諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】自分にとってのレゲエ音楽のルーツ?

私の場合、何故かボブ・マーリーBob Marley、1945年〜1981年)じゃないんです。

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1945年、ジャマイカの北の海岸に位置するセント・アン教区、ナイン・マイルズで、白人のイギリス海軍大尉の父とジャマイカ人の母との間に生まれる。当時、61歳であった父と18歳の母は、ボブの誕生後に別れ、ボブは母親とナイン・マイルズで幼少期を過ごした。

10歳のときに父が死去。父からの経済的な援助がなくなり、一家は職を求めてキングストン郊外のスラムに移り住む。周囲の黒人とは異なる容姿から「ドイツ人」というアダ名がつき、それを嫌って靴墨で顔を塗ることもあった。ボブは、この地でバニー・ウェイラーと音楽活動を開始し、音楽に専念するため14歳で学校を中退する。

17歳でオーディションに合格し、ソロ・ミュージシャンとしてデビュー。18歳からトレンチタウンに在住し、少年時代からの親友らと「ウェイラーズ」というグループ名で活動を始める。また、後に「レゲエの父」と呼ばれたジョー・ヒッグスに音楽的薫陶とラスタファリ運動の教えを受ける。

ラスタファリ運動は、ジャマイカの労働者階級や農民を中心にして発生した宗教的思想運動であり、聖書を聖典とするも特定の教祖はいない。アフリカ回帰主義を奨励し、その指向は、生活様式全般、例えば、菜食主義やドレッドロックス、ガンジャを聖なるものとしている。

1974年、30歳のときに、エリック・クラプトンがカバーしたボブの曲「アイ・ショット・ザ・シェリI Shot The Sheriff)」が全米1位を獲得。ボブ・マーリーの名は一気に世界に広まる。同年、アルバム『ナッティ・ドレッド』を発表。英国や米国のロック雑誌でも絶賛される。翌年にシングル発表した「ノー・ウーマン・ノー・クライNo woman no cry)」も世界的大ヒットを記録。ボブは、第三世界を代表するスーパースターを呼ばれるようになる。

1976年、ジャマイカの政治的緊張が頂点に達する。ボブは、平和を取り戻すきっかけを作ろうと無料の「スマイル・ジャマイカ・コンサート」を計画。それにより二大政党の対立抗争に巻き込まれ、12月3日に狙撃されて重傷を負う。負傷したまま5日の無料コンサートに出演し、翌朝バハマへ亡命した。

1978年にジャマイカに舞い戻り、「ワンラブ・ピース・コンサート」に出演。コンサートを見に来ていた二大政党の党首をステージ上に招き、和解の握手をさせた。音楽が世界を動かした瞬間であった。

1980年、脳腫瘍が発見される。様々な療法を試すも回復せず、1981年、母のいるマイアミの病院で36歳の生涯を閉じた。遺体は母国ジャマイカに戻され、国葬が行われた。

ジャマイカ音楽にとって、祖国独立直後にアクション映画「007 ドクター・ノオDr. No、1962年)」の舞台に選ばれ、ジャマイカの歌手が世界に紹介された事は極めて重要な意味を有していた様です。

後付けでザ・ビートルズThe Beatles、 1957年〜1970年)の「オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダOb-La-Di, Ob-La-Da、1968年)」なんぞも加わってきましたが…

オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ(Ob-La-Di, Ob-La-Da、1968年) - Wikipedia

発表された当初はカリプソ・ソングに曲調が似ていることから「ビートルズ初のカリプソ・ソング」と宣伝されていたが、後にレゲエ・ソングに似ていることから「ビートルズ唯一のレゲエ・ソング」とも言われるようになった。

  • ポールが当時よく通っていたクラブThe Bag O'Nailsに出演していたナイジェリア人のコンガ奏者ジミー・スコットはよく"Ob-La-Di, Ob-La-Da"というフレーズを口にしていた。フレーズを聞いたポールが、それをヒントに作ったのが本作である。彼のバンド仲間は「ジミーはあのフレーズを連発していたよ。ナイジェリアのヨルバ人に聞いてみな"Ob-La-Di, Ob-La-Da"は"life goes on"(人生は続く)という意味だって教えてくれるはずだ」と語っている。そのため歌詞は"life goes on"と続けられているが、ヨルバ人の言葉に"Ob-La-Di, Ob-La-Da"というものはなく、スコットの造語である可能性が大きい。
    *本作が有名になったことからスコットは著作権をもとにポール・マッカートニーに金銭を要求したが、ポールはこれを拒否した。その後、ある事件でスコットが逮捕された際に、ポールが多額の法廷費用を負担するのと引き換えに金銭の要求を取りやめたというエピソードが残っている。
  • 歌詞は「市場に勤めるデズモンド・ジョーンズと、バンドで歌手をしているモリーが恋をして結婚する物語」を歌ったものである。ただし4番の歌詞は「デズモンドとモリーが逆になり、モリーが子供たちと一緒に市場で働き、デズモンドが化粧をしてバンドで歌う」というものになっている。これは収録の際にポールが間違って逆に歌ってしまい、録り直そうとしたところジョン・レノンが「この方が面白い」と発言してそのままにしたと言われている。デスモンドは、レゲエのデスモンド・デッカー(Desmond Dekker)から名前を取っている。

  • アコースティック・ギターを弾くときに意図的に録音機器の入力限界を超えた音を出し、締まった音を出している。イントロのピアノはジョン・レノンの演奏である。収録の際にポールから度重なる録り直しを要求されて嫌気がさしたジョンがトランス状態でやってきて、力任せに弾きなぐったものである[6]。このような事情からジョンは本作を非常に嫌っている。また、ジョージ・ハリスンも「覚えていることといったら何回もやり直しさせられたことばかり」と発言している。この時期メンバーの仲は非常に悪く、本作のヴォーカル収録に際してポールがプロデューサーのジョージ・マーティンに横柄な態度をとったため、エンジニアのジェフ・エメリックが翌日の「クライ・ベイビー・クライ」のレコーディング途中で帰ってしまったというエピソードが残っている。
    *1996年にリリースされたアルバム『ザ・ビートルズ・アンソロジー3』には、1968年7月8日に録音されたテイク5が収録されている。こちらはレゲエスタイルのサウンドではなく、アコースティック・ギター主体とし、ホーン・セクションがリリース版よりも目立ったアレンジになっている。

  • 同じく『ザ・ビートルズ』に収録されているジョージ・ハリスン作の「サボイ・トラッフル」には、「We all know Ob-la-di-bla-da, but can you show me where you are?(みんな、オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダは知ってるけど、教えてくれないか、きみはどこにいるんだい?)」というフレーズがある。

日本、オーストリア、スイス、オーストラリアなどでも大ヒットしたが、2004年にインターネット上で行われた「50 Worst Songs Ever!」という投票において1位を記録してもいる。

深夜ラジオ経由で「ブリティッシュ・ビートBritish Beat・ムーブメントニューロマとロンドンパンクを併せた日本独特の切り口)」に熱中していた当時の私にとって、窓口はあくまでそれだったのです。

つまりポリス(The Police、1977年〜1986年)…何故かスティング…

レコードコレクター2007年8月号、スチュワート・コープラントへのインタビュー

イギリスでレゲエが流行るようになったきっかけは、パンククラブだったんだよ。

当時のパンククラブでは、当たり前だけど、つねにラウドでアップテンポな曲ばかりがプレイされていた。

そうすると、お客のほうも大きな音で頭は痛くなるし、似たようなタイプの曲ばかりでDJもいささか飽きてきたわけさ。

スローだけど怒って熱くなるような音楽、つまり、革新的でパンクのアテチュードをもった、ダブ・レゲエを、パンククラブでプレイするようになったんだ。

最初にレゲエにトライしたバンドはクラッシュ(The Clash、1976年〜1986年)だね。彼らが最初にレゲエを取り入れた曲は「ポリスとコソ泥Police and Thieves、Junior Murvin版 /  Clash版共に1977年)」という曲だった。

そして、その曲のタイトルどおりに、ぼくらのバンド「ポリス」がそのアイデアを「コソ泥」したわけだよ(笑)



深夜ラジオ経由でこんな曲も摂取。

「ナイトフライ(The Nightfly、1982年) 」- Wikipedia

スティーリー・ダンのメンバー、ドナルド・フェイゲンがにリリースした初のソロ・アルバム。初めて完全にデジタル録音で収録されたポピュラー音楽作品のひとつである。

  • 収録曲のうちいくつかは1950年代以降の出来事や情勢に関する楽曲となっている。「I.G.Y.」は国際地球観測年(International Geophysical Year, 1957年-1958年)のことであり、50年代後半当時の明るい未来像や楽観主義についての皮肉めいた歌、「ニュー・フロンティア」は核シェルターの中で行われるパーティーの歌、そして「グッドバイ・ルック」はカリブ海の島(おそらくキューバ)で起きた革命についての歌である。
  • 「I.G.Y.」は、1995年にIBMThinkPadのCMソングとして再登場した。
  • 「グリーン・フラワー・ストリート」は、2002年に発売されたDVD-Audio盤、2007年に発売された『Nightfly Trilogy』収録MVI盤と2011年に発売されたSuper Audio CD盤にはイントロのエレクトリック・ピアノによるリフレインが8回繰り返されるバージョンが収録されている(演奏時間は約10秒長くなり3:50)。 LPレコード・カセットテープ・通常CD・SHM-CDに収録されているオリジナルバージョンのイントロのリフレインは4回繰り返される。

最も巧みに製作されたアルバムの一つとして広く認識されている。日本人PAエンジニアの中には、設営の都度拡声装置の質を確かめるためにこのアルバムを利用している者もいる。

そしてMTV全盛期にはこの辺りをピックアップ…

アスワド(Aswad) - Wikipedia

1975年にイギリスにて結成されたレゲエバンド。リズム・アンド・ブルースやソウルミュージックの要素を強く取り入れたサウンド作りで知られ、通算21枚のアルバムを発売している。

ノッティング・ヒル暴動(Notting_Hill_race_riots)で有名なノッティング・ヒルで1975年に結成された。ノッティング・ヒルには第二次世界大戦の余波でイギリスへと移住して来たアフロ・カリブ系移民が居住しており、アスワドの主なメンバーも移民2世であった。結成時のオリジナルメンバーはブリンズレー・フォード、ジョージ・オバーン、ドラミー・ゼブ、ドナルド・グリフィス。バンド名の「アスワドAswad)」とはアラビア語で「黒」を意味する。

音楽性の変化結成から1980年代にかけて、ノッティングヒル暴動の様子を歌った『Three Babylon』などメッセージ性の強いルーツロックレゲエを演奏していた。しかし楽曲の傾向はイギリスの社会状況の向上に伴うかのようにポップさを増し、1990年代以降はほぼレゲエとは言いがたい音楽になっていった。

スノー(Snow) - Wikipedia

カナダトロント出身のレゲエミュージシャン。本名はダリン・オブライエン。
1992年『インフォーマー』でデビュー。

  • シングル"Informer (song)" (1992) - 全英1位
  • アルバム"12 Inches of Snow" (1993年1月19日) - 全英5位
  • "Murder Love" (1995年2月21日)
  • "Justuss" (1997年1月14日)

1stアルバム『en:12 Inches of Snow』はアメリカだけで1300万枚を超える大ヒットとなった。 

スノー(Snow)の大ヒット‘Informer’がリリースから 25 年 - ワールド・レゲエ・ニュース by ダブストア


 ちなみにアスワドの「ファイヤー(Fire、1990年)」


こうして全体像を俯瞰してみると、英国音楽の影響が極めて大きい?