諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】日本人の音認識世界

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三味線やエレキギターの様な「異界の音」にたちまち魅せられ、紆余曲折の末に「伝統の一部」に組み込んでしまう態度の大源流?

16世紀末、琉球貿易により堺に中国の三弦がもたらされ、短期間の内に三味線へと改良された。現存する豊臣秀吉淀殿のために作らせた三味線「淀」は、華奢なもののすでに基本的に現在の三味線とほとんど変わらない形状をしている。

伝来楽器としての三弦は当道座の盲人音楽家によって手が加えられたとされ、三弦が義爪を使って弾奏していたのを改め彼らが専門としていた「平曲平家琵琶)」の撥を援用したのもそのあらわれである。彼らは琵琶の音色の持つ渋さや重厚感、劇的表現力などを、どちらかといえば軽妙な音色を持つ三味線に加えるために様々な工夫を施したと思われる。とくに石村検校は三味線の改良、芸術音楽化、地歌の成立に大きく関わった盲人音楽家であろうと言われる。

こうして軽重哀楽の幅広い表現可能にした三味線には、江戸時代に入るとすぐ石村検校らにより最初の三味線音楽種目である地歌が生まれる。また語り物である浄瑠璃にも取り入れられ、三味線音楽は「歌いもの」「語りもの」の二つの流れに大きく分かれ、更に分化を繰り返して大きく発展していく。都市の芸術音楽から流行歌、やがて地方の民謡にまで盛んに使われるようになり、様々な近世邦楽をリードし支え、更なる改良が加えられ、日本を代表する弦楽器となった。
*その一方で儒家から厳しい批判を浴びせられ、新しいスタイルの奏法が登場する都度その禁令が発せられたので、これを追えばその全国への伝播過程が調べられるとも。

日本音楽史上、一般民衆が手にすることの出来た楽器は、神楽の笛、太鼓、鈴であり、ついで三味線であった。 文政年間のオランダの商館長メイランは日本の音楽事情について「楽器の中では三味線が一番ひろく用いられる」と記している。

端唄 - Wikipedia

江戸初期にあっては長唄との対語であり、元禄年間に刊行された「松の葉」あたりからこの名を確認できる。端唄には二つの意味合いがあり、江戸端唄の前身をさす場合と、短い上方唄(地唄)をさす場合とがある。

江戸端唄は、江戸時代中期以降における短い歌謡の総称である。1920年代までは小唄も端唄の名で呼ばれていたが、その後端唄うた沢・小唄俗曲とはっきりと区別されるようになった。

以上の経過から、従前の端唄は上記のどれかに吸収されており、独自の端唄とするに足りる曲は非常に少ない。様々な文献やサイトで、端唄とされるものがうた沢とされていたり小唄とされているのはこのような事情による。

端唄が流行したのは特に天保の改革以後であるとされる。これは改革時に三味線が贅沢なものと見なされ、庶民が三味線を弾く事を幕府から禁止されてしまった。歌舞伎伴奏などのプロの長唄奏者は営業が続けられたが、街角の稽古場で三味線を教えるようないわゆる「街のお師匠さん今で言う(今で言う個人宅の音楽教室)は禁止されてしまったのである。何年か(10年と言われる)この状態が続いた後ようやく解禁された。そこで庶民らは再び三味線を手にすることが出来るようになったが、長く楽器を触っていなかった者にとっては長唄のような長いレパートリーをすぐにさらい直す事は素人には難しい。そこで覚えたての小曲をすぐに弾くことが出来るという理由で、端唄がもてはやされるようになったのである。

「異学の禁」『焼藻の記』

試学の評決は儒家へ仰渡されて、大学頭より以下柴野彦助・岡田清助・尾藤良佐等、聖堂に於て諸士の素読講釈を試みたり。

されど儒家にては人物人がらはいかにもあれ、其日に当りて講釈弁書の聖教に的当したるならでは上科とせず。されば血気放蕩のやからは、不敵なる根情にまかせて、きのふまで浄瑠璃三味線に心耳をこらしたる者が、四五十日が内に、そこら講釈を聞覚えて、試学に出るやから多し。

殊に去心より能き師の云事を聞覚えて、一字一句も違へず聞とりに云ふへに、儒家の評にはいつも上科にあたれり。又実学にて多年志有りて書籍にもしたしく、人がらを慎みて、然るべき勤士にも進むべき者は、おのづから己が見識も交わり、或ひは多聞に迷ふ所有りて、云所いつも儒家の評には当たらず、下等に成たり。

寛政異学の禁 - Wikipedia

寛政2年5月24日(1790年7月6日)、江戸幕府老中・松平定信寛政の改革で行った学問の統制である。

江戸幕府による朱子学を中心とした儒学政策は、徳川家康林羅山登用に始まり、徳川綱吉湯島聖堂建設で最高潮に達した。だが、徳川吉宗は理念的な朱子学よりも実学を重んじたこと、加えて古学(山鹿素行伊藤仁斎荻生徂徠古文辞学派))や折衷学派などが流行したこともあって朱子学は不振となり、湯島聖堂の廃止さえも検討された(甲子夜話)。

松平定信が老中となると、田沼意次時代の天明の大飢饉を乗り越え、低下した幕府の指導力を取り戻すために、儒学のうち農業と上下の秩序を重視した朱子学を正学として復興させ、また当時流行していた古文辞学や古学を「風俗を乱すもの」として規制を図った。

そこで寛政2年(1790年)5月24日に大学頭林信敬に対して林家の門人が古文辞学や古学を学ぶことを禁じることを通達し、幕府の儒官である柴野栗山・岡田寒泉に対しても同様の措置を命じた。更に湯島聖堂の学問所における講義や役人登用試験も朱子学だけで行わせた。また、林信敬の補佐として柴野・岡田に加えて尾藤二洲や古賀精里を招聘して幕府儒官に任じ、更に荒廃していた湯島聖堂の改築を行った。寛政4年(1792年)9月13日には旗本・御家人の子弟を対象として朱子学を中心とした「学問吟味」を実施させた。

寛政5年(1793年)4月に定信主導の学制改革に必ずしも協調的とは言えなかった大学頭林信敬が嗣子の無いまま急死すると、幕府はその養子縁組にも介入して譜代大名松平乗薀の子である乗衡を養子として送り込み、林家の湯島聖堂への影響力を抑制した。そして同年7月の松平定信の老中辞任後も将軍徳川家斉の意向によってこの政策は継承され、湯島聖堂から学問所を切り離して林家の運営から幕府直轄の昌平坂学問所に変更した。寛政11年(1799年)11月には定信時代からの懸案であった湯島聖堂の改築が完成し、以前よりも敷地・施設よりも大規模なものとなった。享和元年(1801年)4月20日には将軍徳川家斉徳川家宣以来絶えていた湯島聖堂参詣を行い、ここに定信の正学復興の意図はほぼ完成した。

ただし「寛政異学の禁」の本来の趣旨は昌平坂学問所などの幕府教育機関における異学の講義を禁じることを意図しており、国内の異学派による学問や講義を禁じられたわけではない。例えば、幕末期に昌平坂学問所の儒官であった佐藤一斎は元々陽明学を学んでいたため、学問所では朱子学を、自宅では陽明学を教授していたが、学問所での講義でも朱子学の学説について一通り論じた後に、本来は異学の禁に反する朱子学陽明学の比較にしばしば踏み込んだ話をしたという。また、諸藩の藩校における教育方針を規制するものではなかったものの、幕府の動向を見た各地の藩校ではこれにならうものも出、朱子学に反対する学問を唱えていた儒者は生徒が少なくなり困窮したものもあったという。

なお、異学の禁に反対した儒者五名(亀田鵬斎、山本北山、冢田大峯、豊島豊洲、市川鶴鳴)を特に寛政の五鬼という。

それにつけても「浄瑠璃三味線に心耳をこらしたる者」の評価の低さ…

それは、やはり西郷から始めたいと思う。愛宕山での西郷から検討したいと思う。

江戸無血開城の正式会談後、愛宕山に海舟と向かった。そこで以下の会話が両者間でなされたと海舟が述べている。

「西郷はためいきをついて言うには、”流石は徳川公だけあって、エライ宝をおもちだ“というから、どうしたと聴いたら、イヤ山岡さんのことですというから、ドンナ宝かと反問すると、”イヤあの人は、どうの、こうのと、言葉では尽くせぬが、何分にも腑の脱けた人でござる“」(山岡鉄舟』 大森曹玄著 春秋社

この後に「南洲翁遺訓」に記された内容が続くのであるが、ここでは西郷が発した「エライ宝物」という表現に注目したい。それは、当然に鉄舟を指してはいるが、その言葉の裏に徳川幕府に対する評価もあると考えたいのである。ということは、徳川幕府が倒壊する時に至って、突如として一介の軽輩旗本を、それも江戸を戦火から救う重要な交渉・談判に登場させ、見事に成し遂げさせたというところ、そこに徳川幕府における人材層の豊かさと、懐の深さを感じ、これは西郷も同様ではなかったと推測したいのである。

さすがに幕府には隠された優れた人物がいるものだと、鉄舟を目の当たりにして思ったに違いない。それが「エライ宝物」ということになったのだと思う。この推測が妥当とするならば、その意味するところは徳川政治というもの、それは封建体制下ではあったが、意外にすばらしい政治が行われていたと考えられ、西郷の「エライ宝物」発言は問題の本質を突いているのではないかと思われるのである。

そのあたりの研究が進み、実は、最近の歴史研究では「暗黒の江戸時代」というのは、虚像であったと指摘されつつある。「明治政府は幕府を転覆して権力を掌握したから、幕府政治をことさらに暗黒なものとして描く必要にせまられた。しかも『暗黒の近世』という虚像は、反政府の運動を展開した自由民権運動家をもとらえた。自由民権家も、文明開化という時代の波にとらえられ、江戸時代を『未開』、『暗黒』と決めつけた点においては明治政府と異口同音であった」と指摘するのは「『開国と幕末変革』井上勝生著 講談社」である。江戸時代の実態が解明され、従来認識から変化すべきと主張しているのである。

つまり、鉄舟が生まれ育った江戸時代は、我々が思い込んでいるような実態とは異なっていて、割合自由なシステムで運営されていたのではないかと思われるのである。

そこで、まず鉄舟の生まれ育った、天保という時代(千八百三十年~四十三年)までの歴史の流れを、ざっと振り返ってみることから検討してみたい。

江戸時代には三大改革の時代があった。享保、寛政、天保であるが、その系譜を振り返ると、そのスタートは元禄時代にある。元禄時代千六百八十八~千七百三)は五代将軍綱吉の時代にあたり、側用人柳沢吉保が権威をふるった時期で、華やかだが賄賂が横行し、生類憐れみの令などの悪法が出され、幕府の財政が困難を迎えた。

この後に八代将軍吉宗が登場し、享保時代(千七百十六~三十五)の改革を行った。これは政治改革ともいうべきもので、幕政を引き締めて倹約を励行し、財政を好転させ幕府を立て直して、吉宗は「幕府中興の祖」と呼ばれた。

ところが、その後の十代将軍家治の時代に側用人田沼意次が強い権勢をふるい、賄賂、汚職の腐敗した政治が行われた田沼時代となった。天明七年(千七百八十七)に筆頭老中に松平定信が就任し、田沼の政治を悪政であると徹底的に批判し、厳しい倹約と文武の奨励による綱紀の粛正などの寛政の改革を断行した。

しかしながら、十一代将軍家斉の五十五人もの子女をもうけた大御所時代になると、老中水野忠成が権勢をふるい、田沼時代の再来かのような賄賂、汚職がはびこった時代が来て、家斉の没後その大御所政治を徹底的に批判して改革を行ったのが、老中水野忠邦天保の改革と呼ばれている。

このように見てくると、幕府政治は緩みと緊張を繰り返し、「悪政」の後に「善政」あるいは改革が行っていることになるが、その中の徳川幕府最後の天保改革時に鉄舟が幼少時代を過ごしたのである。

明治初期小新聞に見る<娘>と三味線

近世後期において三味線は、武家奉公を目的とする町人層の青少年女子に習得されたが、明治初期小新聞において編集者側、投稿者双方から就学を妨げる因習として批判にさらされる。しかし「国家に益なき遊芸」観の共有はまだ見られず、それが徹底する事はなかった。

1950年代後半における「エレキ禁止令」につながる不穏な何かを感じざるを得ない?