諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】「俺はフォークゲリラでいく」?

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あ、こういう世代なんですね。

フォークゲリラ(Folk Guerrillla)

《〈和〉folk song+guerrilla〈スペイン〉から》ベトナム戦争中の昭和43年(1968)ごろから大阪・東京などで自然発生的に始まった学生・市民の反戦集会。当初、若者グループが、警察に追われると別の場所で集まって歌うという状況であったのを、マスコミがゲリラにたとえてよんだとされる。

駅前広場などに集まり、反戦的なフォークソングなどを歌った。集会は次第に大規模となって、東京新宿駅西口広場での参加者は1万人にもなり、それまでにも警告を出していた警察は、昭和44年(1969)6月、機動隊を導入し排除。逮捕者の出る事件となった。以降、運動は下火となる。

フォークゲリラ | フォークとニューミュージックの時代

こうして「宗教」あるいは「神話」が誕生する? 

最近の「リベラル層のモンスター化」って、過去の記憶の改竄を重ねるうちに完全に自分が元来何者だったか見失い、それでも「自分達だけが一切過去を改竄してない正しい歴史を刻んできた」という確信だけが残っている(ただし実際に記憶に残っているのは断片化によって矛盾だらけとなったイメージの寄せ集めに過ぎず、それが何か説明する事自体が出来ない)結果なのかもしれません。

そもそも(共産党社会党の元来の支持層たる)旧左翼と(彼らへの反抗心から学生運動に没入した新左翼は、(米国的モラルに共鳴して「二丁拳銃探偵」物や、ハレンチ学園永井豪ハレンチ学園(1968年~1972年)」などを叩いてきた)PTAと(太陽族映画や日活アクション映画のエロスとバイオレンスに熱狂した)フーテンは、全く妥協の余地の見えない対立関係にあった筈なのに、何時から「最初から巨悪と共に戦ってきた仲間」だった事になり混じり合ってしまったのでしょう?

日活アクション映画略史 

こうした「真の歴史」を取り戻して総括する事によって「偽りの過去」から解放されない限り、リベラリズムの再建は不可能かもしれません。