中が学んだ貴重な教訓に背を向け続けざるを得なくなってしまったのだった。まさしく記憶喪失から自分が犯人である事を忘れた殺人事件への復讐を続けるクリストファー・ノーラン監督の処女作「メメント(Memento、2000年)」とか米津律師の歌詞上の口癖「どうせ僕らは何処にだって辿り着けやしない」の世界そのままを生きているとも。

    *皮肉にも日本にも同じくらい矛盾だらけの「古都」京都が存在し、ここを舞台に天狗(権力者)と狸(プロレタリアート)が「永遠に続くゲーム」をプレイし続ける森見登美彦有頂天家族(2007年)」には想像以上に国際的共感が寄せられたりする…

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    *さらなる皮肉は「文化相対主義」が如何に無力か誰もがこの次元で思い知らされるという事。「幼女誘拐」とか普通にシステムの一部に組み込まれてるし、その後で平然と犯されちゃうし…

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    *とはいえ日本のパヨク側にこういう話をしても概ねネトウヨとか「ヒトラー安倍やナチス自民党工作員」呼ばわりされるだけで終わるので「面倒くさいから、もうネトウヨでいいや」なる諦観に達して今日に至る。まぁ実際イタリアにおいては「スターリニズムとカトリシズムの異常な同盟(教皇庁に絶対忠誠を誓う宗教右派共産党連立政権)」なんて恐るべき妥協の産物が成立し、これがボローニャに負けず劣らぬ「古都」パドヴァ出身のアントニオ・ネグリ(先祖の代から革命に携わってきた筋金入りの革命家)によるマルチチュード(Multitude)理論登場の契機となる訳だが、ここで重要なのは現代では当時彼の提唱したアウトノミア(労働者自治)運動よりむしろ「有頂天家族」における諦観に満ちた結論、すなわち「天狗と狸の間には互いに憎しみ合いながら共依存する関係しか有り得ない(決して対等な友人関係に到達する事はない)」の方が遥かに国際的コンセンサスを得ている辺りだったりする訳である。

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    1029夜『構成的権力』アントニオ・ネグリ|松岡正剛の千夜千冊

    フランスでも日本でもアメリカでもそうだったのだが、イタリアの学生運動が頂点で火を噴いたのは1968年である。翌年、トリノフィアットの自動車工場で大争議がおこって労働者も大きく動き、これが連鎖してヴェネチアのそばのマルゲラ化学工場のペトロシミコ運動などとなって、大衆的な反乱状況を現出させた。

    このなかでイタリア共産党も四分五裂して、多様な運動主体を演じる。平等賃金運動や代議制の批判などの異質な動きも出てきた。この活動は日本でいえばさしずめ"反代々木"にあたる。ではそのころのイタリアの"代々木"はどういう状態にあったかというと、おぞましいことに共産党キリスト教民主党が手を組んだのである。ネグリはそれを深層心理に戻してアブジェクシオンと言わないかわりに、「スターリニズムとカトリシズムの異常な同盟」とよんだ。

    "反代々木"の一角にいたネグリはただちに次のステップに踏み出した。1969年創設の「ポテーレ・オペラティオ」(労働者の権力)に参加し、その指導的役割をはたしていったのだ。これは当初はレーニン主義的な立場から労働者の組織化と武装蜂起を主張していたグループなのだが、大衆反乱の状況が出てきたことをたちまち反映して、スターリニズムとカトリシズムを野合させた代々木的な党中央を批判する急先鋒に変化していった。

    けれども、ここがユニークなのだが、"反スタ・反カト"ではセクトに堕していくと判断し、「ポテーレ・オペラティオ」は1975年には自発的に組織(セクト)を解体し、労働者の自発性を重視する大衆的運動体をめざすようになったのである。ネグリはつねに新左翼セクトの党派性を求めるタイプではなかったのだ。これが「アウトノミア」(労働者自治)の運動の出発である。

    アウトノミア運動のコンセプトはただひとつ、自治である。運動は一挙に高揚し、拡張していった。硬直体制化してしまった共産党の外部に多彩な活動を展開した。フランスでもそうだったのだが、イタリアでも自由ラジオを駆使し、工場や住宅を占拠し、まさにカルチャー路線から武断派までが入り乱れた。ネグリはすぐさまアウトノミアの理論的指導者ともくされて、『支配とサボタージュ』などの一連の政治文書を書きまくる。

    *こういう話をしてもやはりパヨク陣営からはネトウヨ呼ばわりを免れない。要するに彼らは1970年代における「反差別を大義名分とする旧左翼陣営と新左翼陣営の野合」の産物なのであって、実際のそれまでの左翼運動の歴史が遥かに多様で多態的だった現実を決して認められないらしいのである。

  • こうした状況下「ルネサンス以降」という表現は必然的に晩期イタリア・ルネサンスにおいてパドヴァ大学ボローニャ大学の解剖学部で流行した新アリストテレス主義、すなわち「実践知識の累積は必ずといって良いほど認識領域のパラダイムシフトを引き起こすので、短期的には伝統的認識に立脚する信仰や道徳観と衝突を引き起こす。逆を言えば実践知識の累積が引き起こすパラダイムシフトも、長期的には伝統的な信仰や道徳の世界が有する適応能力に吸収されていく」なる概念の成立を指す。

    *とはいえこの一見立派そのものな思考様式自体が科学的実証主義の世界観に直結する訳ではない。現実に待ち受けていたのは「究極の自由主義専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマの爆発、すなわちカソリック陣営とプロテスタント陣営に別れての宗教戦争や(法実定主義の出発点となった)政権交代の都度まるごと差し代わる「国家にとっての正義」概念であり、その段階を落着させたのはウェストフェリア体制などの「相応の火器を装備した常備軍を中央集権的官僚制が徴税によって養う主権国家の均衡状態」だったという次第。
    *むしろ、かかる形で政治的安定状態が到来した事によってデカルト機械的宇宙論やジャンバッティスタ・ヴィーコの歴史論を受容する余裕が生じ、やがてその技術は次第に後期ハイデガーいうところの集-立(Ge-Stell)システム、すなわち「特定目的達成の為に手持ちリソースを総動員する体制」としての主権国家の運営に不可欠な要素として不可逆的な形で組み込まれていくのである。

  • 一方、19世紀後半に入ってからの産業革命普及ががもたらした大量生産・大量消費スタイルは消費の主体を王侯貴族や聖職者といった伝統的なインテリ=ブルジョワ=政治的エリート階層から新興産業階層へと推移させた(ただし多くの国でブルジョワ化を果たした王侯貴族や聖職者が資本家階層に参入し、その没落層が一般庶民に合流)。ただし歴史のこの時点でかかる新興産業階層が自らを代表する能力を獲得した訳ではなく、その役を代わりに担った商品供給企業やマスコミは「主権国家間の均衡状態」ほど安定した均衡状態を生み出す事に成功した訳でもない。

    *様々な状況で話題となる「グローバル経済の脆さ」は、ある程度までウォーラステインの世界システム論(World-Systems Theory)いうところの「なまじ諸勢力の均衡状態を解消する天下統一事業が成功すると、社会全般を覆い尽くす停滞状態が始まる(むしろ体制批判や階層流動性が抑制され、貧富格差の拡大が放置される)」現象と連動している様に思える。そう、まさに「競争状態の消失」自体が問題となるのである。

  • そして20世紀も後半に入ると「個人も主権者となる為には国家を見習って自己実現を目標とする集-立Ge-Stellシステムたらねばならぬ」なる思想が台頭してくるが、それは「究極の自由主義専制の徹底によってのみ達成される」なる政治的ジレンマを「個人の自由は周囲の他人全ての屈服によってのみ実現する」なる個人レベルのジレンマにダウンサイジングしていくプロセスでもあったのだった。当然その過程においては、一定レベルの均衡状態に到達するまで無数の悲劇が繰り返されている。

    *というよりむしろ「主権国家の均衡状態」が「インフラ未整備の地域を走破する常備軍や治安維持部隊・さらには冒険商人や遠征隊」の普及によって、「産業至上主義時代」が「世界中を蒸気船や機関車で結ぶ交通/電信網」の普及によって可能となった様に「個人の均衡状態」は(個人同士が直接繋がれる)インターネットの普及によってやっと可能になったとも考えるべきなのかもしれない。

こうした前提を踏まえると、以下の様な投稿の内容が改めて気になってくる訳です。

この指摘自体は上掲の「主権者間の均衡状態のみが「究極の自由主義専制の徹底によってのみ達成される」「個人の自由は周囲の他人全ての屈服によってのみ実現する」ジレンマの暴走を抑え込む」理論の繰り返しに過ぎません。問題は以下。

こうしてさりげなく、いわゆる「文化相対主義Cultural relativismの罠」と呼ばれる危険思想が忍び込んでくる辺りが恐ろしいのです。

そもそもこのやりとり、おそらくアプローチ自体が間違っているのです。上掲の様に主権者問題とは「国家間の均衡」をモデルに「個人間の均衡」を樹立しようという動きなのですから、ちゃんとそういう筋道で考察を重ねていけばそれほど間違わずに相応の結論に到達する事になるのではないでしょうか。

①「差別と黒人が大嫌い」論…このアメリカン・ジョーク、実は実際の「国家間の均衡」の歴史に照会すると意外と頻繁に「国民人類の平等を達成するには、国内から追放し尽くさねばあるいは地上から絶滅し尽くさねばならない劣等集団も存在する」なるイデオロギーとして登場してくる。ここで重要なのが「集-立Ge-Stellシステムとしての主権国家は自らの存続と繁栄を最終目的に置かないと必ず滅ぼし切れない敵に無駄に食いついて自滅するなどおかしな事になる」という歴史認識の誕生。

*興味深い事に、以下に述べる主権国家成立(前)史においては民族問題でなく宗教問題や階級闘争こそが重要な主題だった。そして最終的には西ヨーロッパ諸国の大半が概ねその不毛さを自覚する結末を迎える。少なくとも第一次世界大戦(1914年〜1918年)を通じてハプスブルグ君主国やオスマン帝国帝政ロシアといった「主権国家化」を拒絶し抜いてきた後進国がまとめて崩壊し「ロシア革命(1917年)」なる新たな成功モデルが現れるまでは。

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  • 東ローマ帝国395年〜1453年における「キリスト教国教化」ナイル川上流域のエレファンテネ島を最後の本拠地とした神殿宗教を滅ぼし、ギリシャ哲学の精神を継承するアカデミアを国外追放し、国内のユダヤ人を徹底弾圧(迫害を受けた側は国内のシリアの辺境地帯や国外のササン朝ペルシャに逃げ込んだ)。東ローマ帝国はさらにササン朝ペルシャの討伐を試みるも戦争は泥沼化してしまう。そして代替中継貿易で栄えたアラビア半島に勃興したイスラム帝国がこうした多様な文化全てを継承する歴史的展開を迎えたのだった。その一方でローマ教会に偶像崇拝禁止を迫って絶縁され「シスマ教会大分裂)」を引き起こしてしまう。ある意味(誰も止める者のいない)世界帝国の暗黒面の体現者とも?

  • マグリブチュニジア以西のアフリカ北岸およびアンダルスイベリア半島南部を支配したベルベル人王朝、すなわちムラービト朝1040年〜1147年及びムワッヒド朝1130年〜1269年)…元来は辺境のカルト教団に過ぎなかったが「イスラム教徒の義務」メッカ巡礼を通じて「多様性と多態性を重視したアッバース朝の衰退を目の当たりにしてゴビノー伯爵的イスラム文化純正運動に覚醒してしまう。

    かかるナショナリズム的義憤に導かれる形でマグリブとアンダルスの「再統一」に成功するも、その領土内のキリスト教徒やユダヤ教徒イスラム教への改宗を迫る態度がこうした異教徒の大量国外脱出を誘発してしまった。これが東ローマ帝国がマラズギルト(マンジケルト)の戦い(1071年)でセルジューク朝に敗れて小アジアのほぼ全域をトルコ人に奪われ、どさくさに紛れて南イタリアまでノルマン人に奪われたのと併せ十字軍運動の起点となる。最終的に彼らは(移民受容を通じて文化レベルを引き上げたキリスト教国連合の反撃によりイベリア半島を失陥。ちなみに次に台頭したマリーン朝1196年〜1465年)は宗教寛容策に転じて商人と官僚の供給源たるユダヤ教徒を巧みに活用して地中海沿岸交易に立脚した経済的繁栄を謳歌したが、次第に政治的求心力を失って最終的には自壊してしまう。

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    マリーン朝の自壊…これもポルトガル王国の「アフリカ十字軍」派遣を発端とする「欧州経済中心地の地中海沿岸から大西洋沿岸への移行」の結果と考えると事象的連続感がいや増す。実際、重要な取引相手だったイタリア商人もこうした歴史の流れの中で没落を余儀なくされていくのである。

  • スペイン王国のあっけな過ぎる栄華レコンキスタ運動(Reconquista、718年〜1492年)の情熱の余波にかられる形で(ユダヤ教徒イスラム教徒の財産を没収して財源に当てようとした)異端審問開始(1479年)やユダヤ教徒追放令(1492年)やモリスコ追放(1609年)を次々と敢行して自国の商業と農業を破壊していった様は、まるでかつてのベルベル人王朝の怨霊に憑依されたかの様である(ユダヤ人迫害の裏には、彼らが官僚として国王と癒着して絶対王政を建設する事への大貴族連合側の警戒心もあったという)。さらには(イベリア半島の羊毛産業のライバルだったフランドル地方を滅ぼそうとして八十年戦争(1568年〜1609年、1621年〜1648年)が勃発してネーデルランドが独立を果たしてしまう。なにしろイングランドやフランスと異なり「大貴族連合が内ゲバで自滅して国王が漁夫の利を得る形で主権国家化がスタート」という具合に行かなかった国なので以降も延々と迷走が続く。

  • ユグノー教徒への対応に苦慮したフランス王国…イタリアはフィレンツェの名家メディチ家より王妃を迎え続けた対価でサン・バルテルミの虐殺(Massacre de la Saint-Barthélemy、1572年)などが勃発。経済面でも重要な役割を占めたエスニック・グループで財務長官コルベールの時代に重用されたが、彼の引退後にルイ14世の勅令で全面追放となり、彼らを受容したヘッセンなどに経済的繁栄をもたらす。

    *その一方でフランス貴族はガリカニスム(Gallicanisme)的立場からイタリア人枢機卿やスペイン人王妃を警戒し続けるのである。

  • フランス革命当時に革命政府マイノリティが遂行した王党派マジョリティに対するホロコースト…「人道主義と人類平等の精神」を世界最初に標榜したフランス人権宣言(1793年)が有名だが、そこでは最初から女性も異人種も「人間」から除外されていたし、さらに(経済成長は貧富格差を拡大する絶対悪と信じるルサンチマンに満ちた「浮浪小作人階層」サン=キュロットが兵士供給階層として政治的発言力を強めると国民のうち少なからぬ比率を占める(その数の優位自体が人道主義と人類平等の精神に対する侮辱として許しがたい)王党派も「人間」から除外されホロコーストが始まった。フランス産業の中心地たるトゥールーズやリヨンでは全てのインフラが徹底的に破壊されたばかりか現地市民が老若男女問わず片っ端から霞弾の一斉射撃で挽肉化されていったし「王党派の抵抗の中心地」ヴァンデでは「見つけ次第妊婦の腹を裂き赤子を竃に放り込む」地獄部隊が嬉々として民族浄化任務を遂行(カンボジアクメール・ルージュ政権や北朝鮮金王朝に感銘を与え「ベトナム系市民」や「親日派や地主」虐殺の大義名分立てに使われたエピソード。そう「韓流ドラマを視聴した」思想犯を機関銃で粉々の肉片に刻むのも「洗練されたフランス流」にあやかってるだけにすぎない?)。こうした蛮行のせいでフランスへの産業革命定着は半世紀以上遅れ、それまで対等なライバルとして競争してきた英国に以降二度と追いつけなくなったとされている。それでも1948年に実施されたフランス初の普通選挙では王党派が圧勝。大敗北を喫した急進共和派は「(まるでイスラエル建国を目の当たりにしたナチス残党の様にあれだけ散々殺して数を減らした筈だったのに、殺した人数が全然足りてなかった」と激しく後悔したという。ちなみに彼らはその直後の蜂起で大半がアルジェリアに追放されてしまい、残党もパリ・コミューン時代における殲滅合戦において競り負けてほぼ一掃されてしまう。

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    *かくして(ブルジョワ化に成功した王侯貴族や聖職者も合流を果たした)「権力に到達したブルジョワジー(bougeoisie au pouvoir)」あるいは「二百家」と呼ばれる人々が最終的に生き延び「タゲさえ取られなければ蜂起の誘発もない」なる新たな方針に従った寡占支配を開始したのだった。考えてみればそれこそがフランス人が「外交革命(1756年)によって外敵を失い、単独勝利によって政敵を失ったフランス王家が唯一のヘイトの引受先となって倒された」フランス革命から学んだ最大の教訓だったとも。

    *ところで大虐殺を焚きつけた張本人たるサン=キュロット層は従軍過程で得た恩寵で念願の自作農となって保守化しボナパルティストに変貌してしまった。その一方で1948年選挙では「ヨーロッパで最も危険な男」オーギュスト・ブランキさえも笑顔で応援演説をして回ってたというからフランス市民は「よりによって濃い面子だけが残った」と、より警戒心を高めてしまったのである。こうした経験を通じて(急進共和派の中核を為すマイノリティの代表格たる)プチブル階層は「我々が誰かに対して刃を向け続けていられるのは大衆の先頭に立ってる間だけで、かかる扇動システムが破れた途端、怒り狂った大衆の刃はまず真っ先に我々を八つ裂きにする」という恐るべき現実を学んでいく。

 ②「リベラルな福音派」論…実はこういうタイプって国際SNS上の関心空間ではしばしば見掛ける。というより実際に確認可能なのが「私は聖書の教えに従順に生きてる人間しか天国に行けないと考えている」「進化論は信用に値しないと考えている」と公言した上で「だが別にその考えを人に強制しようとは思わない」と宣言する「リベラルな福音派」だけで、あえてその話題は避ける「隠れ福音派」の人数は(関連投稿の回覧数から推察するに)その何十倍にも及んでる筈なのである。日本では別役実迷子のサーカス」やハチ(米津律師)「砂漠の惑星」などで提示されてきた世界観だが、どうも一般日本人は「そういう陰鬱な考え方は大嫌い」と頭から拒絶されてしまう傾向にある模様。

迷子のサーカス(別役実) | 後味の悪い話まとめサイト@2chオカルト板

ある国のサーカス団が、ある大きな街のカーニバルで公演するために馬車で旅をしている。 方向などの一切分からない巨大な砂漠を通るのだが、その砂漠に差し掛かったサーカス団は ある方角に輝く、1つの大きな青い星を目印として進んでいた。


夜にならないと進めないため、専ら昼は休んで夜になると、ただひたすら星の方角へ歩く。 ある夜、向こうの方から同じようなサーカス団が馬車を連ねて歩いてきた。 話をすると、どうやら目的地は全く一緒の街であり、カーニバルでの公演以来が来たから、そこへ向かっているという。 ところが、そのサーカス団は、自分達の目印にしている方角とは反対方向の 赤い大きな星を目印にして旅をしていると言うではないか。


自分達の方が正しい、いや自分達が正しい、2つの団は言い争う。 2つの団の占星術師?が数時間にも渡って話し合うが、どうも埒が開かない。 2つの団が話し合った結果「両方が間違った方角へ進み、両方とも街へたどり着けなかったらカーニバルは盛り上がらない。 せめてどちらかの団だけでも行けたら、それで良いじゃないか。それにどうせ、一つの街に2つのサーカス団が辿り着いたって仕方ない」と、互いの星を目印にして旅を続けることを決意する。


青い星の方角目指して進むこと数日、一向に街に着く気配はない。行けども行けども砂漠ばかり。 そう、このサーカス団は完全に迷い込んでしまったのだ。 団員も動物達も生気を完全に失い、声も出せないほど疲れ果ててしまい移動する気力はない。 馬も動けなくなり、歩くことを辞めてしまう。 足を止めたサーカス団を、容赦なく砂漠の砂と風が埋めていく。 サーカス団員達は埋められながら、街に着いたであろうもう1つのサーカス団に思いを馳せる。

私の好きな本 別役実「淋しいお魚」

*米国には「ジャングルの法則(ジャングルにおいては足を踏み入れた人間の人数が無事帰還がかなった人数を上回る事はない)」なる言い回しがあって、しばしば「青春とはそういうもの」とイメージされてきたらしい。スタンリー・キューブリック監督映画「フルメタル・ジャケット(Full Metal Jacket、1987年)」の原作たるグスタフ・ハスフォードの小説「ショート・タイマーズ(The Short-Timers、1979年)」で初めて知った。


*その過酷なまでの宿命観と「(ハリーポッターの)トム・リドルは私」「(まどかマギカの)美樹さやかは(劇場販新編の)暁美ほむらは私」「(シン・ゴジラの)鎌田君は私」「(ファンタステック・ビーストの)オブスキュラスは私」なる痛切な叫びと完全に表裏一体の関係にある。

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こうして全体像を俯瞰してみると「欧州中心史観」とは似てもつかないものの、ある意味「本物の欧州史そのもの」の産物と思えてきます。不愉快な部分の多いカール・シュミットの政治哲学が無下に切り捨てられないのも、まさにこうした「欧州を成立させてきた根幹概念」に根ざす部分が多いからだったりするのですね。

憎悪してるけど存在は許す」なんて生易しいものではなく、むしろ表面上はニコニコ笑いながら「絶対に殺してやる。全てはチャンス次第」と呪い続けるのが「人道主義と人類平等の立場に立つ」欧州流とも。そういえば英国外交官の心得は「噛まないなら吠えるな。咬み千切れないなら最初から噛むな」だとか。どうも日本人はこの辺りの覚悟が弱いらしい…
*まぁ「和をもって尊きとなす」なんて宣言が公文書に残ってる時代の日本こそ氏姓制の矛盾爆発で内ゲバが日常茶飯事だったのを思えば当然とも?

坂口安吾「日本文化私観(1942年)」

講談を読むと、我々の祖先ははなはだ復讐心が強く、乞食となり、草の根を分けて仇を探し廻っている。そのサムライが終ってからまだ七八十年しか経たないのに、これはもう、我々にとっては夢の中の物語である。今日の日本人は、およそあらゆる国民の中で、おそらく最も憎悪心のすくない国民の中の一つである。僕がまだ学生時代の話であるが、アテネ・フランセでロベール先生の歓迎会があり、テーブルには名札が置かれ席が定まっていて、どういうわけだか僕だけ外国人の間にはさまれ、真正面はコット先生であった。コット先生は菜食主義者だから、たった一人献立が別で、オートミルのようなものばかり食っている。僕は相手がなくて退屈だから、先生の食欲ばかり専もっぱら観察していたが、猛烈な速力で、一度匙をとりあげると口と皿の間を快速力で往復させ食べ終るまで下へ置かず、僕が肉を一きれ食ううちに、オートミルを一皿すすり込んでしまう。先生が胃弱になるのはもっともだと思った。テーブルスピーチが始った。コット先生が立上った。と、先生の声は沈痛なもので、突然、クレマンソーの追悼演説を始めたのである。クレマンソーは前大戦のフランスの首相、虎とよばれた決闘好きの政治家だが、丁度その日の新聞に彼の死去が報ぜられたのであった。コット先生はボルテール流のニヒリストで、無神論者であった。エレジヤの詩を最も愛し、好んでボルテールのエピグラムを学生に教え、また自ら好んで誦よむ。だから先生が人の死について思想を通したものでない直接の感傷で語ろうなどとは、僕は夢にも思わなかった。僕は先生の演説が冗談だと思った。今に一度にひっくり返すユーモアが用意されているのだろうと考えたのだ。けれども先生の演説は、沈痛から悲痛になり、もはや冗談ではないことがハッキリ分ったのである。あんまり思いもよらないことだったので、僕は呆気にとられ、思わず、笑いだしてしまった。――その時の先生の眼を僕は生涯忘れることができない。先生は、殺してもあきたりぬ血に飢えた憎悪を凝らして、僕を睨んだのだ。

このような眼は日本人には無いのである。僕は一度もこのような眼を日本人に見たことはなかった。その後も特に意識して注意したが、一度も出会ったことがない。つまり、このような憎悪が、日本人には無いのである。『三国志』における憎悪、『チャタレイ夫人の恋人』における憎悪、血に飢え、八ツ裂きにしてもなおあき足りぬという憎しみは日本人には殆んどない。昨日の敵は今日の友という甘さが、むしろ日本人に共有の感情だ。およそ仇討にふさわしくない自分達であることを、恐らく多くの日本人が痛感しているに相違ない。長年月にわたって徹底的に憎み通すことすら不可能にちかく、せいぜい「食いつきそうな」眼付ぐらいが限界なのである。

伝統とか、国民性とよばれるものにも、時として、このような欺瞞が隠されている。

こんな調子だから「反差別こそ絶対正義」なんてプロパガンダにあっけなく引っ掛かってしまうのかも…上掲の様な意味合いにおける「本物のレイシスト」対策としては、それでは全然不十分だし、そもそも日本にそんな存在が偏在しているとも思えない?