諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【音楽史】「フュージョン」と「革新」を繰り返すとザトウクジラの歌

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これそのまま「黒人音楽の影響でプログレとハードロックが複雑化し、ニューヨークパンクを経てブリティッシュ・ビートニューロマンティックやロンドンパンクが誕生した」1960年代末から1980年代初旬の流れそのままじゃないですか?

そして、こういう激変の時代を平然と生き抜いたバンドも存在したりするのです。

 クイーン (Queen、1971年) - Wikipedia

ブライアン・メイロジャー・テイラーの在籍していたバンド「スマイル」がクイーンの母体となった。スマイルは、1969年9月にシングル「Earth(B面は「Step On Me」)」をリリース。これはまったく成功せず、ボーカル兼ベースのティム・スタッフェルが脱退。その後任として、フレディ・マーキュリーが加入。1970年7月12日のライブより「クイーン」と名乗り始める。何人かのベーシストが加入と脱退を繰り返し、最終的にオーディションで加入したのが、ジョン・ディーコンであった。1971年2月のことである。クイーンの英公式サイトでは、4人が揃った1971年を正式なバンド結成の年としている。

初期1973年

最初のアルバム『戦慄の王女1973年)』リリース当時、母国イギリスでは「ロックなのに曲構成が複雑で、サウンドに小細工が多い」「ディープ・パープルやレッド・ツェッペリン、イエスの亜流」などとメディアから酷評され、遅れてきたグラムロックバンドと見られることもあった。また、彼らは、このアルバム制作から発売までに2年近くももたつき、結果、後にマーキュリーがインタビューで述べていたように、レコード契約から1年以上待機させられたため「発売時にはあらゆる意味で、時代遅れになっていた」という。

黄金期1974年〜1979年

1974年3月、2ndアルバム『クイーン II』をリリース。イギリスのメディアの評価はいっこうに変わらなかったが、シングル曲「輝ける7つの海」のヒットもあり、アルバムは全英5位まで上がるヒット作になった。このアルバムをきっかけに本格的なブレイクにつながるようになる。

1974年、3rdアルバム『シアー・ハート・アタック』からの先行シングル「キラー・クイーン」が全英2位のヒットとなる(後にマーキュリーは作曲者としてアイヴァー・ノヴェロ賞を受賞する)。また同年、ディープ・パープル、モット・ザ・フープルの前座として初のアメリカツアーを行うが、メイが肝炎にかかってしまいツアーの途中でクイーンは降板を余儀なくされる。

1975年2月にカンサス、スティクスらの前座として再びアメリカツアーを開始する。ツアーは各地で大盛況を得て、「キラー・クイーン」は全米12位まで上昇する。しかしツアーの途中、前回のメイに続きマーキュリーが喉を痛めてしまう。マーキュリーはしばらく安静状態を強いられたが、その後、奇跡的に回復して無事にツアーを終了させる。一方、日本ではルックスや煌びやかなサウンドから若い女性を中心に人気を集め、同年4月に初来日した。空港には1200人のファンが押し寄せ、武道館ライブは成功を収めた。

10月には、4枚目のアルバム『オペラ座の夜』からの先行シングル「ボヘミアン・ラプソディ」が全英9週連続1位の大ヒットを記録。当初「6分を超える長い曲などラジオで流してくれない」とレコード会社側は曲のカットを指示したが、マーキュリーとテイラーは知り合いのラジオDJであるケニー・エヴェレットに意見を求めた。エヴェレットはこの曲を気に入り、自身のラジオ番組で2日間で14回も流したという。「ボヘミアン・ラプソディ」はチャリティーでない曲としてはイギリス史上最高の売り上げを記録し、マーキュリーは同曲の世界的ヒットにより2度目のアイヴァー・ノヴェロ賞を受賞する。その結果、4枚目のアルバム『オペラ座の夜』は初の全英1位を獲得、アルバムはクイーンに批判的だったメディアからも非常に高い評価を得た。

1976年、軌道に乗ったクイーンはアメリカ、日本、オーストラリアなどで次々とツアーを敢行。1977年、自身のレコーディングスタジオで創作活動に専念し、初のセルフ・プロデュースである5枚目のアルバム『華麗なるレース』を発表。これまで以上に分厚いサウンドになっているものの、基本的には『オペラ座の夜』の路線をさらに推し進めた作風となっている。全英2位、全米13位のヒットとなった先行シングル「愛にすべてを」や「懐かしのラヴァー・ボーイ」のほかに、歌詞の一部を日本語で歌った「手をとりあって」が収録され、アルバムはイギリスや日本で1位を獲得するヒット作となった。

再びセルフ・プロデュースで臨んだ6枚目のアルバム『世界に捧ぐ』では、パンク・ロックが流行しつつあった当時の音楽シーンの流れを意識し、サウンド的にはシンプルな方向へ向かい、トレードマークの一つであったコーラス・パートの全くない曲(永遠の翼」など)も収録された。アルバムは日本とイギリスで4位止まりだったが、「伝説のチャンピオン」や「ウィ・ウィル・ロック・ユー」がヒットしたアメリカではこれまでの最高位である3位を記録。またヨーロッパの中で唯一、クイーンが苦手としていたフランスで「ウィ・ウィル・ロック・ユー」が12週連続1位となり、13週目には「伝説のチャンピオン」が1位となった。1978年にはヨーロッパ9カ国でツアーを開催。6年目にして初のフランスでのコンサートも成功を収めた。


7枚目のアルバム『ジャズ』では再びロイ・トーマス・ベイカーを迎え、バラエティに富んだサウンドと楽曲を展開している。「バイシクル・レース」プロモーション用に制作された、全裸の女性が自転車レースをするというポスターとプロモーションビデオは物議をかもした。「バイシクル・レース」の影響もあり、このアルバムの発売直後にはマスコミは一斉にクイーンを批判したがアルバムは全英2位の大ヒットとなった。このアルバム発売と同年、クイーンはカナダを皮切りに北米ツアーを開催。マーキュリーはステージに上半身ヌード姿で自転車に乗って登場した。

翌1979年にはヨーロッパツアーを開催。東西冷戦状態であったユーゴスラビアもツアーのプログラムに入っていたことで話題を呼んだ。また、マーキュリーがバレエ好きであったことから国立バレエ団の知的障害者への義援金チャリティ特別公演に出演、マーキュリー自身もバレエを踊った。カンボジア救済チャリティコンサートにも出演し、初日に単独コンサートを開いた。さらに、マーキュリー作の「愛という名の欲望」が全米1位と、アメリカを始め全世界で好成績を収め、ライブ・アルバム『ライヴ・キラーズ』で1970年代を締めくくる。

 第2次黄金期1980年〜1986年

エルヴィス・プレスリー風の「愛という名の欲望」の大ヒットに続いて、1980年のアルバム『ザ・ゲーム』 も全英・全米ともに1位を記録。またアルバムからシングルカットされ全米1位を記録したディーコン作の「地獄へ道づれ」は、アメリカでの「ファンク」「ソウル」など、ブラックミュージックのチャートでも上位にランクインし、アメリカでのクイーン最大のヒット曲となった。

また、その他のサウンド上の特色として、このアルバムから、シンセサイザーが導入されていることが挙げられる。これは『ザ・ゲーム』制作途中で、同名映画のサウンドトラック『フラッシュ・ゴードン』の録音が挟まった形となったことが、大きな要因となっている。

1981年、初の南米進出となる、ブエノスアイレスでのライブをはじめ、サンパウロでは観客動員数をたった2日で記録を更新した。南米でのツアーを終了させたメンバーはスイスでレコーディング中に親交を深めたデヴィッド・ボウイと「アンダー・プレッシャー」を共作する。「アンダー・プレッシャー」はイギリスやアルゼンチンで1位を獲得するなど世界的にヒットした。さらに、この年発表された『グレイテスト・ヒッツ』は、イギリス史上最も売れたアルバムである。

翌年発表されたアルバム『ホット・スペース』は、「地獄へ道づれ」などがアメリカで成功したことから、マーキュリーとディーコンを中心にファンク、ダンスミュージックの要素をアルバム全編にわたって突き詰めた内容だった。しかしここでの方向転換はファンや評論家らから強い反発を受けた。1983年にはバンドを小休止し、各自ソロ活動に専念した。

その結果、1984年のアルバム『ザ・ワークス』では軌道修正を図り、ファンが待ち望んでいたような楽曲が集まった保守的ともいえる作品に仕上がった。この頃になるとアメリカや日本での人気は落ち着く一方で、テイラー作の「RADIO GA GA」が19ヵ国1位と大ヒットし、またディーコンの「ブレイク・フリー自由への旅立ち)」が、南米などで「自由へのシンボルとしての曲」と位置づけられるなど、ヨーロッパ圏だけではなく南アメリカやアフリカといった地域でも人気を集めるようになっていった。しかしこの頃から、前述にもあるように各メンバーのソロ活動も盛んとなり、加えてメンバー間の仲も険悪になっていく。「1985年7月13日のライヴエイド出演がなければ、そのまま、本当に解散していたかもしれない」と、後にメンバーも振り返っている。

1985年、リオデジャネイロで行われたライブでは、2日で観客動員数60万人という驚異的な記録をつくった。

1985年に行われた20世紀最大のチャリティーコンサート「ライヴエイド」では出演アーティスト中最多の6曲を披露、そのパフォーマンの高さにロンドン会場のヘッドライナーを務めたエルトン・ジョンがバックステージで悔しさを顕にし地団駄を踏んだとされる。クイーンの圧倒的なライブは、スタジアムの観客やライブが中継された国々のファンからも絶大な反響があり、世界各国でクイーンのアルバムがチャートを急上昇した。この思わぬ反響を受けてクイーンは新曲のレコーディングを開始し、同年11月にシングル「ワン・ヴィジョン」を発表。メディアはこぞって「ライヴエイドの便乗商売だ」とこれを批判したが、イギリスではチャート7位にランクインした。 1986年、アルバム『カインド・オブ・マジック』を発表し、イギリスを中心に世界中で大ヒットを記録。またアルバム発表後の「マジック・ツアー」では、ヨーロッパ諸国の全26公演で200万人以上の観客を動員。中でもウェンブリー・スタジアムで行われたコンサートは2日間で15万人の観客動員を記録し、8月9日にはイギリスのネブワースパークで観客30万人を記録。ツアーは大成功を収めた。しかし、マーキュリーの容態の悪化に伴い、クイーンの4人が揃ってツアーを行ったのは、これが最後となった。

後期、フレディ・マーキュリーの死1987年〜1991年

書籍「フレディ・マーキュリー 華やかな孤独」によれば、ライブ後のパーティーレズビアン・ショーや、約10人のダンサーによるストリップ・ショーがおこなわれたこともあったという。フレディーの誕生パーティーでは、総額20万ポンド(当時約8千万円)が浪費された。「マジック・ツアー」の成功以来、メンバーは各自ソロ活動を行っていたが、1988年1月にはスタジオに再集結し、アルバムの制作を開始。1989年5月に、約2年ぶりのアルバム『ザ・ミラク』を発表。先行シングル「アイ・ウォント・イット・オール」共々、本国イギリスやヨーロッパ各国でビッグ・ヒットを記録し、人気が健在であることを証明。しかし、アルバムにともなうツアーについては、マーキュリーはあっさり否定。一方以前からマーキュリーには「エイズに感染しているのではないか」との噂が飛び交っていたが、当時本人はこれを否定し続けていた。実際にはマーキュリーがエイズに感染していることは1987年頃に判明したといわれているが、その真相は長年ベールに包まれていた。

1991年初頭に、前作からわずか1年あまりで14作目のアルバム『イニュエンドウ』をリリース。サウンド的にはやや初期に戻ったか、ブリティッシュ系ロックバンドをさらに自覚したようなサウンドとなった。タイトル・ナンバーではスティーヴ・ハウによるアコースティック・ギターソロがフィーチャーされた。メンバー以外のミュージシャンがクイーンのスタジオアルバムでギターを演奏したのはこれが最初で最後である。アルバム『イニュエンドゥ』からシングルカットされた「イニュエンドゥ」は全英1位、「ショウ・マスト・ゴー・オン」は全仏2位とシングル面でも大健闘した。しかし、この頃すでにマーキュリーの体は病気に侵されていた。

輝ける日々」は、マーキュリーの生前最後のミュージックビデオ出演になった。映像では、マーキュリーが見るかげもなくやせ衰えていることがわかる。

1991年11月23日、マーキュリーの自宅前で記者会見が行われ、スポークスマンを通じて以下の声明文を発表している。

私はHIVテストで陽性と診断され、AIDS患者であることが確認されました。しかし私の身の回りの人々のプライバシーを守るため、この事実を隠しておくことが適当だと考えておりました。 しかし今、世界中の友人たちとファンの皆様に真実をお伝えする時が来ました。これからはこの恐ろしい病気に対して、私と私の医師団と世界中で私と同じように苦しんでいる人々と一緒に戦って下さい。

そして翌24日、フレディ・マーキュリーHIVによる免疫不全が原因となって引き起こされたニューモシスチス肺炎により45歳という若さで死去。亡くなった1991年は、奇しくもクイーン結成20年目だった。マーキュリーが死んだことによって世界中に衝撃が走り、葬儀会場は世界中から駆けつけたファンの花束で埋め尽くされた。

マーキュリーの死の直後、クイーンのアルバムが世界中でチャートインし、イギリスでは「ボヘミアン・ラプソディ」がイギリス史上初の同一曲2度目の1位という記録を打ち立てた。また、マーキュリーの遺言により初登場1位を獲得した作品の収益金はすべてエイズ基金に寄付された。 また、1992年にバルセロナオリンピックの開会式でオペラ歌手のモンセラート・カバリェとマーキュリーがデュエットする予定だったが、マーキュリーの急死によりホセ・カレーラスが代役を務めた。

とりあえず ブライアン・シンガー監督映画「ボヘミアン・ラプソディBohemian Rhapsody、2018年)」予習用として投稿。