諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【山岡鉄舟】【西郷隆盛】【飛騨女伝承】「幕末のブルース・ウェイン」について。

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西郷隆盛が言った言葉として有名なのが『命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難かんなんを共にして国家の大業は成し得られぬなり。』という事ですが、これは山岡鉄舟と話して圧倒され感服して持った感想だそうです。

その後、西郷隆盛江戸城無血開城の交渉の時に、一人丸腰で幕府の重臣であった勝海舟に会い、勝海舟に敬意を示してずっと正座して話したそうです。その時に、勝海舟が後に『今までで一番恐ろしいものを見た。命も金も名誉もいらないとは始末に負えない』と言ったそうですが、恐らく山岡鉄舟に影響を受けて襟を正しての事であったのかも知れません。

まさしく「集-立Gestellシステム後期ハイデガーいうところの「達成不可とも見て取れる高度の特定意図達成の為に手持ちリソース全てを総動員しようとする体制」が違う」という感じ。こんな人物はどうやって生まれたのでしょう?

老いらくの恋と「家刀自」

山岡鉄舟の父)小野朝右衛門は蔵前で御蔵奉行として六百石取りの旗本から、飛騨高山代官として赴任したのであるが、そのときすでに七十二歳であった。

江戸自体に代官は1183人。代官を配置したところは政治的に重要な都市、軍事や交通の要衝、鉱山に天領を置き、四十七カ国に配置し、総石高は約四百万国。代官が執務する陣屋は、江戸中期には東北の尾花沢から九州の冨高まで六十三カ所あった。代官の一カ所の平均在任期間は六年、異動は二から三回。

現在の財務省にあたる勘定所に所属し派遣された。派遣先の地元では「殿様」と呼ばれる身分であったが、一般的に代官の幕府内での地位は低かった。だが、無事勤め上げれば江戸での出世が待っていた。

派遣元の勘定奉行まで上り詰めたのは、江戸後期天明年間の久保田十左衛門政邦ら四人いた。長崎、境、函館などの遠国奉行に昇進した者も八人いる。幕末の竹垣三右衛門直道の様に代官から皇女和宮の用人になって明治維新を迎えた事例もある。

勿論、このような昇進組は三分の一以下で、病気や老齢で依願免職となった者が二十二%、自分や部下の失態で罷免、遠島、追放になったのは十二%おり、三十八%は在任中に死亡した。鉄太郎の父小野朝右衛門も在任中に亡くなっているが、一般的になかなか厳しい仕事であったことが伺われる。

さらに、代官と聞くとテレビの影響で、悪徳商人と結託した悪代官をイメージする人も多いが、実際には代官を恩人として顕彰した碑が残っているところが少なくない。例えば長野県須坂町で慶応二年(1866)まで代官だった甘利八衛門為徳を「甘利社」として祀っている。

さて、小野朝右衛門が亡くなった七十九歳の年齢、この年齢まで代官として現職であった事例は特別なのかということであるが、勿論、七十九歳は当時では相当の高高齢であったので、通常でないことは容易に推測つく。しかし、江戸中期の平岡彦兵衛良寛は元文元年(1736)の美作代官を皮切りに、駿河代官まで九カ所を勤め上げ、最後に退任したのは寛政元年(1789)で、この時の年齢は喜寿の七十七歳であった。この平岡彦兵衛良寛が西沢敦男氏調査で、最高転勤回数人物として記録に残っているが、喜寿で退任した事実から、小野朝右衛門に近い高齢者代官が存在したことを証明している。

という事実は何を意味しているのか。当時でも周りには若い旗本が大勢いたはずであるが、その中で高齢者に重要拠点である代官所の行政責任を任せるということ、それは年齢によって人を差別せず、人物本位の人事が行われていたということを証明している。江戸時代には定年制度が存在していなかったのである。

さらに、鉄太郎の父小野朝右衛門について驚くことがある。それは鉄太郎が誕生した時の小野朝右衛門の年齢である。六十三歳である。母磯が三番目の妻であって、二十六歳という若さで鉄太郎を産み、それから五人も男子を産んでいる。母磯がいくら若いといっても、父小野朝右衛門が七十七歳の時に末弟の務が生まれているのであるから、そのエネルギーには驚かされる。

またさらに驚くのは、母磯と結婚した時の父小野朝右衛門の年齢が、現代の定年年齢である六十歳を過ぎていたということである。現代の通常の感覚で考えれば、六十歳以後は第二の人生ということで、生活設計を見直すことが行われるが、改めて定年を機会に結婚する人は殆ど見当たらない。

しかし、父小野朝右衛門は、小野家所領地の管理を塚原石見に依頼していた関係で、塚原家の娘である磯を見初め、結婚を申し入れしたのである。六百石取の旗本であっても、六十歳過ぎの男と三十歳以上離れた若い娘の磯との結婚は難しく、結婚するに当たって「生涯不自由はさせない。倅の代になっても粗略にすることはないことを申し渡す」という念書が交わされたという。それだけ魅了した磯であったのであろう。

しかし、それだけエネルギッシュな父小野朝右衛門にも死は訪れる。亡くなったのは黄疸とも、脳溢血とも言われ、その唐突な死に自刃説も流れた。

だが、七十七歳で鉄太郎の末弟の務をもうけるほどの小野朝右衛門が、簡単に病気で亡くなるはずがないと思う。死因は病気であってもそこにいく着くプロセスに何らかの理由があったはずである。そうでなければ六人もの子ども、それも乳飲み子まで残している状況では、この子が育つまでは何とか元気で生きよう、と思うのが通常の父親の感覚だろう。

しかし、父小野朝右衛門は母磯の死後五ヶ月で急死してしまった。七十歳を過ぎてから重要拠点である飛騨高山代官所を任せられるほどの人物であるのに、あまりにもあっけない。何かの事情があるはずで、このところから自刃説が言われているのであるが、鉄舟は後年「父は脳溢血で死んだのだ」(『おれの師匠』小倉鉄樹 島津書房)と語っているのであるから、やはり病気で亡くなったのだろう。

とすると元気であった人が突然亡くなるには、何らかの心的な要因があるはずである。それは妻磯の死であったと思う。前号で分析したように磯は「家刀自」であった。家刀自とは久しく聞かない言葉であるが、代官としての夫小野朝右衛門の行政内容には口は挟まないが、肝心なところは家刀自として配慮し支援し、子供の教育にも熱心に情熱を傾ける。家庭内の雰囲気醸成と責任行動分配権限が、実は母であり主婦である磯にあり、実体的な家庭運営者は磯だった。つまり、人が日々の暮らしを生きるというその生活の中枢に、女性が位置しているという、伝統世界の女性の力を代表することを「家刀自」と言うのであるが、これが飛騨高山代官の小野家の実態だった。

その家庭運営の統率者であって統率者であって責任者であった母磯の突然の死、その打撃は鉄太郎以下の兄弟よりも、父小野朝右衛門に大きな影響を与えたのである。今まで心の支えであり、相談相手であり、実質的な家庭運営者であった磯を失ったことは、高齢である朝右衛門の精神状態に厳しく圧し掛かってきた。飛騨高山代官所の行政にも情熱が湧かなくなったのであろう。それが磯に続く小野朝右衛門の突然の死の真因ではないかと思う。

三千五百両の遺産

両親を失った鉄太郎の手許には三千五百両というお金があった。父母が遺してくれた財産であった。この三千五百両、現在の円に換算するとどのくらいになるか。それを検討してみたい。

江戸時代のお金を今の価格に当てはめるのは意外に難しい。それは、①江戸時代は金貨、銀貨、銭貨の三種類があって、それぞれが別相場となっていたからである。一つの国の中に円とドルとユーロが共存しているような関係であり、②江戸時代の前期と後期では改鋳によって品質が低下していき、貨幣価値が変動し、③飢饉の頻発があり、その都度物価が高騰し、場所や季節によって貨幣価値が変わり、④今とは経済財貨の内容が異なるので、一概に物の価格を持って換算できない等の理由であるが、それでもいろいろの方法で換算してみないと、鉄太郎が両親から受け継いだ三千五百両の価値が判明しないことになる。

そこで、いくつかの仮説前提ではあるが算出してみたい。

年代を比較的に物価が安定していた文政時代(1818~1829年)でみると、金一両=銀六十~六十五匁=銭六千五百~七千文であって、これで江戸の食べ物を基準に換算してみると一両=四~二十万円、平均をとると十二万円、労賃を基準にすると一両=二十~三十五万円、平均とると二十七万円となる。

遺産三千五百両は食べ物を基準で四億二千万円(三千五百×十二)、労賃を基準で九億四千五百万円(三千五百×二十七)となる。現在ではちょっと考えられない大金を父母が遺したことになる。

次に、貨幣の価値算定は大変難しいという前提付であるが、日銀貨幣博物館のデータを参考にしてみたい。一応の試算として江戸時代中期の米価基準で一両=約四万円、労賃基準で約三十~四十万円、そば代基準で十二~十三万円としている。ただし、米価基準による一両については、江戸時代初期で十万円、中後期で三~五万円、幕末時期で三~四千円と、時代によって大きく較差があると注記している。

この基準を基に三千五百両を計算してみると、米価基準で一億四千万円(三千五百×四)、労賃基準で十二億二千五百万円(三千五百×労賃基準の平均値三十五)、そば代基準で四億二千万円(三千五百×十二)となる。

そこで幕末時期の一両=三千円で計算してみると千五十万円となるが、これでは少なすぎると感じる。鉄太郎の父小野朝右衛門が亡くなった嘉永五年(1852)は明治維新の十六年前であり、ペリー来航(1853)の一年前であるから、幕末時期直前であるので、この千五十万円は除外して、計算した金額を高い順から整理してみると、十二億二千五百万円、九億四千五百万円、四億二千万円、一億四千万円となる。いずれにしても大金で、現代の普通のサラリーマンの退職金は足許にも及ばない金額だ。この試算結果が妥当かどうか、それは読者の判断にお任せしたい。

 父母の不審な最後

小野朝右衛門の死について小倉鉄樹の著書「『おれの師匠』島津書房」には次のように記されている。

「小野郡代の急死については當時色々の取沙汰があったが、朝右衛門が盛んに武道を奨勵し、幾度か陣立を行った爲に、幕府にうたがはれ、遂に違法として咎を受け、自刃したと云ふ説がある」しかし、この後に「然し師匠自身は『父は脳溢血で死んだのだ』と言われている。發喪せられたのは死後四ヶ月もすぎた六月五日で、其の時の廻状等今も残っている」とも記しているので、前号では脳溢血による病死と解説した。

だが、以上は正史の類であり、小野朝右衛門の死については、不審な異説がある旨の主張を、小島英煕著「山岡鉄舟」(日本経済新聞社)で展開しているので、その概要をお伝えしたい。

「異説の主張者は鉄舟の血筋という成川勇治氏である。成川勇治氏は、鉄舟にほれ込んで、弟子入りした人物の成川忠次郎の孫である。孫となる経緯は、鉄舟の長男山岡直記、この人物は鉄舟の子どもと思えない出来の悪い存在だったが、その直記の子どもである武男を、事情あって成川忠次郎が引取り育て、忠次郎の長男精一の娘と結婚させ、生れたのが勇治氏であるから、確かに鉄舟の血筋を引いている。この勇治氏が、やはり山岡直記の娘であるきくの孫と結婚している。鉄舟の血筋を守ろうとした武男の考えであったという」

この武男の祖母にあたる、鉄舟の長女松子から聞かされた話として、以下の記述が同書にあるのでそのまま紹介したい。

「鉄舟は彼女(注 松子)に『小野家が郡代の時、うちに竹矢来を組まれ、父は蟄居、切腹させられたのだ』と語っていた。しかも、母の磯は幕府隠密の手によって毒殺されたという。小倉鉄樹の語った噂を松子は真実として話したことになる。

勇治氏の話をまとめれば、当時、高福(注 朝右衛門)には謀反の疑いがあった。幕府に無断で陣立を実行したからだ。小野家では毎年、近在の農家に行って、栗粥を食べる行事があった。この時、農家の者が幕吏に脅迫されて粥に毒を入れて、みせしめのために磯を殺した。これによって磯の三千両蓄積疑惑が浮かんだ。高福も一連の責めを負い、切腹させられた。
それが喪を長く伏せた理由であり、その間に疑惑は晴れた、ということらしい。小野家は断絶せず、鉄舟の異母兄の鶴次郎が相続したからだ」


このように小島英煕著「山岡鉄舟」に書かれているが、これは鉄舟の血筋という成川勇治氏へのインタビュー結果からである。成川勇治氏は高山まで行き、いろいろ調べたが誰からも相手にされずに、結局、嫌気がさして小島英煕氏に語るまで沈黙してきたという。


だが、これが真実だとしたら、鉄舟が江戸無血開城に動いた幕府への忠誠心と、この両親の不審死よる幕府への葛藤心理、それらをどのように内面的に調整していったのか。母が毒殺され、父が切腹させられたことへの屈折した感覚、それが鉄舟の幕府不信へとつながる可能性は大きいと思うが、鉄舟は慶喜を助け、結果として江戸無血開城を成し遂げている。自らの深い心の陰影を押し殺し、それを超え、鉄舟は江戸無血開城に動いたことになる。成川勇治氏の発言は重い意味を持っている。

なお、この成川勇治氏とは、数年前に埼玉県小川町でお会いしたことがあるが、その際にこのような内容について、何もお話しがなかったことを記憶している。

遺産の処分

両親を失った鉄太郎の手許には三千五百両というお金があった。父母が遺してくれた財産であった。この三千五百両について、いろいろの試算計算結果から、今のお金に換算して大金であることは前号で述べた。

このような大金をどうやって蓄財したのか。母磯の死が三千両蓄積疑惑に絡んだものであり、後日疑惑が解けたにせよ、大金蓄財が疑問視されたと成川勇治氏が指摘している。

しかし「磯の父である塚原石見の遺産に加えて、日々の生活を切り詰めて貯めたものだ」という見解もある。(佐藤寛著「山岡鉄舟 幕末・維新の仕事人」光文社新書

ここで江戸時代の代官の収入についてみてみたい。

郡代、代官はその家禄を有するわけですが、代官の職務を行うための属僚の手当ておよび役所の諸入費に当てるため、はじめ口米や口永と称して、年貢の中より徴収していたが、享保十年(1725)には、口米や口永は幕府の収入とし、代官にはその支配高に応じて、一定の米金を給することにした。支配高五万石につき米は七十人扶持、金は西国が七百五十両、中国が六百七十両、その他の地方では六百両でした」(石井良助著「江戸時代漫筆」井上書房)とあるように、飛騨高山代官所は石高十万石を超えていたので、普通の代官所の倍の手当てを受けていたはずで、約七年もの代官所郡代としての期間、収入を大事に節約していけば、三千五百両の貯金はそれほど無理なく貯まると思われるので、不正蓄財ではなかったと考える。


ところで、江戸に戻った鉄太郎は弟たちの世話に明け暮れていたが、それを見かねた剣道師範の井上清虎は弟たちを養子に出すことを勧めた。


井上清虎は千葉周作玄武館道場の四天王として名声があり、その井上清虎を小野朝右衛門が飛騨高山に迎え、鉄太郎の指導者となったのであるが、この井上によって鉄太郎の剣が一段と伸び、その後も二人の間は信頼の関係でつながっていて、鉄太郎の育児苦労に対する救いの手段として養子を勧めたのであった。

当時の旗本・御家人は生活に困窮している者が多く、身元確かで多額の持参金のある子どもは、引き取り手が多く、五人の弟に各五百両をもって養子に出し、鉄太郎は百両だけ手許に置き、残りすべてを小野鶴次郎に渡して三千五百両を整理したのであった

鉄太郎のもとに残した百両は、自らが貧乏な山岡家に養子に行くに当たっての持参金としたのであったが、ここに金銭に恬淡として生きた鉄舟の人柄が顕れている。

ただの貧乏幕臣出身者ではなかったのですね。それにつけても、まさかここまで「バットマンの中の人」大富豪ブルース・ウェインみたいな逸話が残っているとは…

清水次郎長の社会復帰を助けたのも、そういう過去ゆえだったとか。

そうか、江戸幕藩体制下の飛騨直轄領とはそういう場所でもあったんですね。ぜひ「飛騨女ひだにょ / ひだじょ)」シリーズに番外編として加えたい…

というか米澤穂信古典部シリーズ2001年〜)」の折木奉太郎も、新海誠映画「君の名は。2016年〜)」の立花瀧とか、ここでいう(山岡鉄舟の父)小野朝右衛門タイプの最後を遂げそうなのが飛騨女伝承(家母長制)の世界なんですね。「古典部シリーズ」の方は「いまさら翼といわれても2016年)」で別展開が見えてきましたが、「君の名は。」については、まさに宮水俊樹(メインヒロイン宮水三葉の父)と妻二葉の関係がそんな感じだったし、おそらく三葉も年をとればとるほど母親の二葉に似てくるのです…