諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【ボヘミアン・ラプソディ】やはりLGBTQA層からのツッコミが鋭い?

エロティズムの世界はあくまで奥深く、「ロリ巨乳」なんて矛盾に満ちたジャンルまで存在する様です。

鈴根らい地下室
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私自身は国際SNS上の関心空間において、ニンフェット(身体成長が男子を一時的に追い抜く小学校高学年から中学二年生くらいまでにかけての少女)グループと日常的に接し、彼女達と「おっぱいがふくらみはじめたら、もはや幼女でではないという諦念を巡る諸概念」を共有してきたせいで(そしてそれは氷室冴子などのコバルト系少女小説や、吉田秋生の少女漫画や榎本ナリコのセンチメント・シリーズで描写される少女性とも完全に合致する)全く共感不可能ですが、むしろ逆にそれ故に「確実に自分の認識範囲に限界があるエビデンス」として重宝してきた経緯もあったりして。

118 :名無したちの午後:2008/06/21(土) 20:55:23 id:DiTjtPXh0
>>116
ロリ巨乳をロリの一部として考えれば、そういう感想が出るのもある意味当然と言えるが、 個人的にロリとロリ巨乳は似て全く非なるものだと思ってる 。「ロリ巨乳」は基本的に「ロリ」からではなく、「巨乳」から派生した属性なんだと思う。 出発点はロリじゃなく巨乳からなんだよ。ロリに巨乳が付いてるのではなく、巨乳にロリ要素が付加されてるんだよ 。そして、何故そんなミスマッチなものを付加するかと問われれば、「その方が乳が際立つから」に他ならない。お汁粉に塩を少量加えると逆に甘みが増すのと同じさ。Gカップの大人とGカップの子供、どちらの方が乳が目立つと思う?後者だろ?  要するにロリ巨乳ってのは乳を最高に際立たせる組み合わせなのさ 。それに、巨乳というのは胸だけに限定された属性なのに対し、 ロリというのは必ずしも貧乳である事だけで表現されるものではないから、 巨乳にロリを付加することによって、胸以外の空白の要素を補完しつつ、胸以外の部分でロリ要素もある程度楽しめる。 つまり一粒で二度美味しい上に、巨乳好きにとってはメインで楽しむ味が濃くなる、と良い事尽くめなわけだなこれが。ただ、その分ロリの方の味は確実に薄まるから、ロリ好きにとっては邪道に感じられるのは尤もだろう。 それどころか、詰まるところロリをサブ属性扱いしている訳だから、腹が立つのも頷ける。 理解してくれとは言えないが、そういう嗜好もあるということだけは一応認識しておいてくれ。

ていうか、長文で何を熱く語ってるんだ俺は…
*この著名な熱演でもフォローしきれないのが「ロリ母乳」の世界…

そして世の中にはさらに「ドラゴンカーセックス」なんて世界も…

こうした論争における物騒さを、私はブライアン・シンガー監督の「つるつるな尻」好きに感じてきた次第。いやはや、本当にもうウルヴァリンフレディ・マーキュリーみたいな胸毛びっしりタイプは当然「尻毛と臍毛が繋がってる」と想像するのが自然でしょう…どうしてあえて、異性愛者かも同性愛者からも後ろ指を刺される、そんな険しい道を選んだの? フレディがぴっちりしたタイツで尻毛を隠し抜いたせいなの?

そういう経緯もあって当然、LGBTQA層のブライアン・シンガー監督映画「ボヘミアン・ラプソディ2018年)」へのツッコミは厳しいものとならざるを得ない様です。

フレディのセクシュアリティの描き方もあんまりだと思いました。「ゲイは妻子が持てないから家族を作れず孤独である」とか、「不特定多数とすぐセックスしちゃうのは悪いゲイだから騙されたり、HIVを移されたりする)」とか、「出会ってすぐ寝ず、時間をかけて1対1の関係を作るゲイは良いゲイだから家族的なつながりが持てて、幸せになれる)」とか、ヘテロ好みのくっそ古いステレオタイプを芸もなく(本っ当に何の芸もなく!)ただなぞっているだけじゃないですか。いや、こうした家族主義やモノガミー規範や、HIV感染を不道徳への天罰扱いする考え方は、この映画の舞台である70〜80年代に実際にゲイを抑圧していたものですから、それらが話の中に出てくること自体は問題ないとは思うんですよ。この映画がよくないのは、それらの価値観を現代の視点から洗い直したり、疑義をさしはさんだりする部分がひとつもないということ。これじゃ大昔の有害なステレオタイプをただのんべんだらりと再生産しているだけです。

また、話の後半をフレディの死因(AIDSによる肺炎)にフォーカスしたメロドラマに仕立て上げるために、時系列がいじくってあるところもいただけないと思いました。もうあちこちで指摘されていることだけれど、フレディがAIDSと診断されたのは1987年で、ライブエイド(1985年)より後だったはずでしょ? そこを書き換えて、彼がライブエイド前に自分がAIDSだと知っていたことにするっていうのは、要するに彼がライブエイドの楽曲の数々を死にゆく自分の歌として歌っていたということにして、観客が「かわいちょうに、かわいちょうに」とより気持ち良く彼の死を消費できるようにするための算段でしょ?

*そういえば、こういう投稿もありました。

実はここで同性婚合法化だけでは解決しきれない(それどころかかえって問題を複雑化させる)「(単なる異性愛者や同性愛者と異なりバイセクシャルは相手が一人では満足できないかもしれない」問題というのが浮上してくるのです。

米国における同性婚合法化2014年6月26日)」の当日、とある同性愛者カップルがネット上で「また少し世界が狭くなるね」と発言した。「これからは異性愛者のカップルが子供が同性愛者である可能性に配慮して偏見を排除した子育てを行わなければならない様に、同性愛者のカップルもまた子供が異性愛者である可能性に配慮して偏見を排除した子育てを行わなければならない」とも。

確かにある意味、宗教界や政治の世界は「生涯貞節を誓う伴侶は一人たるべき」なる伝統的価値観を存続させる為に「その対象は異性たるべき」なる価値観を放棄する道を選んだのである。その判断自体は人類史上における大いなる進歩だが当然「犠牲」もあった。実際には「生涯貞節を誓う伴侶は一人たるべき」なる価値観に同意しこれを精神的救済と考える同性愛カップルが大半であるにせよ、既に異性愛カップルも大半が受容済みの価値観だったにせよ「相手が一人では満足出来ない」乱交派が同時に隔壁の向こう側に決定的な形で切り捨てられたのである。そしてこの日はまさしく、その事実を何の偏見もなく偲べる「最終日」でもあったという事である。(既存価値観を延長するだけでは実現不可能なパラダイムシフトとは、既存価値観の更新とは、まさにこういう展開を迎えるもの。
*乱交派…ネット上には乱行パーティを至高とするポルノまがいのバイセクシャル・両性具有系ポルノサイトが無数に存在する。当日にはこうした退廃的世界観との決別が特に強調された。「それにつけてもバイは淫乱」なる合言葉まで生まれた。

世の中には「観賞用推しとして熱狂する対象と実用実際の恋愛対象は別腹」なんて言い回しがあったり、LGBTs層を一切のセックス・ファンタジーから庇護しようとする騎士道的動きがあったりしますが、フレディ・マーキュリーの場合は一流のパフォーマーである事と、そのセクシュアリティ認識の混乱が表裏一体の関係にあった為、逃げるに逃げられません。

1990年代後半には「バットマンの乳首事件」なんてのもありましたし、こういう話についてはもっと掘り下げてみる必要がありそうなんです。

ブライアン・シンガー監督も随分悩みながら制作してた形跡がある訳で…

シンガー監督は昨年12月、フレディ・マーキュリーの伝記映画「ボヘミアン・ラプソディ(原題)」を「職業倫理に反する行動」を理由に解雇されている。撮影の無断欠席を繰り返していたためで、後任のデクスター・フレッチャー監督が仕上げに入っている。

さらに昨年12月、03年に当時17歳だった少年に性的暴行を行ったとして訴訟を起こされている。シンガー監督は、「ユージュアル・サスペクツ」でタッグを組んだケビン・スペイシーと同様、権力を利用して若い男性を食いものにしていた疑惑があることから、米大手エージェンシー、ウィリアム・モリスエンデバーから契約を解除されている。そのため、ミレニアムとの契約交渉は弁護士を通じて行っている。

それらしい感想を一発あげてやり過ごすには本当に勿体無い映画なんですね。