諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】元来は愛国主義的で民族主義に批判的だった「世界市民」

共産主義の父カール・マルクスKarl Heinrich Marx, 1818年〜1883年)は神聖ローマ帝国臣民としてリソルジメントRisorgimento =イタリア独立運動)を生涯許さず、その件で当時パトロンの一人だった「社会民主主義の父フェルディナント・ラッサールFerdinand Johann Gottlieb Lassalle, 1825年〜1864年)との関係を悪化させてしまいました。

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もちろん普墺戦争独Deutscher Krieg、1866年)と普仏戦争仏Guerre franco-allemande de 1870、独Deutsch-Französischer Krieg、1870年〜1871年)に勝利してドイツ帝国を分離独立させたプロイセン王国とは、それ以前から犬猿の仲だったのです。

マルクスビスマルク専制政治とフランスも嫌いだった。生まれ故郷が仏軍に蹂躙されたからだろう。不思議なことにオーストリアには好感を持った。

プロシアが嫌いではあったが、皇帝ウイルヘルムI世が2度も暗殺の危機にあった。テロリズムの手段を非難した。それを口実にビスマルク社会主義者への弾圧を強化した。

また、パリのコミューンの暴力的なやり方を非難した際、ビスマルクの手下ではないかとのうわさを流され、それが海を越えてロンドンまで届いた。ユダヤ人ではあったが、カソリックに改宗した。ユダヤ人は、金儲けに固執し、社会的弱者に配慮しないとの理由であった。

彼は年上で裕福でない貴族出身のジェニー・ヴォン・ウエストファーレンと結婚したがプロシア政府官僚の職を得ることしなかった。権威、専制王政、貴族階級、軍人をなど権力に基づく行動をとる連中が嫌いで、独裁と専制で民衆を顧みないプロシア帝国とロシア帝国が嫌いだった。これらの帝国を革命により破壊したいと考えた。

そもそもコスモポリタン世界市民)の概念はアレキサンダー大王や古代ローマやモンゴルの「世界帝政」から派生してきたものです。

こうした歴史を知らない日本の戦後左翼の現状は以下。

考え方によっては、全ては「共産主義の父カール・マルクス神聖ローマ帝国には変わらぬ忠誠を誓い続ける一方、イタリア王国ドイツ帝国の分離独立運動は徹底して毛嫌いした矛盾に端を発するとも?