それまで私は決してBTS(防弾少年団)をK-Hiphopとは表現せずにきました。だって良い意味でも悪い意味でも「こんなにも歌も踊りも上手で育ちも良さそうな品行方正な少年達」と「(正規の歌唱や舞踏の訓練を受ける経済的余裕がない)プロレタリアート階層の浮かばれないルサンチマンを込めた合法性も曖昧なHiphop音楽」をどうやって結びつけるというの?
- 要するにヒロインが「伝統に固執する頭の固い音楽業界」に道端で仕入れたブレークダンスを提げて殴り込む「フラッシュダンス(Flashdance、1983年)」の世界観とは何だったのかが問われてくる。
- M.I.Aがマドンナやレディ・ガガに叩きつけた「私だけが本物」の本物感という話にもなってくる。
- 同様に「(米国本土では失われてしまった)伝統的R&Bの最もソウルフルな部分の継承者」として評価されてきた従来のKPOPの評価軸まで揺らいでしまう。
でも逆に「商業至上主義が、この一件有り得ない組み合わせを可能とした」からこそ国際的大ヒットに結びついたという未来派思考の分析もあったりして。
K-POPは米国での成功を虎視眈々と狙ってきた。スターを揃え、ボーイズグループ「BTS(防弾少年団)」を結成した。K-POPはアルゴリズムに基づく現在のコンテンツ・チェーンにぴったり合わせた楽曲を制作しているため、いまや地球の反対側でK-POPファンになるのは難しいことではない。
BTSはチャンスをつかみ、熱烈なファン層を構築した。韓国と米国だけでなく、中南米やヨーロッパにもファンがいる。現代を強く意識し、高度にキュレートされ、美的感覚も欧米の消費者に最適化されている。
K-POPは熱狂的でエネルギッシュな雰囲気をもつのが一般的だが、BTSはその対極にあり、映画館でいえばアートシアターのような存在だ。流行に敏感で、ディレッタント(好事家)的で、より大きな芸術的表現や主張のためのひとつのメディアとして音楽が存在する、という雰囲気をもっている。スワッグ(クール)なラップグループとしてデビューし、ラップとヴォーカルのマッシュアップから、エレクトロポップのページェントへと進化してきた。
パヒューム(Perfume)はあえて20世紀から続く未来派アンドロイド感に立脚する形で国際的成功を続けてる訳だけど…
もしかしたらBTS(防弾少年団)のそれは(ある種の数理化を経た)第三世代人工知能的アバター(化身)なのかもしれませんね。
*歌詞もちゃんとHiphopらしく「ワルぶってる」けど、例えば2ne1「I am best」に込められてた「一番じゃなければ意味がない」競争社会の悲壮感とかさえ切り捨てられ「光(成功者)と闇(失敗者)の峻別」がより徹底してる。良い悪いではなく、この「安全装置(言い訳)の一切を切り捨ててのバンジージャンプ感」こそが彼らの歌と踊りに神経を集中させる仕組みになってるのが上手い?
*韓国で中小事務所から成り上がってここまできたのか…色々な意味でギリギリ感に支えられてる感がある。皮肉にも「どこから破綻して綻びが生じるか(あるいは次の一歩を何処に踏み出すか)」で韓国音楽の未来が占えそう?
【BTS(防弾少年団)】「MIC Drop」パート別日本語歌詞と意味とは?
*確実にいえるのは(2ne1と異なり)「照れ」の要素を完全に切り捨ててきたという事。だから彼らは歌ってる最中、決して笑わないし茶化さない。リスナーはこの曲を生きるか死ぬかの境地で真剣に聞いてるという意識の浸透。その覚悟の決め方という点ではジャネット・ジャクソンの「リズム・ネーション」に近いとも。兄のマイケル・ジャクソンが本物のストリート・ギャングを連れてきて撮影した「Beat it」ですら拭きれなかった1980年代前半的甘えの払拭…
私は「歴史は言語ゲームとその臨界点(Der sprachspiel und sein kritischer punkt)と事象の地平線(Event horizon)としての絶対他者を巡る黙殺と拒絶/混淆/受容出来なかった部分の切り捨てというサイクルで動いていく」という立場。なので「掃き溜めを一瞬過ぎる最後の雷光」BTS(防弾少年団)の成功を喜ぶと同時に、彼らが切り捨てた「(POPな部分を全て剥ぎ取られてしまった結果、遂にソードアートオンラインのラフィン・コフィン団やEvil Kermitみたいなおぞましい姿に成り果ててしまった)永遠に闇の奥を彷徨い続けるHiphopの残影」が次に何処に向かうかにも興味があったりします。
こうして時代は動いていく訳で…