諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【言語ゲーム(Sprachspiel)としての欧州史】「大国」フランスを手玉に取ってきた「小国」スイス?

これまでの投稿の中で「究極の自由主義専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマは勢力拮抗によってのみ抑制可能としてきましたが、実際にそれが「東西冷戦」や「三国鼎立」の様な主権者間の実力拮抗によって達成された時期などほとんどなかったのも事実。むしろだからこそ大国間の衝突の狭間に思わぬ小国がキャスティンブボードを握る局面が重要になってくる訳です。
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欧州史でいうと「スイスの存在」がその一つに該当する様です。日本でいうと雑賀衆根来衆が江戸幕藩体制の重要な構成要素の一つ(それも口入屋と札差屋の機能を併せ持つ化物)として生き延びてしまった感じとも? 

その起源はホーエンシュタウフェン朝(Hohenstaufen, 1138年〜1208年、1215年〜1254年神聖ローマ帝国の皇統だったシュヴァーベン大公所領の辺境地帯。この時代より「イタリアに最も近いドイツ」として両者を結ぶ峠道の開発が始まるが、ホーエンシュタウフェン家そのものはローマ教皇の差し金で(アンジュー・シチリア家始祖たる)シャルル・ダンジューに滅ぼされてしまい「無主の国」となる。
*戦国時代日本でいうと「守護家」京極氏や(その分家たる)尼子氏が没落して「守護代」朝倉・浅井・毛利家といった国人連合が台頭してきたイメージとも。

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その経済力と部族連合的紐帯によってモルガルテンの戦い(Battle of Morgarten、1315年)やゼンパッハの戦い(Battle of Sempach、1386年)や「新興領主」ハプスグルグ家の支配から脱し、中央集権的体制を伴わないまま隣接地域を次々と併合(盟約者団時代)。ただしイタリア戦争の一環として戦われたマリニャーノの戦い(Battle of Marignano、1515年でフランス国王フランソワ一世に破れると領土拡大を停止し「欧州全体に対する傭兵供給国」に移行する。
*「欧州全体に対する傭兵供給国」…カソリック圏とプロテスタント圏の双方を備えていたので(主に一向宗に傭兵を供給した)雑賀衆と(主に一向宗鎮圧に手を焼く戦国大名側に傭兵を供給した)根来衆の機能を併せ持っていた。ただこの構造が19世紀に入ってから内戦を引き起こしフランス7月革命(1830年)の遠因の一つとなる。そう、あたかもオランダにおける「総督」オラニエ=ナッサウ家と都市貴族の内戦がフランス革命の遠因の一つとなった様に。

  • ただでさえ「鶏肋攻略価値皆無の不毛な土地柄)」なのに加え「この国に戦争を挑むと傭兵の供給を絶たれるばかりか、敵国への傭兵供給量が増大する」なるジレンマから、どの国も迂闊には攻められなくなってしまった。また欧州中に傭兵采配用の事務所を置いた事から中世の修道騎士団の様に(自ら十分な財産庇護能力を備えた)金融機関としても成長を開始する。ただし傭兵稼業自体はソルフェリーノの戦い(1859年6月24日)などで無能な指揮官に大量の無駄死を強要されたのを契機に次第にフェイドアウト。以降はカナダ人や南アフリカ人が傭兵供給源の座を継承する展開を迎えた。

    ソルフェリーノの戦い(1859年6月24日) - Wikipedia

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  • 無主の国」なので旧フランドル地方同様に「領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的権威体制」に阻害される事なく自然発生的に資本主義経済が発展。チーズ消費量を増大させる為に「チーズフォンデュ」や「ラクレット」といった料理法を輸出する様な戦略的動きも見せる。

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    *思えばフランス宮廷料理に「おこげ」なる田舎料理的発想が導入されたのもドーフィネ地方(フランスから、ローマ教皇庁のあるイタリアに抜ける狭隘な陸路を抑えたフランス国王直轄領)がフランス皇太子の所領となる慣例があったからとか。しかもこの地域、その地形の苛烈さ故に第二次世界大戦中、ナチス支配下のフランスで終始最も勇敢に抵抗運動を続けたマキ(maquis、山や森を本拠地としたレジスタンス組織)の拠点ともなっている。メンバーもガチな王党派ばかりでなく、様々な左翼に加えて「スペイン内戦を生き延びたスペイン人共和主義者達だけで構成された部隊」まで混ざっていたという。

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    ナポレオン戦争に従軍したジャコバン派残党がイタリアに伝えたとされる秘密結社「炭焼党(伊カルボナリCarbonari、仏シャンボリーCharbonnerie、1806年〜1832年)」にも同種の「解放区独特の玉石混合状態」が見受けられる。それにつけても牛乳(生クリーム)と卵…思わずアルザス=ロレーヌ(仏Alsace-Lorraine、独エルザス=ロートリンゲン(Elsaß-Lothringen))の名産キッシュ(Quiche)を連想してしまう危うさよ…

    f:id:ochimusha01:20180831095436j:plainf:id:ochimusha01:20180831095708j:plain*「そうだオイルを乳化させたら卵なんていらないじゃないかな」…オランディーヌ(バター・ベースの「オランダ風ソース」)とマヨネーズ(オリーブ油ベースの「マヨルカ島風ソース」)が対峙する世界へようこそ?

まさにこういう特異な歴史を有する国だからこそ「制度や法律が人間が生得的に備えた自然権を侵害するなら、これを撤廃してかなわない」と断言するジャン・ジャック・ルソー人間不平等起源論Discours sur l'origine et les fondements de l'inégalité parmi les hommes、1755年)」や、「全ての権力、すなわち領主が領土や領民を全人格的に代表する農本主義的権威体制は一刻も早く滅ぼし尽くすべき絶対悪である」と断言する文化史学者ヤーコプ・ブルクハルト「イタリア・ルネサンスの文化Die Kultur der Renaissance in Italien, ein Versuch、1860年)」の様な無政府主義的大著が生まれ得たのであって、全く異なる歴史を有する他国が迂闊にその言葉に耳を傾けるとホロコーストに次ぐホロコーストを覚悟しなければならなくなるのである。

フランス革命下の一市民の日記 1792年の8月 | remove

そもそも織田信長はなぜ雑賀衆を、豊臣秀吉はなぜ根来衆を「鶏肋」と捨て置かず徹底介入によってその伝統的共同体としての存続を阻止しようとしたのでしょう? 彼らの無政府主義イデオロギーが将来引き起こすであろう価値観の混乱をある程度まで見越していたからかもしれません。実際、欧米史は想像以上にスイスのそれに振り回される展開を迎えてしまうのです。特に「大国」フランス…

まず真っ先に注目すべきは、彼らの無政府主義アイデンティティが日本の三河武士団を連想させる「伝統的共同体としての部族的紐帯」と表裏一体の関係にあるという事である。実際、スイス傭兵の強さを支えた「槍歩兵の密集突撃」は「戦場で怯懦な振る舞いをすると故郷で家族が悪口を言われ放題になる田舎者的恐怖」に支えられていたという。まさに「三河武士団の強さ」と同根…

  • ブルクハルト「イタリア・ルネサンスの文化Die Kultur der Renaissance in Italien, ein Versuch、1860年)」における一番の衝撃は(互いに憎み合う一族が延々と名誉回復を大義名分に掲げて復讐合戦を繰り返す)ヴァンデッタ(Vendetta)の慣習が「伝統的共同体としての合理主義的判断を超越し、自らの感情の赴くまま殺し合うなんて、なんて素敵な事だろう」と絶賛されている点にある。

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    *要するにスイス人アイデンティティには一切ない発想なのでルネサンス人の暗黒面を純粋にファンタジーとして楽しんだのである。この辺りも実に三河武士団っぽい?

  • 逆に実際のスイス人は部族的紐帯に固執するあまり逸脱行動も余所者も一切許さない。フランスから追放されたユグノー指導者の一人ジャン・カルヴァンジュネーブで遂行した神権政治1541年〜1564年)にもその片鱗が良く現れている。カルヴァン自身はフランス人だったが、そのプロティスタントとしての厳格なまでの理想追求姿勢がスイス人アイデンティティと見事に合致したのだった。
    *スイス人は反権力的なのではなく、あくまでそれが伝統的共同体の規範や部族的紐帯に埋め込まれている場合のみ、ただしその場合には絶対服従の対象として粛々と従うのである。日本のアナキズム領域における「(フランスにも輸出された)キャプテン・ハーロック問題(すなわち来る者は拒まず、参加後も誰もが自由意志に従って好き放題に振舞って良いが、有事に際しての船長の命令だけは絶対で離脱も簡単には許されない海賊稼業を巡るジレンマ)」問題とも重なる箇所が少なくない。実際「小国」には、それくらい苛烈な覚悟がなければ生き延びられない瞬間というのがある。

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    黒川知文「ライフワークの発見と実現」

    ユダヤ系オーストリヤ人の評論家であるS・ツヴァイクに、『権力とたたかう良心』という書がある。(原題“Ein Gewissen gegen die gewalt”翻訳は『ツヴァイク全集』15 みすず書房 1963年)

    この書はまさに、カルヴァンとカステリヨンとの紛争を、カステリヨンの立場になって書かれたものである。この書が書かれたのがナチス・ドイツの台頭した頃であり、ツヴァイクは、カルヴァンヒトラーと同一視していた可能性もなくはないが、この書において、カルヴァンは「独裁者」と扱われている。  

    しばらく、ツヴァイクの観点にたって、カステリヨン事件を再考してみる。  

    「ついきのうまでカルヴァンを歓呼していた連中まで呻き声をたてはじめた。しかし独裁者の人格的な栄光を揺り動かすためには、眼にはっきりと見え、だれにも理解できるような原因がなければならない。」(同書91ページ)  

    カステリヨンが翻訳した聖書をカルヴァンは批判した。これが、両者の最初の衝突であった。この点についてツヴァイクは、カルヴァンはみずからの近親者がすでに聖書をフランス語に翻訳していて、その序文を書いており、カステリヨンの翻訳に対して、なんと図々しいことではないかと思ったと述べている。さらに、カルヴァンの認可がなければ書物が出版できない状況に関しては、独裁政治につきものの検閲であると評している。(103ページ)  

    第二の衝突である、カステリヨンの牧師試験落第。これは、彼が『雅歌』を聖書の正典とみなさなかったことと使徒信条のキリストのよみ下りを認めなかったことがその原因であったが、ツヴァイクは、カルヴァンの偏狭さにその原因はあったとしている。  

    カルヴァンはキリストを無慈悲で形式主義的な法律家と見、その福音を硬直して図式的な奉天だと考えていたが、カステリヨンの見るキリストはそれとちがっていた。彼がキリストのなかに見たものは最も人間的な人間、倫理的な模範であって、それぞれの人間は各人の流儀に従って、それも真理を知っているのは自分ひとりだけなどと主張することなく謙虚にキリストを見倣わなければならないと考えていた。」(112ページ)  

    そして、両者の抗争の決定的事件となった牧師会におけるカステリヨンの非難に関して、ツヴァイクは、カルヴァンの反論しない態度を批判している。  

    カルヴァンは、道徳に関する論争を規律に関する訴訟にすりかえてしまって、カステリヨンを宗教評議会にではなく、世俗の権力のまえに呼びだしたのであった。…市参事会員たちはいやいやながら集った。」(114ページ)  

    カルヴァンがカステリヨンを追い出したのは、カルヴァンの嫉妬によるものであった、というのが、ツヴァイクの結論である。そして、カルヴァンは、「策略家」「独裁権力」、カステリヨンは、「精神の自由」の具現者として描かれている。
    *故郷オーストリアにおいて同時期ツヴァイクと同様の迫害を受けたピーター・ドラッカーも、ナチスの「正義の絶対的批判者の仮面を被る一方、自らへの言及は決っして許さない偽善」が最も許せなかったと述べている。

    *スイス政府の公式態度同様、マックス・ウェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(Die protestantische Ethik und der 'Geist' des Kapitalismus、1904年~1905年)」は、かかるプロティスタンティズムの苛烈さこそが資本主義の大源流とするが、これにインフラを供給した「契約社会」はまた異なる歴史と伝統を有するからややこしい。

  • こういう有様だからあくまで当事者の関心の一切が自分の事のみに集中し、他国の歴史や伝統への配慮など一切期待出来ない。日本にフランス料理を伝えたユダヤ系スイス人の料理長サリー・ワイルも(ヴェネツィアの郷土料理的色彩が強い)ライス・グラタンに(ヴェネツィアの宿敵ジェノバの名海将ドーリアの名前を与える様な杜撰さを備えていた。

    *同じ黄色系食品染料でもターメリックは中東経由の熱帯アジア原産、サフランは「フランス一番の素封家」オルレアン家の財源だったりする。そしてさらに「デンバー漬け(沢庵に見立てたターメリックによる黄色染め)」なんてのもあるのか…

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    サフラン(Crocus sativus、蘭: saffraan、英: saffron、仏: safran) - Wikipedia

    アヤメ科の多年草およびそのめしべを乾燥させた香辛料をさす。西南アジア原産で、最初に栽培されたのがギリシアとされる。サントリーニ島で発掘されたミノス文明のフレスコ画など地中海諸島の壁画遺跡から青銅器時代から栽培されていたと推測されている。

    紀元前から世界各地でそのめしべが香辛料・染料・香料・薬用として利用されてきた。古代ギリシアではサフランの黄色を珍重し、王族だけが使うことを許されるロイヤルカラーとされた時代もある。重量単位で比べると世界で最も高価なスパイスのひとつであり、遺伝的に単形クローンであることから分布の拡大は遅く、ユーラシア全域に広がった後に北アフリカ、北アメリカ、およびオセアニアに持ち込まれた。

    サフランの語源には諸説ある。12世紀の古フランス語 safran からたどると、ラテン語 safranum、さらにペルシャ語 「ザアファラーン」(zaʻfarān زَعْفَرَان)、あるいはさらに古い言葉 zar-parān (زرپران) へとさかのぼる可能性もあるという。アラビア語 az-za'faran (زعفران) が語源という指摘もあるが確認されていない。その栽培は3000年以上前から記録に残り、おそらく原種の Crocus cartwrightianus から雄蕊が長いものを選別した変異体 C. sativus が青銅時代に確立して以来、栽培が続いてきたと考えられている。調理に関わる記述にサフランの名が初めて現われたのは、いまから数千年前のペルシャ語の資料である。

    文献によるとヨーロッパ中世には「サフランの束法」 (Safranschou code) が制定され、混ぜものをしたサフランの販売は死刑に相当した。その手口はテーブルビートやザクロの果皮や赤く染めた絹糸の混入、あるいは味も香りもしないサフランの花柱を増やしたのである。あるいはまた、サフランの繊維を蜂蜜や植物油に漬けて重量を増やす方法もあった。しかしさらに品質の偽装が疑わしいのは粉末状のサフランで、ターメリックやパプリカほかの粉末でかさ増しをしたり、等級の異なるサフランを混ぜてごまかしたりした。インドでは高品質のカシミールサフランにイラン産の安価な輸入品を混ぜた商品をしばしば見かけるという。純粋なカシミール産といつわって流通するため、カシミールの生産者は収入を脅かされている。

    南ヨーロッパ、南アジア北部、中央アジア西アジア北アフリカにかけて料理の色付けや風味付けのための香辛料として使用される。プロヴァンス地方の名物料理ブイヤベースやスペイン料理のパエリア、ミラノ風リゾット、モロッコ料理のクスクス、インド料理のサフランライスには欠かせない。トルコのサフランボルでは湯を注いで「サフラン・ティー」として飲まれている。

    日本では、咱夫藍の漢字を当てる。洎夫藍、洎夫蘭、泊夫藍などの表記も見られるが、いずれも字音が合わず、誤字である。江戸時代に薬として伝わった。国内での栽培は、1886年明治19年)、神奈川県大磯町(旧国府村)の添田辰五郎が病気の母親のため、球根の輸入と栽培を試みたのが始まり。1897年(明治30年)に内務省横浜衛生試験所の認定を受け、商品化・輸出されるようになった。1903年明治36年)には、辰五郎から球根を譲り受けた吉良文平によって大分県竹田市へ伝わり、同地は名産地になった。現在、日本国内の約8-9割が竹田市で生産されている。他の産地は宮城県塩竈市などである。

この(自国の影響で)他国においてホロコーストの嵐が吹き荒れても「すごーい!!、楽しい!!」としか感じない心理について動物学者コンラート・ローレンツの「攻撃1970年)」「ソロモンの指環 動物行動学入門1987年)」において提示された「狼は狭い檻の中に一緒に閉じ込めておいても互いに殺しあわない。だが鳩はどちらか一方が死ぬまで殺し合う」なる逸話を思い出させる。総力戦となれば互いに大被害が出る覚悟を決めなければならなくなる恐怖と戦ってきた「大国」同士の関係と異なり、「小国」は隣接する「大国」を混乱の坩堝に叩き込んで干渉してくる余地を奪えば勝利なので、案外そうした工作を非道と考える心理が育た無いものなのかもしれない。 

 

それでは実際に「小国」スイス人の口車に迂闊に乗ってしまった「大国」フランスにおいては何が起こってしまったのか?

18世紀後半は皮肉な時代で「フレンチ・インディアン戦争French and Indian War、1755年〜1763年)」によって北米大陸から(それまで英国と勢力争いを繰り返してきた)フランスの影響力が消失すると植民地13州が英国からの独立を志向して「アメリカ独立戦争American War of Independence、1775年〜1783年)」を起こし、「外交革命独Umkehrung der Allianzen, 仏Révolution diplomatique, 英Diplomatic Revolution、1756年)」によって17世紀以来敵対関係にあったフランス王統ブルボン家神聖ローマ帝国皇統ハプスブルク家が和睦して双方の宿敵たるプロイセン王国を沈静化させると戦争の種が尽きてフランス国民の不満が「一人勝ち状態」のフランス国王にのみ向かう様になって「フランス革命1789年〜1799年)」が勃発してしまう。

フランス人権宣言1789年)」すなわち「人間と市民の権利の宣言仏Déclaration des Droits de l'Homme et du Citoyen、1789年8月26日)」の第六条には、ルソーの一般意志理念に従って「全ての市民は、法の下の平等にあるので、彼らの能力に従って彼らの徳や才能以上の差別なしに、全ての公的な位階、地位、職に対して平等に資格を持つ」「各人の自然権の行使は、社会の他の構成員にこれらの同一の権利の享受を保証するという限界だけしか持たない」と規定されたが王侯貴族や聖職者は市民に数えられず、次々と処刑されていく。

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  • 隣国オランダが総督派と都市貴族派に別れて内紛を続けているので介入した事に始まる)革命戦争が泥沼化した1793年には、国民のうち圧倒的多数を締める王党派も市民の枠から外されて私刑で殺され始める。リヨンやトゥーロンといった大都会においては設備の徹底破壊と霞弾による住民の大量虐殺が横行。王党派本拠地たるヴァンテでは戦線後方で「見つけ次第次々と妊婦の腹を裂き、赤子を竃に放り込む民族浄化任務」に嬉々として従事する地獄部隊(Colonnes infernales)が跋扈。
    リヨンの反乱(Siège de Lyon) - Wikipedia
    トゥーロン攻囲戦(Siege of Toulon) - Wikipedia
    地獄部隊(Colonnes infernales) - Wikipedia

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  • 戦局が落ち着くとフランス国民は今度は、かかるホロコーストを引き起こした戦争犯罪者の処刑を求め始めた。ロベスピエールら当時の首脳陣は「処刑実務担当者に全責任を押し付けて処刑する」計画を練っていたが、逆に処刑実務担当者が蜂起してロベスピエールら当時の首脳陣に全責任を押し付けて処刑してしまう(テルミドール反動、1794年)。一般に革命はこれで終わったとされるが王党派に対する虐殺は以降も続き「ヴァンデミエールの反乱Insurrection royaliste du 13 Vendémiaire an IV、1795年)」でも霞弾斉射が大活躍。「いかなる暴徒も先頭の500人が霞弾斉射で一瞬にしてミンチ肉に変貌せしめれば、残りは逃げ散るだけだ」と豪語する現実主義者のナポレオンが次第に頭角を表してきて最終勝者となったのだった。そしてそのナポレオンが最終的に決定的敗者となる形で「総力戦体制イデオロギー」が欧州全体に伝播する。

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    *「最後は大砲が勝つ」結末を迎えたのは何もフランス革命ばかりではない。

こうして全体像を俯瞰してみると①原則として天賦人権説を採用しつつ、地主と親日派の親類縁者はその例外とも規定し、②結局(偉大なる金一族を除き)誰もが地主と親日派の親類縁者である可能性を否定出来無いので(権力さえあればいくらだって捏造可能)事実上国民全てから基本的人権が剥奪され、ミニスカートを履いても韓ドラを見ても見せしめとして機関砲斉射や猟犬嗾送によって処刑される様になり③遂には強制収容所が設置区域住民を隷従させる権利まで獲得した北朝鮮も「革命の現実」からそれほどの逸脱はしていない。知識人や富裕層を処刑し尽くしたばかりかベトナム系市民の民族浄化に乗り出したポル・ポトクメール・ルージュ)政権にしたってそう。肝は土地価値説(土地だけが価値あるものを生み出す)に基づく「貧富格差を生み出す資本主義的発展は絶対悪従って人道主義と人類平等を復活させる為には関係者全員を皆殺しにする必要がある)」なる反近代的原理主義であり、そういう状態を「すごーい!!、楽しい!!」と褒めるばかりで特権階層への贅沢品供給先として取り込んできたスイスの文化相対主義cultural relativism)とも。ちなみに一時期は国際規模で海上帝国を構築したオランダにも似た側面はあり(オランダ商人は中国皇帝に対して平然と三跪九叩頭の礼を実践してのけた。一方、それだけは誰もが徹底して拒絶し抜くのが大英帝国大日本帝国の臣民となる。そして間をとって「臣民から誰も見え無い場所でこっそり中国使節団に対して三跪九叩頭の礼を捧げる」苦渋の道を選んだのが琉球王朝支配階層だったのである)、そういうのをまとめて「小国主義」と呼びたくなる。

こうした大虐殺の連鎖とナチスの遂行したホロコーストは何処が違うのでしょう?

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というかそもそも以下の全てが同じ言語ゲームSprachspiel)、すなわち集-立(Ge-Stell)システム(後期ハイデガーいうところの「特定目的達成の為に手持ちリソース全てを総動員しようとする権威主義的制度」)を稼働させる覚悟に欠けた軽薄極まりない思いつきから始まったと考えるべきなのではないでしょうか?

  • 内紛のガス抜き先を探していたフランス革命政府の「(総督派と都市貴族派の内紛の続くオランダに進出すれば解放者として歓迎されるはず」なる軽薄極まりない思いつきから始まった「フランス革命戦争仏Guerres de la Révolution française, 英French Revolutionary Wars、1792年〜1802年)」。
    フランス革命戦争 - Wikipedia

  • 南アフリカ植民地の商人や英国系新移民が(内政問題で手詰まり感のあった)本国政治家と癒着し、現地のオランダ系旧移民を打倒せんとして大英帝国を動かして始めた「ボーア戦争英Boer Wars、アフリカーンス語Anglo-Boereoorloë、1880年〜1902年)」。やはり泥沼化して大英帝国からユーラシア大陸帝政ロシアと対抗する余力が奪われ(18世紀英国がプロイセン王国と結んだ様に日英同盟締結が待ったなしとなった。
    ボーア戦争 - Wikipedia

  • フロンティア消滅宣言(1890年)に伴うリストラを恐るアメリカ軍人と発行部数を伸ばしたいイエロージャーナリズムが手を組んでカリブ海方面や太平洋方面で次々と侵略戦争を起こしていった「アメリカ帝国主義1890年〜?)」。
    *しかも国民動員の建前から「この世には正義と悪が存在し、アメリカは常に正義の側に立つ」というスタンスを貫いてきたのがかえって恐ろしい。

  • 大日本帝国青年将校達が「南京さえ陥落させれば国民党は向こうから勝手に降伏してくる」と楽観的に考えて上海攻略戦を進め、結局国民党幹部も国民党主力も重慶に逃してしまって戦局を泥沼化させた「日中戦争1937年〜1945年)」。
    *そう、上海攻略戦は「大虐殺があったから絶対悪」なのではない(というか本当に(中国共産党発表の様に)軍民合わせて30万人以上殺せてたら敵主力殲滅にも成功していた筈で、そうしたら以降の苦労はなかった)。これをやらかしたからこそ絶対悪なのである。当時の軍部とマスコミが「(実際には地獄の入り口となった)南京入城(笑)」をあたかも大勝利の様に宣伝して国民を誤った方向に導いたからこそ絶対悪なのである。

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  • 欧州各国においてマイノリティとして弾圧されているドイツ系市民を救済する」なる大義名分を立てて「第二次世界大戦1939年〜1945年)」を始めてしまったナチスドイツ。
    *そういえばナチス幹部は(多民族国家ゆえにドイツ系市民が相対的に冷遇された)オーストリア出身のアドルフ・ヒトラー総統を筆頭に植民地商人や外交官の子弟の数が突出していたのである。
  • 金日成スターリンを「米帝の傀儡国家に過ぎない韓国など、北朝鮮軍が進出したらたちまち崩壊します」と「説得」した事から始まった「朝鮮戦争1950年〜1953年)」。一説によればこの時すでにスターリンアルツハイマーに罹患し正常な判断力を失っていたという。
    朝鮮戦争(1950年〜1953年) - Wikipedia

とはいえ(革命戦争を引き起こしてしまった)フランスや(朝鮮戦争を引き起こしてしまった北朝鮮を除いた上掲の「大国」には明らかに(数多くの成功体験に裏付けられた)「(大義名分立てはどうあれ我が国の集-立Ge-Stellシステムは一旦稼働さえすれば無敵」なる強い自負心が実存した事実も忘れてはなりません。

そう、少なくとも(実際に、かかる形でのフランス革命を現実として体験した)サン=シモン伯爵(Claude Henri de Rouvroy、Comte de Saint-Simon、1760年〜1825年)や「パサージュ論の祖シャルル・フーリエFrancois Marie Charles Fourier、1772年〜1837年)は(三十年戦争(1618年〜1648年)を経験したデカルト同様に)かかる現実を直視しつつ「(あれだけ堅牢だったフランス身分制を崩壊させるには、それだけの破壊が必要だったのだ。だから今こそ新しいフランスの再建を始めよう」と提唱し「馬上のサン=シモン」皇帝ナポレオン三世がその遺志をついてフランスに産業革命を根付かせたのです。かくして「(英国やオランダやスイスの様に自然発生的に産業革命が需要可能だった国々とは異なる後進国なりの産業革命導入プロトコル集-立(Ge-Stell)システム)」が確立されると、その影響が(南北戦争(American Civil War1861年〜1865年)における北軍勝利を通じてやっと導入条件が満たされたアメリカ合衆国や(皮肉にも普仏戦争勝利によって建国原資を獲得したドイツ帝国や(まさにオランダとの腐れ縁を打ち切って文明開化期を迎えたばかりの大日本帝国にまで及んだのもまた事実なのです。

*サン=シモン主義…「今日のフランスにおける社会主義共産主義(Der Sozialismus und Kommunismus des heutigen Frankreich, Leipzig 1842, 2. Aufl. 1847年)」によってフランス初期社会主義共産主義思想、並びにプロレタリアート概念をドイツにおいて、初めて学術的にまとまった形で紹介したローレンツ・フォン・シュタイン(Lorenz von Stein、1815年〜1890年)は、伊藤博文(当事者に直接2ケ月師事)、マルクスバクーニン(その著作を読んで私淑)の師匠筋に当たる。そして中でも今日の中国共産党ベトナム共産党の経済的成功は(実際に数多くの国に移植実績がある)サン=シモン主義に立脚する部分が大きく、実際に井上純一「キミのお金はどこに消えるのか」 に聞き手として登場する「中国人の月(ユエ)さん」は、割とこの立場に立脚した発言に終始する。

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むしろここは「フランス人特有の偽善的物言い」に従って「反省したら負けポジティブシンキングにつなげたら勝ち)」と考えるべきかも。なにせ「反差別主義は必ず究極的には自らか新たに選出されたスケープゴートに向けたホロコースト提唱か、そこまで踏み込め無い偽善主義に到達する」という考え方まであるくらいですから。

ところで、こうした展開の全体像を「フランス人特有の偽善的物言い」では「ロベスピエールは所詮、ルソーの血塗られた手に過ぎなかった」と要約する訳ですが、それはそれで違う気もしています。あまりにその言動がスイス人過ぎて(彼をフランスでもてはやした)百科全書派の友人達から一斉に絶縁されたルソーが歴史上でそういう役回りを果たすには、また別の仲介者が必要だったのですね。

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「革命のモグラ」エマニュエル=ジョゼフ・シエイエス(Emmanuel-Joseph Sieyès、1748年〜1836年) - Wikipedia

フランスの革命指導者、政治家、聖職者。総裁政府の5人の総裁のひとり(ルーベルの後任)。第三身分出身でフレジュスにて徴税人の子として生まれる。ドラギニャンのセミナリオで学ぶ。父親の勧めで聖職者となり、アベ・シエイエス(Abbé Sieyès)とも呼ばれる。1788年オルレアン州議会の聖職階級議員となり、政治にも関与している。この年に『特権論』を発表している。
ジロンド派の指導者ジャック・ピエール・ブリッソー(Jacques Pierre Brissot, 1754年〜1793年)同様にバスティーユ襲撃(仏prise de la Bastille、1789年7月14日)とヴェルサイユ行進(La Marche des Femmes sur Versailles、1789年10月5日)の黒幕と目され、7月革命(1830年)でブルボン家との王統交代に成功するオルレアン家のパトロネージュを受けていた可能性が指摘されている。しかしまぁ「利用可能なリソースは全て利用し尽くした末に好き放題やる」のが当時のフランス革命家の甲斐性だった事実もまた揺らがない。

1789年1月刊行の著書『第三身分とは何か』において「フランスにおける第三身平民こそが、国民全体の代表に値する存在である」と訴え、この言葉がフランス革命の後押しとなった。1789年6月17日、国民議会を設立。8月には貴族の特権が廃止された。シエイエスは、貴族に補償金を払うべきと提案するが、他の第三身分議員から却下された。フランス革命初期に活躍。ジャコバン派が権力を握った恐怖政治の時代には逼塞して生き延びた。「革命のモグラ」の異名を持つ。1795年に公安委員会委員になり、政界に復帰し、国民公会委員長になった。しかし、総裁政府に入るのは拒否した。その後プロイセン全権大使を務め、1799年にフランスにもどった。

1789年のフランス革命後の憲法制定に際して「第二院が代議院と一致するときは、無用であり、代議院に反対するならば、それは有害である」として、二院制を批判したとされる。ただしシエイエスらがフランス革命期に作った一院制の議会である国民公会は暴走を起こし、政敵である少数派を次々に死刑にする恐怖政治を引き起こしてた。恐怖政治はテルミドール9日のクーデターにより終結させられ、一院制国民公会はわずか3年でなくなり、その後できた共和暦3年憲法では、恐怖政治への反省から、二院制の議会が作られている。

総裁政府の末期に総裁の1人に就任。強力な政府の樹立のため、軍隊に人気のあるナポレオンに接近してブリュメール18日のクーデターを起こす。クーデター成功により臨時統領の1人に就任するが、統領政府を樹立する過程で、軍事力を有するナポレオンに主導権を奪われ、実権のない元老院議長に棚上げされた。1808年帝国伯爵位を与えられる。

王政復古により国外追放となるが、七月革命後に帰国してパリで没した。

 いやもう、この人一人こそ本当の意味で「フランス革命の黒幕」でしょう…

 でも「フランス人特有の偽善的物言い」では悪いのは全部ルソー。フランス人が事件を起こす都度「きっとそいつアルジェリアかモロッコ国籍」とか言い出す性根の腐り具合は「ネトウヨの在日認定」とほとんど大差なし?