諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【カール・シュミッツの政治哲学】【呉越同舟】友・敵関係(Freund-Feind Verhältnis)の現在?

カール・シュミッツの政治哲学」なるもの、本気になって取り組めば取り組むほどその論破が難しい現実を思い知らされる事になるのです。
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コトバンク「友・敵関係(Freund-Feind Verhältnis)」

C.シュミットが『政治的なものの概念1927年)』において提起した概念。政治の本質は友-敵の対立状況において根源的に表われると彼は考える。近代の多元的国家論が国家にとっての敵を明確に定義できないために問題の決定を遅らせていることを批判しつつ,彼はワイマール時代のドイツの政治的混乱を解決するためには国家にとっての真の敵,つまり共産主義勢力の一掃が必要であると説いた。彼にとって政治の本質は例外状況である戦争に現れるのである。この概念はナチズムの思想に受継がれ,やがてはヒトラーの独裁を正当化する根拠にもなった。

なにせ古今東西を問わず同種の金言に事欠かない有様ですから。

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善く兵を用いる者は、率然の如き存在である。
率然…常山に陣取るとされる双頭の巨蛇。

頭を攻撃すれば胴体と尻尾も敵に回す。尻尾を攻撃すれば頭と胴体も敵に回す。胴体を攻撃すれば頭と尻尾も敵に回す。

ならば何が兵を率然の如く一体化とせしめるか。誰もが知ってる様に呉人と越人は互いに憎み合っている。

しかしながら、それにも関わらず同じ船で風に乗って川を渡る際には互いに左右の手の如く協力し合うものである。
*すなわち、かかる状況を現出させる能力こそが兵を率いる将に求められる資質となる。「背水の陣」などもその一手なり。

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 むしろその論破は「集-立Ge-Stellシステム後期ハイデガーいうところの「特定目的達成の為に手持ちリソースを総動員しようとする体制」)」としての破綻によって自然に達成される側面もあったりする辺りが興味深いとも。
*欧州において「呉越同舟」といえばフランス王統ブルボン家神聖ローマ帝国皇統ハプスブルグ家が(宿敵プロイセンを滅ぼす為に)過去を水に流した「外交革命(独Umkehrung der Allianzen, 仏: Révolution diplomatique, 英: Diplomatic Revolution、1756年)」となるが、その結果国際戦争のタネが尽きて国民の不満がフランス宮廷(国王とその取り巻き貴族)に集中する様になってフランス革命が勃発してしまう。

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  • 最近、ポリコレ論が煮詰まってリベラル側が「人道主義と人類の平等の理念は、ホモウヨやレズウヨやウヨ身障者や(琉球人やアイヌを含む)ウヨ異邦人を誰もが自発的に歓喜に包まれながら家族ごと私刑で虐め殺すのが日常茶飯事になって初めて達成される」とか言い出した。そのせいで彼らが求めてるのが主権概念登場以前の世界、すなわち冲方丁が「微睡みのセフィロト2006年)」の中で描いた「中世とは誰もが笑いながら歌って踊りながら楽しく暮らす世界だった。何故なら「もしかしたら心から一緒に楽しんでない?」「彼らは私達と完全に同じではない異端?」と周囲から疑われた次の瞬間には一族郎党ことごとく私刑で惨殺されたり、密告で魔女狩りや異端審問に検挙されて火炙りにされてしまう緊張感が常に表裏一体で漂っていたからである」なる価値観への回帰である事実が暴露されたといえよう。ちなみに別に日本に限った話でもない。
    福沢諭吉が嫌悪した「政痴=政治の話になると狂った様に自分の主張だけを唯一無二の正義として通そうそうとする人々」のリヴァイヴァルとも。逆をいえば、それだけ「主権者の自由」を盲目的に全面的に容認する政治的態度は進歩主義的過ぎたのである。

    こうした歴史的流れは一応「主権者」の登場を徹底して忌み嫌う「大同主義」とか「大同思想」といった伝統的思考様式、すなわち「国民全員に自分と異質な一切を家族ごと虐め殺すすなわち再生産の可能性を完全に断つ自由を保障した結果達成される均質性」の系譜に位置付けられる。

    ところが人類の個性を求める欲求はさらに苛烈であり、国民全員に国民服や人民服を強制しても「個人間のファッション・センス格差」は根絶不可能だったし、どんなに便利な調味料が普及しても「家庭の味の差」はなくならなかった。こうした現実によってこの路線は行き詰まる展開を迎える。
    *そして皮肉にも「総力戦の遂行」なる第ニ次世界大戦下のイデオロギーは女性やマイノリティの社会進出に歯止めを掛けられなくなった側面を宿していた。むしろ多様化を解き放ってしまったのである。

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    *英国における女性参政権運動たるサフラジェット(Suffragettes)が興味深いのは(アイルランド解放運動に同情的だった)自由党や(社会主義的理想の実現を看板に掲げていた)労働党といったいわゆる進歩派政党が積極的弾圧に回っている辺り。というのも当時の英国では女性や労働者の政治動員について保守派が圧倒的アドバンテージを有しており、選挙権が拡大すればするほど保守党が圧倒的勝利を飾る図式が出来上がっていたからである。こうなるとさらに「進歩主義とは何か?」が問われる展開に。「労働者も女性もバカだから我々の善導に盲目的に従え」なる民主集中制的選民意識には誰もついてこなかったのである。

  • もう一つの力の源泉がイブン・ハルドゥーンいうところの「(中央集権を脅かす辺境部族の紐帯」。例えばロマネスク時代(10世紀〜12世紀)欧州ではハスカール(従士)制によって組織されたヴァイキングカール大帝ザクセン征伐を契機に文明化が始まった北欧諸族の略奪遠征)のうちデーン人がグレートブリテン島侵略後に祖国で王国群を建築し、ノルマン人(ノルマンディ泊地に拠った集団)がフランス国王の家臣となる一方でイングランドシチリアと中東で国王となってイスラム世界の技術を習得しつつ(西ゴート王国末裔たるアストゥリアス貴族や(ランゴバルト王国末裔たるロンバルディア貴族や(ブルグント王国末裔たるブルゴーニュ貴族と(アニミズム色が強い壮麗な)クリューニュー修道会運動や(日本でいうと修験道に近い僻地での修行に執着する)シトー修道会運動を展開し、ロシア平原に進出したヴァリャーグが冒険商人として東欧に都市国家群を建築したり黒海まで出て東ローマ帝国の傭兵になったりしている。とはいえ彼らの多くは次のゴシック時代(12世紀〜14年)に名家として残れず、圧倒的多数を占める領民にただ飲み込まれていってしまったのだった。
    *西欧ではこれ以降「強力な部族的紐帯を有する別の辺境部族が台頭して全文化圏を席巻する」サイクルが繰り返されず、独自の歴史を歩み始めるのである。

    その一方で同時期東欧に到着して神聖ローマ帝国服従を誓ったマジャール人は以降もハンガリー貴族として存続し「オーストリアハンガリー二重帝国独Österreichisch-Ungarische Monarchie または Kaiserliche und königliche Monarchie、ハンガリー語: Osztrák-Magyar Monarchia、1867年〜1918年)におけるハプスブルグ家の相方にまで選ばれている。こうした「多民族帝国におけるドイツ系市民の相対的冷遇」がアドルフ・ヒトラーの選民的ルサンチマンにつながっていったのは有名な話。
    *ここから「(帝政ロシアも含め)東欧は本当にイブン・ハルドゥーンいうところの王朝交代史観から脱却出来ていたのだろうか?」という問題が浮上してくるのである。

  • そして「(十分な火力を装備した常備軍を中央集権的官僚制に基づく徴税で養う主権国家」は、英国においては「薔薇戦争1455年〜1485年 / 1487年)」、フランスにおいては「公益同盟戦争1465年~1483年)」と「フロンドの乱1648年〜1653年)」を経て大貴族連合が自滅的最後を遂げて以降可能となった歴史的事実も忘れてはならない。彼らはそれぞれがあまりにも身勝手過ぎて「例外状態」に到達し「黄金の自由ラテン語Aurea Libertas アウレア・リベルタス、ポーランド語Złota Wolność ズウォタ・ヴォルノシチ)」を謳歌したポーランドの様な貴族共和国段階に到達する事など到底不可能な状態に陥ってしまったのだった。
    黄金の自由 - Wikipedia

    一方、ドイツは不幸にもプロイセン宰相ビスマルクの画策でドイツ帝国が誕生して以降、こうした問題をまともに超克してきた歴史を備えていなかった。そうした現実を踏まえずには当時ドイツが抱えていた政治的統合の不可能性が見えてこないのである。

  • カール・シュミット当人は晩年には地政学に熱中したが、そこで展開される「大陸国家と海洋国家は必ず互いに連合して最終戦争状態に突入する」なる思考様式自体も(英米を盟主とする連合国側とナチスドイツ占領下欧州の対決を正当化せんと狙う)時局の反映に過ぎず、しかも穴だらけ。彼はイタリア王国大日本帝国も「典型的な伝統的大陸国」としたが、あまりにも各国の歴史に対する配慮が不足していたとしか言い様がない。さらにはスペインが大陸国家でアメリカやソ連が海洋国家とする評価基準に至っては完全に恣意性が見え隠れしている。

    欧州に近世以降実際にあったのは「カール大帝以来の歴史的ヨーロッパ概念の体現者」カール5世(Karl V., 神聖ローマ帝国皇帝在位1519年〜1556年 / スペイン国王1516年〜1556年)や「太陽王ルイ14世Louis XIV、ブルボン朝第3代フランス王在位1643年〜1715年)や「啓蒙専制君主プロイセン国王フリードリヒ2世(Friedrich II., 第3代プロイセン王在位1740年〜1786年)や「最も成功したコルシカ出身者ナポレオン1世Napoléon Ier、フランス第一帝政皇帝在位1804年〜1814年、1815年)や「ナチス総統アドルフ・ヒトラーAdolf Hitlerドイツ国指導者兼首相(総統)在位1934年〜1945年)などを台風の目玉としてきた)を主要登場人物とする大陸国家間の利害関係追求の系譜と、大航海時代を皮切りに大英帝国の覇権で終わる制海権追求の系譜だが、両者の関係はそこまで単純ではない。 カール・シュミッツ当人はあくまで「陸国の人」なのでそういう全体像が見えていなかったといえよう。

    ルイ14世の時代
    フリードリヒ2世の時代

それではカール・シュミッツの政治哲学とは、具体的にどういう内容なのでしょう?

選挙で選ばれた議員それぞれは所詮「地主や砂糖大根栽培農家や商店街などの利権を代表するだけの烏合の衆」に過ぎず、そんな輩に政治は任せ得ないとして議会制民主主義を批判。
*実はフローベール感情教育(L'Éducation sentimentale、1864年〜1869年)」によれば2月/3月革命(1848年〜1849年)後のフランスにおいても同種の問題提起があり、これが第二帝政(Second Empire Français、1852年〜1870年)登場を容認する空気の醸成につながっていった事が指摘されている。

要するにこうした心理自体は(ボナパルティズムファシズムやナチズムにおける指導者原理の背景にあったとされる)ヘレニズム的個人英雄崇拝の大源流であったばかりではない。

ヴォルシェビキズムにおける民主集中制Democratic Centralism)や(儒教における党争至上主義と大衆侮蔑の伝統との相性の良さから日本のインテリ層の熱狂を生び、後に中核派の選民主義と比較された)福本イズムの大源流でもあったという次第。
コトバンク「福本イズム」とは
コトバンク「福本和夫」とは

「われわれ日本のインテリゲンチャは、独創性をほとんど持ち合わせないにもかかわらず、絶えず自己の独創性を意識しかつ主張するのである。したがって、このオリジナリティ主義は、明らかに自己認識不能自己欺瞞症の露呈でしかないのである。自己の超越を含まぬ日本からの超越理論が生まれるのは、けだし当然なのである(藤田省三「昭和八年を中心とする転向の状況(1959年)」)」。

藤田による福本イズムの分析が興味深いのは、西洋と日本の間を彷徨う日本の知識人への批判ともなっていることである。「西洋」と「私」を直結させることで「日本」を批判しようとする戦略自体は、現代でも生き続けているといっても言い過ぎではないように思う。その意味で「福本イズム」は参照されるのであろう。

*そしてさらに民主集中制がヘレニズム的個人英雄崇拝にかぶれるとスターリン主義毛沢東主義、果てはルーマニアにおけるチャウセスク政権や北朝鮮における金王朝の様な展開を迎えるという次第。

カール・シュミットの「例外状態(Ausnahmezustand)=独裁」論

カール・シュミットが「独裁」を刊行したのは1921年のこと、「政治的ロマン主義1919年)」と「政治神学1922年)」にはさまれた時期である。この著作を通じてシュミットが本当に目指していたのは、「独裁」を例外状態における主権者の行為として正当化することだったと思うのだが、表向きにはそこまでは主張していない。とりあえず独裁というものに、政治的・公法的な存在意義を付与しようという意気込みだけが伝わってくるように書かれている。独裁をめぐる価値論ではなく、独裁の存在論というべき議論が、この著作の表向きの風貌なのである。

シュミットがこの著作を書いた頃までは、独裁は専制とほぼ同じような意味で捉えられていた。このような捉え方を前提としては、独裁にはマイナスイメージしか残らない。それを統治の一つのスタイルとして合理化することなどはできない。独裁を積極的に論じることは法外な行為となる。これは、独裁を統治の有効なスタイルとして合理化したいシュミットにとっては不都合なことである。それ故彼はこの著作において、独裁は専制とはまったく異なったものであり、しかもある特定の政治状況、それをシュミットは例外状態とか非常事態とかいうのだが、そうした国家の存続が危ういような状態においては、一定の積極的な意義を持つのだということをまず証明しようとする。彼はその証明を、理論的な論証によってではなく、歴史を繙くことによって成し遂げようとする。その歴史とは、ローマの法制の歴史であり、近世のヨーロッパ諸国における君主権の委任の歴史といったものだ。それらを細かく分析することでシュミットは、ヨーロッパの公法史ないし政治史において、独裁が古くから一定の存在意義を持ち続けてきたことをあぶり出し、そのことを通じて現代政治において独裁の持つ政治的意義を明らかにしようと試みたといえる。

こんなわけでシュミットは、まずローマの独裁官からはじめ、近世のドイツにおけるコミサールとかフランス革命期における人民委員とかの歴史的な分析に従事するのであるが、それがこの本の大部分を占めている。したがってこの本は、瑣末な歴史的出来事にあまりにも拘っているといった印象を与え、読んで楽しいものではない。

以上の分析を踏まえてのシュミットのとりあえずの結論は、彼が取り上げたこれらの独裁がいづれも委任独裁だったということだ。委任独裁というのは、独裁者のほかに主権者がいて、独裁者はその委任を受けて独裁的な統治にあたるという意味である。これは形容矛盾のように聞こえるが、シュミットはそれが形容矛盾などではなく、ヨーロッパの政治史上立派な統治形態であったということを、ローマの公法の分析から取り出す。ローマ公法においては、独裁官の規定があって、その規定には独裁官は主権者の委任を受け、限定された期間に独裁的な権限を揮うことが規定されていた。

つまり、委任を受けた独裁者こそ、ヨーロッパにおける独裁の歴史的なあり方だったと主張するわけである。独裁について最初に理論的な考察を行ったのはボダンだというのが学者の常識になっているが、ボダンが独裁の概念で説明したのも、まさに委任独裁であったわけで、しかがって委任独裁は、ヨーロッパの政治史においては珍しくないことだった、というわけである。

シュミットの狡猾なところは、この委任独裁の概念から一足飛びに主権独裁の概念を引き出すことにある。委任独裁は歴史の分析から導き出された、いわば帰納的な概念だが、主権独裁のほうは、純論理的な操作によって導き出された演繹的な概念である。委任を受けた独裁が現実にありうるなら、委任を受けない独裁があってもよい、というか理論上ありえないことではない。また、委任独裁にはかならず期間の限定が含まれており、したがって期間限定の独裁として、その役割を終えれば速やかに解消されるべきだとされていたわけだが、独裁者に無期限無限定な権限行使を許すことだって、理論上はありえないことではない。こういう理屈を振りかざしてシュミットは、主権独裁に理論的な根拠を付与するとともに、それに現実的な基盤をも与えようというわけである。

その現実的な基盤とは、シュミットがこの著作を書いた頃のドイツの政治的な状況と関連している。その頃のドイツは第一次大戦の敗戦の結果、国際的には孤立無援の状態、いわば準戦争状態にあり、国内的には社会主義勢力の台頭によって政治が極端に不安定になっていた。そうした状況では、自由主義的な議会政治では難局に対応できない。ここは強力な独裁者が出現して、国を強権的にまとめるしかドイツの生き残る道はない、そうシュミットは考えて、主権独裁にはドイツの現実に対応するためという立派な理由がある、それが主権独裁の、少なくともドイツにおける、現実的な基盤をなしている、そうシュミットは主張したわけである。

だがシュミットはこの本の中では、主権独裁の概念を詳細には定義していない。また、ドイツにおいて主権独裁がどのように実現されるべきかについても、詳しくは言及していない。ただ本の最後の部分で、ワイマール憲法第48条の規定に言及し、この条項をテコとして主権独裁を確立するのが現実的な道筋だと匂わせているくらいである。

シュミットはその後「政治神学1922年)」の中で主権者を詳細に定義し、主権者が国家の緊急事態において独裁者の形をとるのは必然だという流れに議論を切り替えてゆく。そして「大統領の独裁1924年)」において、ドイツにおける独裁実現の道筋を検討するようになるわけである。それがヒトラーの独裁を合理化する露払いの役目を果たしたことについては、多言を要しないところだろう。

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  • そう、カール・シュミッツ当人はむしろこうしたイデオロギーの提唱によって社会民主党SPD)すなわちワイマール政権の(独裁色の強い)大統領内閣の樹立過程を擁護しようと試みたのだった。しかしながら(自らも民主集中制に拠りながら、その事実を隠してSPDを「社会ファシズム」と弾劾し続けたKPDKommunistische Partei Deutschlands=ドイツ共産党)や(同様に自らの指導者原理を隠しながら「社会ファシズムを打倒する実働部隊」として力を蓄えていったNSDAPNationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei=国家社会主義ドイツ労働者党)や(その支配下で準備された国軍の数倍の規模を擁する準軍事組織SASturmabteilung=突撃隊)は、まさにカール・シュミッツ自らが提唱した「友・敵関係Freund-Feind Verhältnis)」論を逆手にとってその打倒に成功してしまう。

    ドイツ共産党(KPD=Kommunistische Partei Deutschlands) - Wikipedia

    コミンテルンは、1924年コミンテルン第5回世界大会以来、ファシズム社会民主主義を同一視する「社会ファシズム論」をとっていたが、1928年のコミンテルン第6回世界大会では、より踏み込んで「(ファシズムより)社会民主主義こそが主要な敵」とする極左戦術を採択した。このコミンテルン極左戦術以降、共産党の過激化は強まり、とりわけ党の実力組織である赤色戦線戦士同盟(RFB)は、ナチスの突撃隊(SA)や社民党の国旗団との武力衝突を頻繁に起こすようになった。

    1929年5月1日から4日にかけてベルリンで、社民党政権(ヘルマン・ミュラー内閣)内相カール・ゼーフェリンクとベルリン警察長官カール・ツェルギーベルが禁止していた共産党のデモが非合法デモとして強行されたが、警察の挑発的発砲などにより暴動に発展し、31名死亡、数百人負傷、1200人逮捕という惨事になった(血のメーデー事件)。この事件を巡る批判合戦や赤色戦線戦士同盟非合法化などで社共対立は絶頂に達し、共産党は「社会ファシズム論」にますます傾斜した。

    共産党は、ナチ党と社民党を同類としながらも主敵は権力を握る社民党に定めていた。ナチ党については、共産党がその気になればいつでも腕づくで始末できる小物に過ぎないと見下しており、彼らへの対策は「ファシストは、出会いしだい殴り倒せ!」という街頭闘争スローガンだけで十分と判断されていた。

    のみならず、共産党社民党に対する闘争の範囲内においては、ナチ党との共闘も厭わなかった。1931年夏には所謂「国民反対派」(ナチ党、国家人民党、鉄兜団など)がプロイセン州の社民党政権の打倒を狙ってプロイセン議会解散を求める国民請願を開始したが、共産党も彼らと統一戦線を張って請願運動に参加している。

    さらに1932年1月にはコミンテルンから派遣されたスターリンの側近ドミトリー・マヌイルスキーが「ナチス社会民主党の組織を破壊するがゆえにプロレタリア独裁の先駆である」と述べ、これを受けてドイツ共産党のレンメレは「ナチスの政権掌握は必至であり、その時共産党は静観するであろう」と述べている。

    またこの時期の共産党は明らかにナチス民族主義宣伝に感化されており、党の声明には「強盗的なヴェルサイユ条約粉砕」「ドイツを奴隷化するヤング案粉砕」「国民革命(プロレタリア革命と同義であると説明を付けているが)」といったナチスまがいの民族主義的語調が増えていく。こうした党の民族主義化を熱心に推進したのは、とりわけノイマンだった。彼は中間層の票をナチ党から奪取するためには、民族主義化が必要だと考えていた。彼はナチ党のゲッベルスの集会に潜り込んで「青年社会主義者諸君!民族のための勇敢な戦士諸君!共産主義者国家社会主義者との骨肉相食む闘争を欲しない!」という演説すらしたと言われる。

    1929年に勃発した世界恐慌による不況が深刻化する中で、ドイツではヴァイマル共和政への失望が高まり、共産党は、下層階級を支持基盤に急速に勢力を拡大させ、世界でも有数の共産主義政党に成長した。共産党の宣伝手法、特に壁を埋め尽くすポスターなどのインパクトや整然とした行進を行う赤色戦線戦士同盟など視覚的なプロパガンダには優れたものがあり、後の国民啓蒙・宣伝大臣であるナチ党宣伝全国指導者ヨーゼフ・ゲッベルスが賞賛したり、社民党の国旗団と並んでナチス(突撃隊など)が真似したくらいであった。

    1930年9月14日の国会選挙では、共産党社民党支持層の票を吸って得票を133万票増加させて13.1%の得票率を得て77議席(総議席577議席)を獲得し、社民党とナチ党に次ぐ第3党となった。1932年7月31日の国会選挙では得票率14.3%へ増やし、89議席(総議席608議席)を獲得、同年11月6日の国会選挙でも得票率16.8%に増やし、100議席(総議席584議席)を獲得し、ナチ党と社民党に次ぐ第3党の地位を維持し続けた。とりわけナチ党も社民党も得票を減らして共産党だけが得票を伸ばした1932年11月6日の選挙は首都ベルリンで投票総数の31%を獲得して単独第一党となったこともあって共産党を有頂天にさせ、党はこの成功を過大評価した。

    1933年1月30日にナチ党党首アドルフ・ヒトラーパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領から首相に任命された。2月1日に国会が解散されて選挙戦へ突入したが、2月4日には野党の行動を制限する「ドイツ国民保護のための大統領緊急令」が発令され、2月初めには共産党は機関紙・集会の禁止、党地方局への捜査と押収、党職員の逮捕などで全く防衛的な立場に追いやられた。

    さらに選挙期間中の2月27日に国会議事堂放火事件が発生し、オランダ共産党員マリヌス・ファン・デア・ルッベが犯人として逮捕されると、プロイセン内相ヘルマン・ゲーリング国際共産主義運動全体の陰謀と見做し、2月28日に制定された事実上の戒厳令「国民及び国家保護のための大統領緊急令」に基づき、共産党員4000人を逮捕、共産党の機能はほぼ完全に停止した。

    追いつめられた共産党は「ファシストの攻撃に対抗する行動の統一戦線」を求めたが、共産党は依然としてコミンテルン方針である「社会ファシズム論」の縛りを受けていたので共闘を求めながら罵倒を止めない矛盾した態度を取り、社民党から拒絶された。テールマンは国会議事堂放火事件直後の3月3日にベルリンの自宅で逮捕され、11年間裁判抜きで拘束された後、ブーヘンヴァルト強制収容所で1944年8月17日に処刑された。3月5日の選挙の結果、共産党は81議席を獲得したが、直後の3月9日に共産党の国会議員が議席ごと抹消されたため、総議席が減少してナチ党が単独過半数を獲得した。

    3月23日に全権委任法が成立した後、共産党は3月31日に制定された『ラントとライヒの均制化に関する暫定法律』によって結社禁止となり、国会・地方全ての議席を剥奪された。

    地下に潜った共産党はテールマンに代わってヨーン・シェーアによって指導されるようになったが、シェーアは1934年2月1日に警察に発見されて逮捕され、逃亡を図ったところを射殺されている。

    共産党は地下組織になっても依然としてコミンテルンの「社会ファシズム論」の縛りを受けていたので、1933年5月には「国家機関から社会ファシストが完全に締め出され、また社民党系の組織や新聞に野蛮な弾圧が加えられているからと言って、それらが資本独裁の社会的支柱であるという事実はなんら変わるものではない」と声明。また「現在のヒトラー時代は社民党が支配したヴァイマール共和国時代、あるいはブリューニング時代(1930年以降の大統領内閣時代)と比べてどれほどの差があるというのか」という議論にふけっていた。

    1935年7月のコミンテルン第7回世界大会でやっと「社会ファシズム論」が破棄され、「反ファシズム統一戦線戦術」が採択されたのに伴い、10月にブリュッセルで開かれた党大会においてこれまでの「社会ファシズム論」に基づく党活動を批判的に再検討し、「ヒトラー独裁政権打倒の全勤労者の共同闘争への新しい道」として「人民戦線」戦術を採択。しかしながら1936年には地下組織共産党の最後の指導者ヴィルヘルム・ファールが逮捕され、人民法廷にかけられて死刑判決を受け、1937年に刑死している。

    党員にはソ連に亡命した者も多いが、彼らの多くは1937年頃から始まったヨシフ・スターリンの大粛清で処刑されてしまった。レンメレ、ノイマン、エーベルライン等が処刑され、生き残れたのは徹底してスターリンに追従したウルブリヒト、ピークなど極少数だけだった。さらに1939年8月に独ソ不可侵条約が締結されるとスターリンの命令に従ってウルブリヒトが党を代表してヒトラーを高く評価する声明を出すに至った。

  • こうした当時における「社会民主党SPDの大統領内閣擁護論を逆手にとっての逆転勝利」については、現地で実際にその現場に居合わせたオーストリアユダヤ有識者ピーター・ドラッカーが「自らは正義の絶対的批判者の仮面を被る一方、自らへの言及は決っして許さない卑劣なやり口」と弾劾し、これに反駁する形で自らのマネージメント理論を構築してきた事で知られている。

    皮肉にもレーニンも(表面上はマルクス主義の継承を装いつつ)現実の政策にはこっそり(階級闘争史観に拠らず労働組合の理念を敵視する)米国のタイラー主義を採用したくらいだから、この思想自体にイデオロギー色は存在しない。

    共産党独裁の国の「労働組合」

    さらにいうなら「独裁の是非」についての判断もそこには含まれない。

シュミットのモンテスキューとルソーについての見方

カール・シュミットにとって、政治をめぐる議論のなかでもっとも我慢がならないのは自由主義的政治論だ。民主主義はまだ我慢ができる。民主主義なら、シュミットが主張する主権者の議論とか独裁とも両立する。民主主義から独裁が生まれた歴史的な例もある(フランス革命におけるジャコバン独裁)。ところが、自由主義からは絶対に独裁は生まれない。独裁と自由主義的政治体制は、水と油の関係、というより両立不可能な対立関係にある。そこでシュミットは、ケルゼンとかラスキの自由主義的議論を目の仇にするわけだが、自由主義的な立憲主義の元祖といわれるモンテスキューについては、かなり屈託した思いを抱いているようだ。基本的には批判しながらも、その歴史的意義については一定の理解を示している。
*「自由主義からは絶対に独裁は生まれない」…1930年代の議論では真逆に「究極の自由主義専制の徹底によってしか達成されない」と考えられていた。そしてそれは当時の右翼(軍国主義者)や左翼(社会主義者)の想定する全体主義的社会イメージの「共通の敵」だったのである。

モンテスキューは、教科書風に言えば、三権分立の主唱者ということになっている。三権分立は、今日では立憲主義が成り立つための不可欠な条件として、超歴史的な要請と位置づけられている。それをシュミットは、もう一度歴史の中に位置づけしなおし、その今日的な意義を見直そうとする。それによって、三権分立なり立憲主義というものは、超歴史的な永遠普遍の理念などではなく、歴史に制約された相対的な意義を持つ制度なのであり、したがって歴史的な条件が変化すれば、それにあわせて変化すべきものだ、という立場に立つ。

モンテスキューは、王権が強力だった時代に生きた。そういう時代にあって、王権が専制権力と化し、国民に圧制を行うことを阻止するための便法として権力の分立を唱えた、というのがシュミットの基本的な見立てである。モンテスキューはその権力分立の担い手を、貴族層を中心とした中間層に求めた。「貴族・世襲領主の裁判権・聖職階級及び『法の倉庫』としての機能を持つ独立の法廷、すなわちフランス最高法院は、国家全権に対するかかる中間的阻止物である」(「独裁」田中・原田訳)というわけである。

モンテスキューは、なお身分的伝統を継承しており・・・王権に、中間的諸権力を対抗させるのである」(同上)とシュミットは言う。要するに王権が専制権力に変化することを制約するためのものとして、歴史的な存在としての中間勢力が一定の役割を果たしてきた、それをモンテスキューは理論化したに過ぎない、と見るわけである。モンテスキューにとっては、王権は腐敗しやすいものであり、腐敗した王権は専制権力となった。専制と独裁とは違う。独裁は、モンテスキューにとっては、ローマの公法上の概念であり、したがって委任独裁としてしかありえなかった。委任独裁は、権力の集中を当然伴うが、その集中は専制主義における権力のバランスの崩壊とは違う、と考えるわけである。

こうすることでシュミットは、独裁を批判する根拠としてモンテスキューを持ち出すのは筋違いだと言いたいようである。モンテスキューの権力分立論は、専制政治をけん制するための議論であって、独裁には当てはまらない、と言いたげなのである。

ルソーについてのシュミットの見方は、かなり狡猾なものを感じさせる。ルソーといえば、社会契約を通じて一般意思の実現をはかることを重視する民主主義の理論家という受け取り方が一般的だが(そしてそれが正しい受け取り方だと思うが)、シュミットはルソーの社会契約論から、独裁の擁護という結論を引き出す。シュミットにとってルソーは、自分の主張する独裁論の先駆者扱いなのだ。シュミットはかねがね独裁と民主主義は矛盾せず、両立可能だと主張してきたが、その理論的な根拠として、ルソーを利用したわけである。

シュミットがルソーを独裁の理論的根拠とする道筋は次のようなものである。人々はそれぞれ自由な意思にもとづいて社会契約を取り結び、自分の個別的な意思を社会全体の意思=全体意思に従属させることを誓う。こうして成立した全体意思は、あらゆる個別意思に優先する。だから、個別意思が全体意思と齟齬をきたす場合には、個別意思は沈黙しなければならない。こうして全体優先の理論的な前提が成立する。その前提の上で、全体意思を担う主権者が独裁者という形をとる場合には、独裁者は全体意思の実現を名目に、自分の好きなことができる。何故なら全体意思は、社会契約の成り立ちからして、個別的意思に優先するものだからである。こうしてルソーの社会契約論は、シュミットによって独裁の母胎と化すわけである。

だがこうしたシュミットの議論は、ルソーの社会契約論を余りにも単純化している、或は歪曲している、と言わねばなるまい。ルソーの社会契約論にあっては、人々が委任するのは自分の全人格にかかわることではなく、人間として生きる上で必要な最小限の条件であったわけだし、したがって全体意思は個別意思の総和なのではなく、すべての成員に共通する普遍的な事柄であるべきだった。そうした普遍的な事柄にあっては、全体の利益と個人の利益が矛盾するということはありえず、したがって全体意思の名のもとに個別意思が抑圧されるということもありえなかった。ところがシュミットは、個別意思の総和が全体意思であるかのように語り、個別意思が全体意思と矛盾する場合には、個別意思は全体意思によって抑圧されてしかるべきだというような方向に議論をもってゆく。これはルソーの議論の前提を不当に歪曲したやり方だと言うべきであろう。

  • というかもう既にフランス革命ジャコバン派恐怖政治やナポレオン独裁に誘導していった「革命のモグラ」シエイエスEmmanuel-Joseph Sieyès、1748年〜1836年) の論法自体にこういう要素は織り込まれていたのである。

そして対応が最も難しく、一番気も頭も使わされるのが、この概念。 

カール・シュミットを読む:「友・敵関係(Freund-Feind Verhältnis)」

シュミットは言う、「道徳的に悪であり、審美的に醜悪であり、経済的に害であるものが、だからといって敵である必要はない。道徳的に善であり、審美的に美であり、経済的に益であるものが、それだけで、特殊な語義における友、つまり政治的な意味での友とはならないのである・・・友・敵概念は、隠喩や象徴としてではなく、具体的・存在論的な意味において解釈するべきである」(「政治的なものの概念」田中浩、原田武雄)。

マキャヴェリ以来、近代西欧の政治理論は、政治を権力と関連付けて論じてきた。政治というものは、権力の獲得とか配分をめぐる現象であって、権力の動機を持たない政治的な行為というものはありえない。権力をめぐる戦いがあるところには、当然敵・味方の区別が生じるが、それは権力闘争に付随する現象であって、それ自体を独立したものとして概念規定しようとするのは行き過ぎである、とされてきた。ところがカール・シュミットは、政治とは友・敵(敵・味方)の区別が生じるところに始めて成立するものだとすることで、友・敵の区別こそが政治の本質であって、権力はそれに付随するものだとする。つまり、権力と友・敵区別の関係を、伝統的な政治理論とは180度異なった仕方で捉えるのである。権力をめぐる戦いが友・敵の区別を作るのではなく、友・敵の区別の生じるところに権力をめぐる戦いが生まれる、とするわけである。

皮肉にも、かかる党争至上主義的態度には、それ自体にイデオロギー的対立構造を自壊させる毒が含まれているのです。 その代わり急浮上してくるのが運動としての強度、およびそれを顕現させる方法の追求…

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JR東日本連続放火事件 - Wikipedia

2015年8月後半から9月にかけて東京都内の東日本旅客鉄道JR東日本)の施設で起きた連続放火事件。

9月15日、警視庁は品川区にある変電所で敷地の一部が焼けた事件に関わったとして、威力業務妨害の疑いで、都内に住む自称ミュージシャンと名乗る42歳の男を逮捕した。男は犯行の動機について「大量に電力を消費するJRが許せなかった」と供述している。

被疑者は著名な芸術家の息子で、母方の祖父は大使を務める外交官であった。被疑者は福島第一原子力発電所事故後、原子力発電所に対して批判的な意見を持つようになり、反原発デモや国会議事堂前のデモにも参加していた。

男は威力業務妨害罪で起訴され、12月16日の初公判で起訴内容を認めた上で「国益がJRの越権行為によって危機に晒されている。損壊や妨害は正義の表現にとって極めて重要不可欠だ」と述べ、正当行為に当たるとして無罪を主張した。検察側は冒頭陳述で「JRが電力を浪費しているなどという独善的な憶測に基づき、今年春ごろから火炎瓶を使った妨害をするようになった。犯行で、5万人を超える乗客に影響した」などと指摘。2016年3月25日、東京地裁(安藤範樹裁判官)は、男に対して懲役4年(求刑・懲役7年)の実刑判決を言い渡した。 

イデオロギー的にはヒッピー思想に源流を有するエコ原理主義に分類される模様。マルクス主義衰退後の左翼は、千々に分裂した挙げ句の果てにそれぞれの流派が「究極の自由主義専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマの体現者と成り果ててしまった様にも見える。

*むしろ右翼側では「高齢化した活動家が死に場所を求めてテロに走る」事案が問題化してたりして。これも既にイデオロギー的展開とはいえない。

だからもう「最近は極左と極右の合流がトレンド」と聞いても驚きません。

ちなみに私自身は「イデオロギー的対立構造の自壊」はカール・シュミッツの政治哲学」の登場以前、すなわちジョルジュ・ソレルが「暴力論(Réflexions sur la violence、1908年初版)」を発表した時代には既に始まっていたという立場。この本で一番興味深いのはジャコバン派の恐怖政治側をフォルス(国家権力側の暴力)、どれだけ虐殺されても決して屈服せず、最後には勝利した王党派の抵抗をビヨランス(反体制側の抵抗)と位置付けた上で「王党派を精神的に支え続けてきた神話構造」に注目している辺り。もはやこの時点で左翼と右翼のイデオロギー上の対立図式ではなく「運動としての強度およびそれを顕現させる方法)」がそういう形で注目され始めていたのです…