諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【Reality is Real】「私」など所詮「想像されただけの架空の存在」に過ぎなかった?

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これまでネット上で散々「ネトウヨ」とは罵られてきましたが、まさか「架空のマイノリティに憑依しての妄想代弁者」呼ばわりされるとは。日本のフェミニズム運動の動向が、国際SNS上の関心空間に2010年代以降集った「多様性と多態性を重視する」第三世代フェミニズム運動の挙げてきた成果とあまりに異なってしまった不思議を指摘したかっただけなんですが。

その一方で全体像を改めて俯瞰してみると、相手側はそれほど間違った事を言ってない気もしてきました。確かに「市民でなく市民団体のみが現実に存在する実体である」なる前提から出発すれば、私が「架空のマイノリティに憑依しての代弁者」にしか見えなくなってしまうのはある意味、当然の帰結なのでしょう。
*要するにそれって「とどのつまり他人など全員、自分にとって役にたつかどうかが全て」という宣言に過ぎない現実はさておく。まぁ誰だってそう考えてる側面はある訳だし。

ここでいう「Reality is Real生々しい痛みこそ生きてる実感)」とは、悩んでる当人から「私はこの問題で悩んでる」という宣言があったら、ひとまず反論する事なく現実の問題として受け止めて真剣に取り組む事(性自認問題と同じで当事者がそう感じてしまった以上「お前はイデオロギー的に間違ってる」とかアジテーションしたって仕方がない)。私の実際の仕事でしばしば「身体障害者の少なくとも一部は何か問題が生じた時にリカバリーが難しいだけの健常者として扱ってもらいたがってるしかも「いつでも助けてくれたら感謝する」タイプと見掛け上区別がつかない)」とった問題に取り組まされてきたので、これまでそういう考え方を自然に受容してきたのですが…なるほど確かにそうした思考様式全体を「私にはそんなの全て想像に基づく妄想上の悪手にしか見えない」と断言されてしまえば反論の余地などないのです。なにしろ、その宣言もまた「Reality is Real」の規定は擁護してしまうのですから…

 *要するに「Reality is Real」の立場から出発するだけでは、例えば「地上に存在する全ての女性は男性から一方的に命令され、それに盲従する形でしか幸福感を得られない」なる男権論者の信念すら切り捨てられない。これが対応を一歩間違えばポグロムホロコーストも否定出来なくなる危険な「文化相対主義(Cultural relativism)の罠」というやつ…

文化相対主義(Cultural relativism) - Wikipedia

また実際「市民でなく市民団体のみが現実に存在する実体である」という前提から出発すれば、確かにアクティビスト(しかも自分側)でないマイノリティは全員マイノリティ扱いする必要はなくなるし、そもそも「ダイバーシティ」問題との関係なんて完全に黙殺する事が可能になってしまう訳である。

*かくして政治的立場から「良鮮人」と「不逞鮮人」を峻別し、誰もが前者を褒め称えつつ後者を偏見の極みをもって嫌悪し続けた戦前人道主義の悪夢が再び蘇ってくる訳である。

*そもそもこうした人々の手になる「想像されたSNS」とはおそらく全体がこういう邪悪な感じ。確かに国際SNSには邪悪な側面もあるが、それが既に世界を結ぶ基本インフラにまで成長している事を認めない旧メディアの住民達は今日なお「工場の機械を破壊し尽くす事で産業革命到来を不可能にしようとした」ラッダイト運動(Luddite movement、1811年〜1817年)の扇動こそが正義と信じ続けているのだった。

*海外ではSNSがそれこそ電話網のレベルまで日常化し、そこで繰り広げられる様になった「マジョリティのマイノリティへの迫害」「親による子供の監視」から逃げ出す形で国際SNS上に関心空間が形成され、むしろこの流れが吸収し損なった「急進派」が既存SNSを撹乱する反撃に出て「オルタナ右翼」と呼ばれる様になった。日本はこうした歴史的経緯から完全に取り残されている。実際の「オルタナ右翼の若者」は「絶え間なくJokeを連発し続ける事で自分を常にHighな状態に保ち続けようと努力し続けているが、その正体は自らは何も信じてないゲッベルス・タイプのニヒリスト」に過ぎず、むしろ実際の問題は彼らに好き勝手扇動されてしまう圧倒的多数の「(メディアによる総動員体制を疑う事なく受容してきた)旧タイプ人間」の後処理問題という認識がまるで存在しないのである。

でもまぁ、いわれてみれば確かにその国際SNS上の関心空間においてすら、しばしば自称リベラルの方々がそこで「自分がそれまでそういうものだと信じてきたマイノリティWASP以外の異人種、女性、LGBTQA階層などの例外」と邂逅し「(まさにそうした連中の「偽物呼ばわり」を撃退する為に集って関連投稿の回覧数を数十万単位に引き上げてるにも関わらず貴様らがどんなに卑劣な工作を仕掛けてきても、自分が知ってるマイノリティこそ本物という信念は揺るがない!!自分の属するコミュニティに戻れば私の様な考え方こそマジョリティなんだからな!!)」とか勝利して去っていく景色が幾度となく目撃されてきたものです。なるほど、彼らもそういう立場に立っていたんですね…要するにこれは「(敗れた側が「虚構」として最初からいなかった事にされる現実VS虚構」の戦いなのだ?

実際、国際SNS上の関心空間への挑戦者の中には「トランプ支持を打ち出したマイノリティは、その時点でもうマイノリティたり続ける資格を失った。人道主義と人類平等の理念達成の為に最後の一人まで虐め殺すのが国際正義!!」と宣言して去っていく人が大勢いるし別に「日本だけ例外」なんて話でもなかったりする…