諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【Funky Sounds前夜】【1960年代】グループサウンズの始まりとなった「涙の太陽(1965年)」

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これまでの投稿において「キューティーハニー1973年)」や「魔女っ子メグちゃん1974年)」といったアニメの主題歌を「グループ・サウンズの終着点」と表現してきました。ならば「出発点」もあった筈なのです。

安西マリアさんあんざい・まりあ=本名・柴崎麻利子=しばさき・まりこ=歌手)15日、心筋梗塞こうそく)のため死去、60歳。葬儀は近親者で行う。

 昭和48年(1973年)、「涙の太陽」で歌手デビュー。ドイツ人の血を引くエキゾチックな顔立ちで人気を集めた。今年2月20日、自宅で心筋梗塞で倒れ、危篤状態が続いていた。

今からちょうど42年前(1973年)の今日7月5日にリリースされた安西マリア(本名:柴崎麻利子。1953年12月16日-2014年3月15日)のデビュー曲「涙の太陽」。当時20万枚を超えるセールスを記録 (オリコン16位)し、浅田美代子あべ静江アグネス・チャンと共に安西マリア(奇しくも全員「あ行」!)を、この年のレコード大賞新人賞にノミネートさせたヒット曲としてお馴染みだが、もともとは1965年に他の歌手によってヒットした作品で、安西盤は8年ぶりのリバイバル・ヒットだった。

オリジナル・シンガーは、1945年7月2日英国生まれ横浜育ちのエミー・ジャクソン(本名エミー・イートン)。1964年にラジオ関東現ラジオ日本)のDJ番組でアシスタントを務めているところを音楽評論家の湯川れい子に見い出され、1965年4月20日涙の太陽」で歌手デビューを果たす。このエミー盤は湯川れい子自らが「Reiko Hot Rivers」のペンネーム(Hot Rivers =湯川)で書いた英語詞で歌われており、日本コロムビア洋楽部のCBSレーベルからリリース。さらには、エミー自身も英国人歌手という触れ込みで売り出されており、完全に舶来の洋楽ポップスを装っていたのである。 

  • 何故“ニセ洋楽”を装ったのか? 米大手のCBSコロムビアと提携していたもののヒット曲に恵まれなかった日本コロムビア洋楽部が起死回生の一打として企画した“和製洋楽”作品という性格上、舶来ポップスとして売り出そうとしていたのは容易に察しがつく。日本育ちで会話に何の不自由も無かったエミーが終始英語だけで応対する記者会見を開いて話題を呼んだのもそのためだろう。しかし、そんな制作コンセプト以上に“ニセ洋楽”を装わなくてはならない重要な理由があった。それは、当時のレコード業界の基本的秩序を形成していた「専属作家制度」の呪縛から逃れるためである。
  • 専属作家制度とは、レコード会社が自社で抱える歌手のレコーディングには基本的に自社が抱える作詞家・作曲家の作品を起用するというもので、例えばコロムビア専属歌手は同社専属作家の作品しかレコーディングできず、ビクター専属の作曲家が書いたヒット曲のカヴァー盤を出すことは御法度だった。ひとつヒット曲が生まれると多くの歌手たちによるカヴァー盤が生まれ、それがまたヒットしていくという、欧米のレコード産業におけるヒット曲再生産システムが日本では確立されなかった最大の要因がこの制度にあったと言っても過言ではないだろう。
  •  1960年代当時、戦後創立の東芝レコードやクラウンなど新しい会社は別として、明治生まれで日本最古のレコード会社であるコロムビアにおいて、専属作家制度は厳密で、同社の洋楽部とはいえオリジナル制作において自社専属作家以外(涙の太陽」の作曲を手がけた中島安敏はフリーランス作家)の作品をレコーディングすることはタブーに等しかった。ニセ洋楽にこだわったのは、そんな社内事情を一点突破するための掟破りな対処法でもあったのである。

エミー・ジャクソン盤のひと月後の5月25日には青山ミチが歌う日本語ヴァージョン(安西マリア盤はこの歌詞に準拠してカヴァー)もリリースされ、相乗効果でオリジナル盤共々ヒットした。

専属作家制度の壁をスルーできる制作方法でヒット曲を生みだすことに成功したコロムビア洋楽部のスタッフは、翌66年3月20日にブルー・コメッツの「青い瞳」をリリース。

作曲をメンバーの井上忠夫大輔)が手がけ、フリーランス作詞家の橋本淳が英語詞を書いたオリジナル曲をCBSレーベルから出すという「涙の太陽」と同じ方法論で制作されたこの曲は、同時期に日本ビクターの洋楽レーベルからリリースされたザ・スパイダースの自作曲「ノー・ノー・ボーイ」や、この年の9月に東芝レコードの洋楽レーベル「キャピトル」からリリースされたザ・ワイルド・ワンズの自作曲「想い出の渚」などと共に、のちに「グループ・サウンズGS)」と呼ばれる新しい音楽スタイルの原点となったのである。

 そして、一大ブームとなったGSに数多のヒット曲を提供していったすぎやまこういち、橋本淳、村井邦彦阿久悠筒美京平といったフリーランス作家たちの活躍によって、いつしか専属作家制度は崩壊。中世の荘園制度が崩れて次の時代が始まったように、日本の音楽シーンも新たな時代を迎えた。長年にわたりレコード業界を牛耳ってきた秩序維持装置とも言える旧態依然としたシステムを根底から覆す一大革命…その発火点となったのが「涙の太陽」だったのである。

1950年代後半に松本清張の「社会派ミステリー」革命があり、1960年代前半から未曾有の翻訳書ブームが始まったのを思い出します。

また東京オリンピック開催を契機に「都会の悪所」の掃討が始まります。

そして1960年代後半にはアニマルズ「朝日のあたる家The House of the Rising Sun、1964年)」やベンチャーズのサーフィン音楽が流入してきた訳です。

エレキギターは日本へは1960年代後半に上陸。たちまち江戸時代の「三味線」上陸に続く「不良アイテム」として煩方(うるさがた)の批判対象となった。

青春デンデケデケデケ - Wikipedia

エレクトリック・ギター(Electric Guitar) - Wikipedia

1965年1月の『ザ・ベンチャーズ』の来日以降、ベンチャーズの人気と共にエレキ族と呼ばれる若者を中心に爆発的にエレキギターに注目が集まり「エレキブーム」が訪れた。テレビ番組『勝ち抜きエレキ合戦』等のテレビ番組や加山雄三主演映画『エレキの若大将』等の後押しもありブームに拍車をかけていった。

しかし1965年10月に栃木県足利市教育委員会の働きかけで起こった小中学生のエレキ購入禁止や大会参加禁止等を定めた通称「エレキ禁止令」が出されると、新聞で大きく取り上げられるなど社会問題化し、一方的に「エレキギターは不良少年がするもの」とレッテルを貼られ、コンサートを見に行っただけで高校を退学させられるなど全国で激しい「エレキギター追放運動」が波及していった。

条例は後に廃止されたもののブームは次第に沈静化していくことになる。その後寺内タケシによるハイスクールコンサート等の熱心な努力もあり改善されていく

この時期には作曲家の宮内國郎1932年〜2006年)の仕事が面白い。ジャズ畑出身ながらエレキギターサウンドへの関心も高く、特撮TVドラマ実現の可能性を探っていた円谷皐(円谷英二の次男)に誘われる形でテレビ業界に根を下ろして「ウルトラQ1966年)」「ウルトラマン1966年〜1967年)」の主題曲を手掛け、さらにハンナ=バーベラプロダクション制作TVアニメの日本語版にも関わっているのである。この時期に次第に8ビート基準の「(コード進行に合わせてそのままリズムラインがスライドしていく、既存のメロディアスな展開に比べたらいささか下品なベースリフ」の概念が定着していくが、まさにその端境をたった一人で顕現した人物…


米国ハンナ=バーベラプロダクション制作TVアニメ「スーパー・スリーThe Impossibles、1966年、日本放映1966年〜1967年)」は、同じエレキサウンドながら(あえて当時日本を席巻していたベンチャーズグループ・サウンズから離れた)温和な方向に。

スーパースリー (アニメ) - Wikipedia

怪獣王ターガンThe Herculoids、1967年)」も宮内國郎作曲。交響曲風のオリジナルと異なり、日本版は完全にグループサウンド。ただしズンドコ展開は控え目?

日本のエンターテイメント業界は。まず展開する内容以前に「(戦前から続く伝統的制作体制」それ自体を破壊しないといけなかったのですね_