諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【アナキズム】【山川イズム】そもそも通史から見直すべき?

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ちなみにWikipediaにおける黎明期の歴史のまとめはこんな感じ。

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アナキズム(Anarchism) - Wikipedia

その理念的ルーツは古く、個々の、あるいは特定の思想家の信念や思想として生まれたものではなく、自由を求める歴史の中から、いわば精神の自然史というような形で生成してきたものだが、それを自覚した近代のアナキズムは、19世紀、フランスのプルードンの思想に始まる。

続いて第1インターナショナルではプロレタリアート独裁を唱える"権威派"のカール・マルクスと、権力の集中を批判しアナキズムを主張する"反権威派"のミハイル・バクーニンが論争を行った。またインターナショナルの運営においてもマルクスは総務委員会の権限強化を主張し、それに対してバクーニンは諸支部の連合を主張し対立した。総務委員会のポストにあったマルクスは謀略的にバクーニンバクーニンを支持するインターの各支部を除名し、第一インターナショナルを解体する。バクーニンは、アナキストによるインターをつくった。

第一インターの強力な支部を形成したイタリアは、バクーニンの影響を強く受けたマラテスタ、カフィエーロ、コスタなどの指導によりアナキズムが強力に根付いた。

ロシアにおいては、ロシア革命十月革命)後の共産主義政権の独裁に反旗を翻して蜂起したクロンシュタット軍港の水兵たちの運動の存在が大きい。モスクワやペテルスブルクなどの都市部においてもアナキストは、共産党の独裁に対する反対勢力として社会革命党左派(エスエル左派)とも連携し、非合法をも含む様々な活動を展開している。

ウクライナにおいてはロシア革命下の混乱期にネストル・マフノ率いるマフノ運動がウクライナ革命蜂起軍(黒軍)を結成し、白軍を撃退して1918年から1921年にかけてウクライナ南西部に自由地区と呼ばれるコミューンを打ち立てたが、赤軍によって壊滅させられた。

スペインもまたバクーニン以来、アナキズムの根強い地域であり、20世紀前半のスペイン内戦においてアナルコ・サンディカリズムを主張する労組(CNT/FAI)はフランコと対峙する人民戦線側では最大の勢力を誇り、各地で革命を起こし、バルセロナ市などでは、都市全体を労働者が自主管理する自治が行われ、農村でも地主を追放したあとの農地で、農民による「集産化」による共同管理が行われた。また人民戦線政府の閣僚となったCNT/FAIに対して革命的アナキズムの路線を貫いたドゥルティや、「革命」とフランコとの「戦争」の二者択一のアポリアに対して「革命戦争」の方向を提示した「ドゥルティの友」の活動も看過してはなるまい。内戦前期のスペインは、近代以降の社会で、「アナキズム革命」を一定の期間具現化した唯一の事例ともいえる。

19世紀末から20世紀前半にヨーロッパを中心にして、アナキストによる力尽くの体制排除を目的とした暗殺事件が世界中で多発した。当時の世界情勢は概ね帝国主義化しており、中には反帝国主義から事件を起こしたアナキストもいたと思われるが、しかし実際には効果が上がらず、第一次世界大戦以降のアナキズムアナルコ・サンディカリズムとし精力的に展開され、上述のようにスペイン革命においては革命の中心的勢力となる。しかし、スペイン・アナキズムの主流だったCNT/FAIが革命権力の問題を解決出来ず、それがその後のアナキズムの後退の始まりとなった。

そしてこんな話がポロっと出てくる…

941夜『神もなく主人もなく』ダニエル・ゲラン編|松岡正剛の千夜千冊

そういえば日本だとこんな展開だったのですね。

アナ・ボル論争 - Wikipedia

大正年間、とりわけ1920年代初めの日本の社会主義運動や社会運動において、アナルコサンディカリスム派 (アナ派、無政府組合主義)とボルシェビズム派 (ボル派、レーニン主義)の間で起こった思想的・運動論的論争と対立。

労働組合運動の組織論について、アナ派は自由連合論をとり政党の指導を排除すべきと主張したのに対し、ボル派は中央集権的組織論をとった。1917年のロシア十月革命や1922年12月30日のソビエト連邦樹立に対する評価にも相違があった。

近藤栄蔵らが「アナ・ボル提携」を掲げ、1921年1月に大杉栄とともに『労働運動』(第2次)を創刊して蜜月に入る。6月『労働運動』(第2次)は13号で廃刊、12月にはアナキストだけで『労働運動』(第3次)を復刊させる。1922年の大杉による『労働運動』(第3次)でのロシアのボリシェヴィキによるアナキストの弾圧の報告もあってアナボル論争も激化し、同年9月30日の日本労働組合総連合結成大会に至る過程で両者の対立が頂点に達したが、のちにアナ派は衰退し、マルクス主義が主流となる。

1922年3月創立の全国水平社内部でも両派の論争と対立が現れた。

大杉栄荒畑寒村とともに雑誌《近代思想》を創刊(1912年)し,アナルコ・サンディカリスムの立場から新しい思想的啓蒙を行っていたが,クロポトキンの《相互扶助論》の訳出をはじめ,アナーキズムを広める活動を行った。

一方1917年におこったロシア革命の研究が山川均らによってすすめられ,ボリシェビキの影響もみられるようになった。

そして1921年4月のロシア共産党第10回大会でアナーキスト排除が決定されると両者の対立は〈アナ・ボル論争〉として激化し,労働運動にも大きな影響を与えたが,やがて堺や山川らは国際共産主義運動と結びついて日本共産党を結党し〈アナ・ボル論争〉もボリシェビズムが勝利して,日本のマルクス主義の基調となった。

この流れを指導した理論家は山川均であり,彼は労働運動を無産階級の政治闘争へと転換する〈方向転換〉を明確にした。

アナ・ボル論争と測機舎: ダルマ舎平山昇

『アナ・ボル論争』(同時代社2005年)という本を読んだら、著者の大窪一志氏は「日本の左翼運動は1990年代の前半にほぼ壊滅した」、「昭和マルクス主義諸党派は・・・すべて山川を中心とした大正ボル派を源流としている」と書いて、すべての責任を山川均に被いかぶせて、おそらくは自らをも含む過去を清算しようとしていた。清算主義と新たなる西欧の経験の移植からは何も生まれはしないというのが、私の感想であった。


昭和マルクス主義が捨て去ったそれ以前の運動こそ、見直すべきなのだ。樋口兼次氏によれば、まさに大正期の日本に本格的な生産協同組合の運動はあったのであった。

現在では、船位測定はGPSになってしまったが、それ以前は六分儀でやるもので、日本の六分儀はほぼ銀座の玉屋製であった。第一次世界大戦によって莫大な利益を上げた玉屋ではあったが、職工の待遇は悪く、1919年に職工たちは待遇改善の申し入れを行った。これが退けられ、工場長次席が解任されるに及んで、1920年3月に総勢15名をもって「独立自重の精神」による「労働者自治工場」の「測機舎」が創業されたのであった。この「測機舎」は、1943年に軍要請で株式会社に変更されるまでの23年間、「創業段階で構想された労働者生産協同組合の原型を維持して発展した」のであった。

この時期の生産協同組合は、賀川豊彦の指導によって結成された「イエスの友大工生産協同組合」ほかいくつも結成されているという。「イエスの友の会」は前にもふれたが、「一、イエスにありて敬虔なること。二、貧しき者の友となりて労働を愛すること。三、世界平和のために努力すること。四、純潔なる生活を貴ぶこと。五、社会奉仕を旨とすること。」の五か条を綱領として、誰でも入会ができた。おそらく「測機舎」を維持させた背景には、この「五か条の綱領」に通じるものがあったのであろう。現在すすみつつある格差拡大と若者のプレカリアート化に対案するには「労働者の自己獲得運動、自主自治的生活獲」のためのコミュニティづくり、「五か条の綱領」こそ生かされるべきなのだと私は思う。

 大杉栄の著作からこの分野に足を踏み入れた私は自然に「クロポトキン派」に? 

社会的理想論(1920年 6月)

無政府主義者ことにクロポトキンはよく言う。労働者はまず、その建設しようとする将来社会についての、はっきりした観念を持たなければならない。この観念をしっかりとつかんでいない労働者は、革命の道具にはなるが、その主人にはなることができないと。

実際労働者は、今日までのどこの革命にでも、いつも旧社会破壊の道具にだけ使われて、新社会の建設にはほとんどあずかっていない。大部分は自分らの力で破壊しておきながら、それが済めば、あとは万事を人任せにしている、そしてそのいわゆる新社会が、まったく旧社会同様の他人のためのものになることに少しも気がつかない。 しかしこれは、労働者に新社会組織についてのはっきりした観念がないということよりもむしろ、自分のことはすべてあくまでも自分でするという、本当にしっかりした自主心がないからではあるまいか。

たとえば、よし労働者に新社会組織の観念がないにしても、みずから旧社会の破壊とともに新社会の建設にもあずかりさえすれば、その革命の主人になることができるわけだ。また、よし労働者がその観念を持っているにしても、それが他人の知恵で造ってもらったものであれば、その革命の本当の主人にはなることができないわけだ。それからまた、よしその観念があるにしても、その建設はやはり人任せにすることができるわけだ。

したがって、労働者が本当に革命の主人となるためには、自分らのための社会を造るためには、何よりもまず、労働者の解放は労働者みずからが成就するという、自主心の徹底に努めなければならないことになる。

僕は今それを、クロポトキンのいわゆる「新社会組織についてのはっきりした観念」をつかむことについて、ことに論じてみたいと思う。

「見本の買入れよりも、その刺激の下に自分の品物をつくり出そうとしている」

新社会組織についての観念、すなわち新社会の理想、といったところで、まずどんな観念、どんな理想を持てばいいのかわからない。

それには、労働者の目の前に、すでにいろんな見本ができている。無政府主義のそれもある、社会民主主義のそれもある。サンジカリズムもある。ギルド社会主義もある。

しかし労働者は今すぐには、そのなかのどれを選べばいいのかわからない。いずれもみな、それ相応に、もっともらしい理屈を持っている。が、そのなかのどれが一番いいのか、労働者にはまだ本当にはわからない。

それに労働者は、そんな観念とか理想とかの見本を理屈の上で比較研究する前に、そのせっぱつまった生活の、少々でもの改善を謀らなければならない。それが労働者の目下の急務だ。

そして労働者は、この急務に努力しつつある間に、資本家と労働者との関係、政府と資本家もしくは労働者との関係についての、その地位を漸次自覚してきた。今日の社会制度の根本的誤謬にまでも気づきだした。また、労働条件改善のためのその努力のなかに、それよりももっと強くその心中に湧いてくる、自由の精神に目覚めてきた。

これは、僕が今多くの労働者の中にみる事実だ。そしてそれらの労働者は今、その眼前に見せつけられる諸種の社会的観念や理想をそのまま受け入れる前に、彼ら自身が獲得してきた社会的知識と自由の精神との結合に努力している。見本の買入れよりも、その刺激の下に自分の品物をつくり出そうとしている。

「信者のごとく行動しつつ、懐疑者のごとくに思索する」

人生とはなんぞやということは、かつて哲学史上の主語であった。そしてそれに対する種々の解答が、いわゆる大哲学者らによって提出された。

しかし、人生は決してあらかじめ定められた、すなわちちゃんとできあがった一冊の本ではない。各人がそこへ一文字一文字書いてゆく、白紙の本だ。人間が生きてゆくそのことがすなわち人生なのだ。

労働運動とはなんぞや、という問題にしても、やはり同じことだ。労働問題は労働者にとっての人生問題だ。労働者は、労働問題というこの白紙の大きな本の中に、その運動によって、一字一字、一行一行、一枚一枚ずつ書き入れていくのだ。

観念や理想は、それ自身がすでに、一つの大きな力である、光である。しかしその力や光も自分で築きあげてきた現実の地上から離れれば離れるほど、それだけ弱まっていく。すなわちその力や光は、その本当の強さを保つためには、自分で一字一字、一行一行ずつ書いてきた文字そのものから放たれるものでなければならない。

労働者がその建設しようとする将来社会についての観念、理想についても、やはり同じことだ。無政府主義社会民主主義や、サンジカリズムや、またはギルド社会主義等の、将来社会についての観念や理想は、あるいはヨーロッパやアメリカの労働者自身が築きあげてきた力や光であるかもしれない。彼らはその力と光との下に進むがいい。しかしその観念や理想は、日本の労働者が今日まで築きあげてきた現実とは、まだ大分距離がある。

僕らはやはり、僕ら自身の気質と周囲の状況とに応じて、彼らの現実を高めることに努力しつつ、それによって僕ら相応の観念と理想とを求めるほかはないのだ。そしてそこに、僕らのいわゆる、信者のごとく行動しつつ、懐疑者のごとくに思索する、という標語が出てくるのだ。

そして、こんな展開も。大衆侮蔑の観点から「労働者の要求に我々が従うのではなく、我々の要請に労働者が従うのです」と説く民主集中制を導入して講座派インテリのお気に入りとなった福本イズムが登場すると山川イズムもめでたくウヨの仲間入り…

1922年の日本共産党創立から解党後の 25年までの共産主義運動の指導理論。

山川均は 22年『前衛』に「無産階級運動の方向転換」を発表し,従来の社会主義運動が無産大衆から遊離していたことを反省し運動の大衆化を主張した。また共産党解党後は協同戦線党結成を提唱し,前衛党の結成を時期尚早とした。この理論は社会主義運動の統合に寄与したが,その反面,階級性の喪失という欠点をもち,福本和夫からこの点を批判され,26年以降は福本イズムに指導理論の座を譲ることとなった。

コミンテルンの二十七年テーゼは福本イズムを批判するとともに,山川イズムをも右翼日和見主義として批判した。山川イズムはその後労農派に受継がれた。

既に戦前から「左の右」は国際的にウヨに分類されてきたという歴史的事実。

マルクスとバクーニン--社会主義と無政府主義--(1922年12月)

どこの資本主義国家にでも、社会主義者無政府主義者は、いつも気違いだとか、強盗だとか、人殺しだとか、またはその国家自身が使っているスパイだとか、宣伝される。その敵の人格を民衆に疑わせるのが、政府にとって一番有効な方法だからだ。

ところが、この政府的方法は、さらに社会主義者によっても、いつもその敵の無政府主義者に用いられる。しかも社会主義者は、資本主義者よりももっと政府主義的であるところから、資本主義者よりももっと悪辣にこの方法を用いる。

僕らはそれを、日本の社会主義運動史の第一ページにおいて、すでに見た。幸徳が無政府主義を唱え出して、多数の青年がそれに従った時、社会主義片山潜や西川光二郎は、幸徳や堺を「買収された」と公言した。

ロシアのボルシェヴィキ政府が今その国内の無政府主義者に浴びせかけている悪名も、やはりこの「気違い」であり、「強盗」であり、「人殺し」であり、そしてまた「スパイ」であり、「反革命運動者」である。山川菊栄がさきに雑誌「改造」に発表した、エマ・ゴールドマンに対する中傷のごときは、ボルシェヴィキ政府が無政府主義者に対する態度をきわめて忠実に翻訳したものだ。そしてこの方法はまた、最近日本のボルシェヴィキどもによっても、全力的にその旧同志の無政府主義者に向けられている。白色政府とこれにとって代わろうとする将来の赤色政府との、同じ政府的手段による、共同戦線的黒化防止団が形づくられたわけだ。

由来、残忍と陰険とは政府的思想のつきものである。その敵を鉄と血とで黙らしてしまうのと、その敵の思想を曲解して道化たものにしてしまうのと、その敵の人格を中傷して個人的信用をなくさしてしまうのとは、政府的思想のお得意の手段である。そして政府的思想の強いだけ、これらの手段はますます残忍になり、ますます陰険になる。
*まぁまさに「一揆主義者」ルイ・ブランキが示した「革命家に勝利はない。体制転覆の成功は、常に新たなる反体制運動弾圧の起点となる」なる諦観の顕現そのもの。そういえばヴァイマル政権期のドイツ共産党も、ソ連コミンテルンの支持に従って「社会ファシストSPDドイツ社会民主党)打倒を叫びながら、スパルタクス団や革命的オプロイテといった無政府主義因子の粛清に余念がなく、こうした戦いにおいて(民主集中制スターリン主義に比較的近い)NSDAP国家社会主義ドイツ労働者党)を共闘相手に選んだのではなかったのか?

*要するに日本のインテリはずっと「愚民に対する政治的エリート集団の独裁」を理想視する儒教的伝統に盲目的に従ってきただけとも。そして彼らが快不快原則に従って排除してきた要素一切を押し付けてきた「ナチス反知性主義」なる信念は、恐るべき怪物に成長する事に。なにせその起源はヤマト王権成立以前まで遡り、朝鮮半島や中国といった東アジア住民を事あるごとに決定的な形で脅かす絶対悪として君臨してきた事にされてしまっているのである(日本民族先天的ナチス説)。だからもはや日本民族(及びこんな化物を同じ人間扱いしてきた西洋文明)を滅ぼし尽くす形でしか、人類は人道主義と平等主義の理念を回復出来ないとされる。というかもうナチス関係なくね?

すると、以下の様な考え方はどういう文脈に分類されるの?

どう歴史を辿れば、ここまで行き着けるの?