確かに「エロ(ラノベ)」と「殺人(ミステリ)」の区別は難しいのです。どっちも「読者は揃いも揃って一刻も早く滅ぼし尽くすべき変態で、犯罪者予備軍だから全員、精神病院に隔離してしまえ」と罵られてきた過去を共有してたりする訳ですし。
江戸川乱歩「探偵小説このごろ 野村胡堂(昭和25年(1950年))」
探偵小説は犯罪の予防薬である
江戸川 あなたのは、はじめは外国探偵小説の翻案だと思われたでしょう?
野村 そう、はじめはまちがえられてね。翻案は全然ない。しかし、どうも日本は探偵小説や捕物帖を目の仇かたきにするね。小泉信三氏から聞いた話だが……イギリスのある有名な首相だよ。政局の動きが思わしくなくて、憂鬱になっていた。ある日とても愉快そうにニコニコしているので、夫人が政局がうまいぐあいに打開されたか、と喜び「どうなさったの? 予算が議会を通ったのでございますか」と聞いたら「いや、嬉しいじゃないか、コナン・ドイルがまた新しい小説を書きはじめたそうだ」といったという話。江戸川 吉田首相も探偵小説の愛読者なんだそうじゃないですか。
野村 牧野伸顕氏も実に好きだったらしい。ある外交官が外国へいく前に、牧野さんを訪ねて「なにかご注文は?」と聞いたら「面白い探偵小説を二、三冊送ってくれ」といったそうだ。
江戸川 探偵小説は、外国では老人が読んでいる。日本では若いものが読む。まるで反対だ。ぼくは書きはじめてから二十五年になるが、このごろになって、代議士になっているくらいの年輩の人に、「読んでいますよ」といわれるようになった。嬉しくなるね。
野村 吉田首相がわたしの捕物帖を読んでいるというんで、新聞やラジオでずいぶん冷かされて、困ったよ。しかし、おかげで、だいぶ宣伝になってね。そのうちにお礼にいかないといかんな。
江戸川 この前アメリカへいった金森徳次郎氏に会った。アメリカで国会の図書館へ案内された。たいしたライブラリーでね。アメリカの議員さんは、ずいぶん勉強するでしょうねと彼がきくと、「なあに、読んでいるのはフィクション(小説)かデテクティヴ(探偵もの)ですよ」といっていたそうだ。
野村 わたしはね、こう思うんだ。探偵小説は盲目的本能の安全弁だと。探偵小説を読んでいる人は兇悪な犯罪はやらない。先生に毒入りウイスキーを贈って殺した東大小石川分院の蓮見。あんな犯罪は一見探偵小説をまねたようで、しかし決してあの犯人は探偵小説を読んでいないね。探偵小説は想像力を養うのに役立つよ。想像力をもっていないということは恐ろしいことで、ああすれば、こうなるということを知らない。だからどんな兇悪な犯罪でもやれる。少年犯罪の多いのも、少年たちが精神的失緊状態になっているためで、オシッコをたれ流すのとなんら違いがない。本能のおもむくままにやってしまうという状態なんだ。想像力を盛んにすれば行為の結果について考えるから犯罪予防になると思うね。江戸川 むかしはちょっとした手のこんだ犯罪があると、犯人は探偵小説の愛読者にしてしまったりしたものだね。
*「金田一耕助シリーズ」第1作たる横溝正史「本陣殺人事件(1946年)」でも「田舎のミステリ・ファン」が「あいつは殺人に興味がある変態だ」というだけの理由で殺人容疑者に仕立て上げられている。
本陣殺人事件 - Wikipedia
エドガー・スノーも「アジアの戦争 (The Battle for Asia、1941年) 」の中で、この「あらゆる日本兵が戦場(上海攻略戦の現場)において、まるでバイブルの様に野村胡堂「銭形平次(1931年〜1975年)」を読み耽っている」情景を取り上げ「(次第に虐殺と戦争犯罪が時と場所を選ばず日常化していく)当時の日本兵にとって「相応の情状酌量の余地さえあれば、決して人の罪を問わぬ」銭形平次は、まさしくイエス・キリストその人だったのだ」と推察している。
人間の倫理観なんて、所詮は太古の昔よりずっと普遍にして不変だった訳ではなく、試行錯誤を通じて螺旋起動を描きながら垂直方向(すなわち当時の論争上の軸とは全く別の第三極)への進化を続けてきたという事…
この歴史観、実はもっと普遍性があったりする。
①アイルランド系プロテスタント出身の政治家エドマンド・バークは「フランス革命の省察(Reflections on the Revolution in France、1790年)」の中でフランス革命指導者の軽率を攻撃し、英国人に慎重さを喚起する目的で「(ある世代が自分たちの知力において改変することが容易には許されない)時効の憲法(prescriptive Constitution)」の概念を提唱した。
*だから「推理小説ファンは殺人ファン」とか「ラノベファンはポルノファン」としか認識出来ない世代がある時期まで暴れまわるのは避けられない。②ハンガリー出身の経済人類学者カール・ポランニーは「大転換 (The Great Transformation、1944年)」の中で英国の囲い込み運動を詳細に分析し「後世から見れば議論や衝突があったおかげで運動が過熱し過ぎる事も慎重過ぎる事もなく適正な速度で進行した事だけが重要なのであり、これが英国流なのだ 」と指摘している。
*すなわちこの種の論争、おそらくオタク側もモラリスト側も最終勝者とならない。かつて叙任権闘争が、皇帝派と教皇派の喧嘩がそういう結末を迎えた様に。
要するに歴史とは万事こんな感じで進む?