諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【エロイカより愛を込めて】「兵器にとっての本望」とは?

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北朝鮮では今も現役」という話がある様ですね。

 これは本当にすごい…

そう、まさにこの戦車は「(国家間競争が全てとなった総力戦体制時代1910年代後半〜1970年代)」を代表する「」の一つだったのでした。特に日本の場合、「 戦争と人間1970年〜1973年)」第三部のノモンハン事件1939年)の場面でこの戦車が日本兵を容赦無く蹂躪し尽くす場面に喝采を浴びせた人々が確実に存在していた事実を忘れてはならなかったりするのです。

 戦争と人間 完結篇

この作品を一言で言ってしまうと、共産主義者側の視点から描いた戦争の話である。彼らは戦前から労働者や貧しい民衆の為に戦い、侵略戦争に反対し、特高の拷問に耐えながら民衆の為に戦った正義と真実の人…みたいな描き方である。「人間の條件」にしても、この「戦争と人間」にしても、主人公が「アカ」呼ばわりされている人物、ないしは、その理解者と設定してあることから、必然的に読者や観客はその主人公の考えに共鳴するよう描かれている。敗戦後、戦争に反省の気持ちと疑問を持っていた当時の庶民が、こうした反戦思想に熱狂するのは当然だったと思う。
*最終的に好意的観点からまとめられているのが興味深い。確かに1970年代から1980年代にかけては「左翼黄金期」として語られる事が多い。

これほどの大作の製作費を、当時一体どこが出したのだろうか?と言うのも気になる所である。
*当時永井豪原作映画「ハレンチ学園4作(1970年〜1971年)」が大ヒットを飛ばしており、その売上が流用されたと考えられている。当時の日本では(日本共産党を完全支配下に置くべく)ソ連中共が潤沢な資金に支えられて盛んに工作活動を行なっていたし、当時「新左翼陣営の敗残者」の最後の牙城になっていた日活アクション映画の制作ラインもそうやって潰されていったのである。

「 戦争と人間(1970年〜1973年)」第3部冒頭ナレーション

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満州には日清日露戦争で獲得した既得権益を守る為に関東軍が駐屯していた。時の日本の軍部は、中国への強硬路線を背景に満蒙を中国から切り離し日本の支配下に置こうと虎視眈々とその機会を狙っていた。
*まさしく「満州もモンゴルも古代からの中国領土」なる中国共産党歴史観そのもの。日本の知識人も諸手を挙げて歓迎し、モンゴル人をして「日本ではリベラル層こそ帝国主義者」といわしめる状況が始まる。時期的に見て「中国共産党プロパガンダ」というより「この映画の歴史観中国共産党側が取り入れた」可能性すら指摘されている。

日本は侵略戦争への道をまっしぐらに突っ走り、国内は軍事主義一色に塗り潰されていく。そしてこれに警鐘を鳴らしたのは日本人の唯一の良心たる左翼の人々だけだったのである。
*実際には共産主義も「戦争至上主義」という点では軍国主義者と価値観が一致しており、多くの共産主義者が転向して軍国主義の礼賛者へと変貌。それどころか太平洋戦争が始まると、それまで抗日運動を続けてきた朝鮮人運動家まで当局に出頭して参戦の意思表示を行ったりしている。左翼陣営は1960年代一杯はこうした「転向問題」を引き摺ってきたが、1970年代に入ると突如として「(それに反対する者をすべからず歴史修正主義者として断罪し続ける事によって)都合悪い事は全部なかった事にすればいい」なる新境地に到達。
植民地末期朝鮮におけるある転向者の運動 

*ちなみにこの物語の重要人物たる「左翼人士」標耕平は、原作ではインパール作戦に参加し、撤退時に激流に流されて死亡するが、映画版では「無敵の正義軍」八路軍に投稿してその一員に加わる。直接描写はないが、そうした「正義の脱走日本兵」が他にも数多く存在する事が暗喩される。

そして西安事件を契機に、それまで敵対関係にあった中国共産党と国民党はともに手を組み、日本の侵略に対する反撃を開始したのだった。かくして抗日救国の気運が中国全土を覆い尽くし、ついに一つの事件を契機に日中全面戦争の火蓋が切って落とされる事になったのである。これに恐怖した日本軍による言語を絶っする大量虐殺が1ヶ月以上に渡って続けられる事になった。殺戮された中国人の数は実に30万人は下らなかったと伝えられる。
*ちなみに「戦争と人間第3部(1973年)」制作中に中国のプロパガンダをそのまま伝えた本多勝一「中国の旅(朝日新聞連載1971年、単行本化1972年)」が発表されている。また原作は満州虐殺に丸一巻分に当たるページ数を割いている。

  • この映画に登場する日本兵は、基本的にはボルトアクション方式の三八式歩兵銃しか装備しておらず、しかも「これを装備した日本兵は無敵である」なる洗脳教育を受けている。そして戦場では民間人に対する略奪と強姦と殺戮しか行わない。それに対抗する八路軍国民党軍は一切登場しない)は米軍のガーランド小銃とおぼしき連射ライフルを装備し多種多様な格闘技を身につけた戦闘の達人の集団としてのみ描かれ、現場に現れると一瞬にして日本軍を殲滅させてしまう「無敵の正義軍」。この展開が後に中国で量産される抗日ドラマの基本フォーマットとなった事も合わせて言い添えておく。そう「反日映画」なるジャンルはある意味、日本起源なのである。韓国における従北派イデオロギーの起源が、ある意味皮肉にも朝鮮王朝の弱腰を嫌い抜いて(後に北朝鮮の民族史観に採用される)高麗中心史観を築造したのが(新羅人の末裔の筈の)慶州道のインテリ達だった様に。

    *実際の八路軍は二人に一人も旧式ライフルが行き渡ってなかった貧弱装備で、そもそも延安に引き篭もって日本軍とほとんど戦火を交える事がなかった。それに対して日本軍は(上海塹壕網を浸透作戦で抜く為に)アジアで初めて分隊単位での柔軟な機動を訓練に取り入れ、分割による火力不足を軽機関銃の大量装備で補っていた(それまでの歩兵戦は中隊単位での一斉突撃が基本で、国民党軍はそのレベルに留まっていた。八路軍はそもそも大半がそのレベルの教練とすら無縁だった)。また当時の日本軍は(英国がボーア戦争1880年〜1902年)に投入したのを嚆矢とする)自転車を歩兵の移動に大量投入しており、これで自動車化の至らない部分を補っていた。

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  • ノモンハン事件1939年5月〜9月)の場面では流石に九八式軽戦車(主砲37mm)が登場するが(機関銃も少数ながら登場)、「正義の軍隊ソ連軍の主力は独ソ戦ナチスドイツ軍のタイガー重戦車とも互角に渡り合えたT32/85中戦車(主砲85mm)。さらに大量の重砲と攻撃機の支援もあって、やはり日本軍は虫ケラの様に一方的に殲滅されていく存在としてのみ描かれる。

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    *実際の当時のソ連軍の主力はBT-5中戦車(主砲45mm)、BA-6装甲車(主砲45mm)、T-37水陸両用偵察戦車(機銃のみ装備)のみ。機動性を重視するあまり装甲を軽視した設計だったのでノモンハン事件においては九四式37mm速射砲や75mm野砲によって容易に撃破された(主に火炎瓶による肉弾攻撃で仕留めたというのは誤伝)。BA-6装甲車に至っては重機関銃の発射する7.7mm弾すら貫通したという。一方、ソ連重砲隊は攻撃目標を日本の歩兵部隊に集中し大戦果を挙げている。
    ノモンハン事件 - Wikipedia

    http://www.warlordgames.com/wp-content/uploads/2014/03/BA-6_soviet_armoured_car.jpg

おそらく最初からソ連の国策映画「ヨーロッパの解放Освобождение、1970年〜1973年)」に便乗した企画だったし、日本共産党によれば、この時期にはソ連中国共産党が盛んに日本への浸透作戦を図っていた時期だったという。こうした影響が重なった結果、信じられないほど純粋な形のソ連・中京プロパガンダ大作が日本で制作される事になってしまった。

70〜73年当時に、劇場で『戦争と人間』をみちゃったら、信じてしまっても仕方ないかもしれない。団塊世代だと25才くらいか…

案外この映画が、秘かに歴史観のベースになってる人もいるかもしれない。当時の研究レベルでは仕方ない面があるからプロパガンダ映画とまでは言わないが、今後顧みられることが少ない残念な映画のひとつだと思う。

*ちなみに歴史のこの時点で「慰安婦問題」はまだ存在してないので、それに関する言及は(原作含めて)一切ない。ただ実は「戦争と人間」原作には「慰安所」についての言及自体ならあった。
慰安婦 | 日華事変と山西省

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五味川純平「戦争と人間 全18巻(1965年〜1982年)」劫火の狩人4

夫を徴兵に取られた女の嘆き

八重は耕平の肩の下から見上げながら喋りつづけた。

「出て行ってから二年近くなるのよ。戦争といったって、毎日戦争があるわけじゃないでしょ。行く先ざきに慰安所があるってじゃない。戦争しながら女を買って、家のことなんか忘れてるのよ」

「そうは思えないけどね……」

「あたしだって生身の体だもの。まだ若いしさ。男のなかに混って働いてりゃ、飢えているだの渇えているだのって、男の人が手を出して来るのよ。尼さんみたいに身を固くしていようと思ったって、気持が動くときだってたまにはあるわ」

耕平は返事のしようがなかった。女が喋るに任せるほかはない。

「結婚してないあんたには、結婚して一人にされた女の淋しさなんかわからないだろうけどさ」

「……わかる気がするよ」

「わかるかしらね、ときどき男の人に息のつまるほど抱き締めてもらいたくなる気持が。淋しいだろうとか、手を貸してやろうとか云ってもらいたいのよ。たまにはお前はいい女だとか、好きだとか、綺麗だなとか、気に入ったとか、云ってもらいたいじゃない。わかる?」

耕平は女の露骨さに顔をしかめたくもなり、もっと立ち入って女のむき出しのなまなましい告白を聞きたくもなった。

「……そう云った男が結局あんたの何になった?」

「本物の男なんか一人もいなかったわ」

「……本物の男って?」

「わからない?」

「わからんね」

「そうね。あんたはうぶなんだか聖人なんだかわかんないけど、本物の男も女も知らないようね。本物の男って、女を、こう、芯から夢中にさせてしまうのよ。女が、いつだってその男の眼や手や匂いや声を体じゅうに感じて、その男と別こに生きている自分なんて感じられないようにしてしまうのよ」

それなら本物の女とはどういうものか。耕平は八重にきいてみたくなったが、八重を挑発することになりかねないので、さしひかえた。
秦郁彦慰安婦と戦場の性(1999年)」に興味深い記述がある。日清戦争(1894年〜1895年)や日露戦争(1904年〜1905年)の頃だったら、派兵されるのは未婚のまま(女を知らないまま)徴兵される若い男性ばかりで、しかも多くが貧しい農民出身なので派兵先での「女の世話」にそれほど神経質になる必要はなかった。だが日華事変(1937年〜)以降は総力戦の様相を帯びてきて、次第に予備役の既婚者まで動員される様になっていったので、これが必須化していったというのである。ただ「軍隊の風紀糜爛」については既にシベリア出兵(1918年〜1922年)の頃から問題となり始めていたとする説もある。

 最前線における「優秀な兵士」

「通匪者」の徹底した捜索がはじめられた。疑えば、ほとんど怪しかった。疑われた者は禍であった。縛られて拷問され、反抗すればその場で射殺されるか刺殺された。

雷太は捜索にはまるで関心を示さなかった。女と酒を漁ってばかりいた。

通匪者を探すことなど、無意味にひとしいのである。海のなかへ入って海水を手で掬って、どの部分が塩からいかからくないかなどと問うのが愚かなのと同じことだというのである。女と酒には意味があった。快楽と生命の自覚という最大の意味が。

女の死にそうな悲鳴が聞こえたところには、必ずといってよいほど雷太とその仲間がいた。「俺は支那四百余州に子種を播き散らすんだ」

と、雷太は云った。

「戦争の終るころには、俺の子供が千人ぐらい出来ているだろうさ」

雷太の同年兵が将校から云いつかって雷太に注意すると、雷太は忽ち眼をぎらぎら光らせた。

「お前には空想力ってものはねえのか。日本が敗けたらどうなる。満洲や日本の女がやられずに済むって保証があるか。女のまんこは徴発品だ。徴発は勝ち戦の不文律だ。何が悪い? それに、俺は、お前らとちがって、一人の女に惚れてるんだ。子供のころから惚れた女があるんだ。俺ァな、手あたり次第チャンコロの女を組み伏せて乗っかりながら、その女のことを考えてるんだ。なんとしおらしいじゃねえか、この大塩雷太がよ」

雷太は確かに空想力が逞しかった。強姦しながら、強姦強姦などにはあり得ないすばらしい愛技の交換を空想していた。その意味で、戸越ユキは彼のすぐれた師匠であったかもしれなかった。

軍紀は雷太に限らなかった。兵隊たちは戦に倦んで、概して放縦に流れがちであった。規律を守って不自由な殺伐とした生活に耐えている兵隊も、無論、多勢いた。彼らは、しかし、どこの部隊でもそうだが、なぜか影が薄いのだ。威勢よくでたらめをしている兵隊の方が生き生きとして見える。従ってそういう兵隊の所業が目立つという順序である。そういう兵隊たちは、少し安穏な日がつづくと、徒党を組んで他の村落へ徴発遠征に出かけた。将校たちも見て見ぬふりをした。徴発の獲物の上前をはねるのは彼ら将校なのである。
*まさしく水木しげる「姑娘」の世界。

小人数で徴発に出かけて女に手を出した兵隊が、村落民に捕まって縛られることがあった。村落民の方では、日本兵を殺せばあとがたいへんなことになるから、せいぜい怒りを縛り上げることで表現して、我慢していた。しかし、雷太の属する部隊に関する限り、縛っても殺しても、結果は同じことであった。

報復は凄まじかった。「報復」にかけては、雷太はことのほか猛烈であった。銃殺や銃剣による刺殺などは手ぬるかった。秣の押切りで生きた人間の胴を輪切りにして、人間が他の動物と異なることなくたあいなく死ぬことをつまらながっていた。彼が残忍になるのは戦友愛が篤いためではなかった。際限もなく残忍になることによってしか、燃え熾る情熱の劫火を鎮める方法が戦場ではないかのようであった。
*こうした描写、この作品においては戦前日本がまだまだ強固な階級社会で、こうした人物が「概ね現実社会では様々な理由で差別される存在であり、軍に入隊してやっと自らの鬱憤を暴力によって表出する捌け口を見出したが、同時に軍もまた現実社会の縮図に過ぎない(純粋な実力主義社会ではない)事を思い知らされて益々暴力に耽溺していく過程」として描かれる事が多い。これは実は日清戦争(1894年〜1895年)勃発の原因となった朝鮮半島甲午農民戦争東学党乱、1894年)において、被差別者蜂起の過激な暴力性が朝鮮王朝と農民軍の和解を妨げ続けた先例と同列に語られるべき内容なのかもしれない。
甲午農民戦争/東学党の乱

五味川純平「戦争と人間 全18巻(1965年〜1982年)」裁かれる魂1

俊介は自分の手番を指して、話を聞いた。

「……慰安所では土地のクーニャンを使うのかね」

「そりゃいろいろだよ。後方から連れて来る場合もあるし、現地調達もあるし……」
秦郁彦慰安婦と戦場の性(1999年)」によれば「日本軍は防諜と性病予防の観点から慰安婦を日本人と朝鮮人に限定しようと努めていたが、必ずしも全面的に成功していた訳ではない」といった感じらしい。

「最前線では?」

「前線にはそんなものは置いてないね」
*同じく秦郁彦慰安婦と戦場の性(1999年)」によれば「慰安所の設置が許可されるには連帯単位以上の駐屯地以上」だったらしい。それ以下の単位での赴任地ではどうだったのだろうか。部隊が現地女衒などと勝手に取引し、憲兵に摘発された記録などが残される。

「じゃ、どうする? 困るだろ」

「あんたなら、どうする?」

笑いが渦を巻いた。

「戦線は、しかし、こうやって地方にいるより自由がきくんじゃないのか」

「そりゃあな、その気になればだが、人によりけりだ」

「あんた、やった口だろ?」

「どうだかね」

「どうだった? いうこと、きくか?」

「そりゃきくさ。こっちは戦勝国の軍隊だ。もっともね、小人数で遠出をして物色したりすると、ふん捕まってひどい目に合うこともあるが」
憲兵はこの種の活動も取り締まっていた。人道的配慮というより、迂闊に現地人の恨みを買うと国民党軍の奇襲を手引きするケースがあったからだという。

「しかし、手を出したら、クーニャン、ぎゃーぎゃー騒いで、人に知られずにってわけに行かんだろう」

「知られたってかまわんさ。そこは、武士は相見互だよ」 

また、どっと笑い声が沸いた。俊介は聞き流して、まだ考えこんでいる相手の指し手を読もうとした。

そのときに、ぼそぼそと小さな声が聞えた。

「汚くてやりきれませんね、クーニャンは」

おとなしい、日ごろめったに口もきかない男が、そう口を挟んだのである。身分はまだ職員になれない准職員だが、齢はもう三十にはなっていよう。小柄で、妻子のある男で、いつもおずおずとしたような表情を浮べていて、同僚たちと遊び歩くことなど皆無といってよい。

「……汚いって、何が……?」

一人が、意外な飛び入りに驚いて、間を置いて、きき返した。

「……クーニャンの前が垢で汚れてるんです。肌は白いんですがね、それが鼠色に見えるほど……」

「よく観察しやがった」

だれかが混ぜ返して、大笑いになった。

「……こっちだって汗まみれの垢まみれだろ」

「……そりゃそうですが……」

「気になるかね」

「気分をそがれますね」

「だが押えつけてやってしまった。それとも、二番手、三番手だったか……」

笑い声が破裂して、直ぐに消えて、男たちの口もとに残った。

俊介は、将棋の相手に無言で会釈して、席を立った。唐突であった。

「……あんた、戦地で人を殺した?」

小柄な男は、俊介の射すくめるような視線の前でどぎまぎした。

「……いいえ」

「人を殺すより、罪が軽いってわけか」

人びとは、いままで話の圏外にあった俊介の突然の云い方に含まれている憎悪の響きをいぶかった。

俊介は云い捨てたままで、部屋を出て行った。

大きな声も出せそうもない男が、戦地では他国の女を犯すことが出来て、帰って来れば、依然として、おとなしい男、善良な夫、やさしい父親として存続し得る。それが戦争というものである。それは、しかし、戦場で悪鬼のように荒れ狂って多勢の人間を殺した俊介が、帰って来て、おとなしい、平和主義者らしい顔をしていることに較べれば、罪は軽いのかもしれないのだ。

「朝鮮ピー」という言葉は水木漫画で知った - ネットゲリラ 

*その一方で当時は、実際の慰安所がどういうものだったか知る生証人が「現実」をそのまま語り継いでいる。

森本 賢吉「憲兵物語 ある憲兵の見た昭和の戦争」

扱った強姦事件の傾向について

強姦は自己抑制の効き難い召還兵に目立ったよ。一度、現役を除隊して妻子がおる者が召集されて出てきとるんだからな。女を知っとるけぇ。強姦は「明日の命がわからない」状況に追い込まれる程頻発したな。自暴自棄になって。兵隊は捕まえた同じ女ばかりをやるのよ。大体、そがいに簡単に戦場で女は捕まりはせんのだよ。戦争が始まりそうになると住民はみんな逃げて、おりゃせんからのぅ。強姦が頻発したというのは、支那特有の「針小膨大」だよ。

慰安所について

従軍慰安婦に軍が関与してないなんて事は絶対ないよ。前線では食糧と泊まる所を軍が提供するしかないんだから。まぁ、軍が募集せんでもそれぞれ商売人がおるわけで、連隊本部以上の所には御用商人がついて来てたからね…南朝鮮の女をようけ連れてったなんて新聞記事も見たが、あの辺りは朝鮮独立運動の根拠地だから、そういう関係もあるのかな、なんて思ってしまうね。接客婦にも3種類あってね。借金を払う分だけ稼いで早く辞める者、借金が多すぎて身を売られていく人(日本人でも朝鮮人でも「又売り」されてくうちに足抜け出来なくなってしまう場合が多い)。そして「郷里に帰っても仕方がない」と捨て鉢になってしまった人。北支では北京と天津、中支では漢口と上海に日本人租界があってね。そこの妓楼で正規に「二枚鑑札芸者の免許と娼妓の免許)」受けて真面目に働いてる娼妓は日本人でも朝鮮人でも借金を返し終わると内地や朝鮮に帰っていったよ。新聞には「朝鮮女を無理矢理集中的に戦地へ連れてった」なんて書いてあるけどさ。何処に連れてかれるのかも分らない危ない場所に借金もない女が志願するとはとても思えないね。少なくとも警察がそうやって女を強制的に挑発してたなんて話は聞いた事もないよ。

それでは、ここに至る歴史的経緯に目を向けてみましょう。
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①ある意味、プロパガンダ映画の歴史は米国ハリウッドのスペクタクル映画全盛期まで遡る。それを可能としたのは太平洋戦争(1941年〜1945年)当時の挙国一致体制下で(それまで激しい主導権争いを続けてきたプロテスタント陣営(英国やアイルランド上層階出身の旧移民、いわゆるWASP)とカソリック勢(ハリウッドやアメコミの黎明期を支えた神聖ローマ帝国ユダヤ人やアイルランド下層階層出身のいわゆる新移民)の紛争停止だった。

②トーキー化に続くカラー化による制作費高騰に悩まされた当時のハリウッドは、手持ちリソースを(米国的価値観の本丸たる)豪華スタッフ総出演のスペクタクル映画やミュージカル映画に集中する一方、怪奇時代映画やSF特撮映画の供給を英国(ハマー・フィルム)や日本(円谷プロダクション)に移管。その一方で(ドライブイン・シアターの様なアメリカ本国のインディーズ映画界において「B級映画の帝王ロジャー・コーマンなどの「暗躍」が始まる。

③そして出演者達の度重なるスキャンダルのせいで米国産スペクタクル映画の凋落が始まると、これに寄生してきた欧州映画界のマカロニ・ウェスタンやイタリアン・サスペンス映画への傾倒が始まった。

1960年代からのハリウッド大作映画の不調は、ムッソリーニの創立した欧州有数の巨大映画スタジオ『チネチッタ』などを利用した史劇ジャンル衰退をも意味していた。それで、これまでそれに寄生する形で制作されてくた「ソード&サンダル映画(大予算映画のセットを流用し、演技力はなくても見栄えの良いボディービルダーやプロレスラー中心にキャスティングする事で制作費を安く上げてきた剣闘士物などを中心とするB級史劇ジャンル)」の制作陣もたちまち路頭に迷う事となったのである。

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そこでユーゴスラビアやスペインをロケ地とする西ドイツ制作の西部劇に注目した事がマカロニ・ウェスタンMacaroni Western)あるいはスパゲッティ・ウェスタン (Spaghetti Western) の起源。こうした事情から制作面や俳優面で西ドイツ映画界が相当関与していたり、脚本に古代ギリシャ古代ローマに関連するモチーフが数多く散見されます。そして、セルジオ・レオーネ監督「荒野の用心棒1964年)」が世界中で爆発的な人気を博するとフォーマットも固まり、イタリアでは1965年以降、500本以上にのぼる作品が量産される事になったのだった。

 春日太一「仁義なき日本沈没―東宝vs.東映の戦後サバイバル―」

これまでは映画館には幅広い層が来ていたが、1960年代後半から1970年代初頭にかけてにかけては二十歳前後の若者が主体になっていった。当時の若者の多くは、学生運動が盛んになる中で、従来にはない激しさと新しさを映画に求めた。その結果、イタリア発のマカロニウエスタンアメリカ発のニューシネマ、日本でもピンク映画と、従来の価値観に「NO」を叩き付けるような反抗的な「不健全さ」が受けるようになる。
東映はこうした時流に乗り、任俠映画とポルノ映画で隆盛を迎える。

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*当時の若者が求めていたのは単なるエロやバイオレンスではなく、もっと何かもっと本質的な形での「既存秩序の破壊」だったとも。


*その感情は1990年代に入るとより高解像度化した形で台頭してくる。


*そして「ブラッド・ピットの妻が生首に…」なる名調子で有名な…


*正直、IMF介入まで招いた韓国人の絶望感を(かろうじてギリギリで乗り切った)日本人は想像だにする事が出来ない。幸福だったのか、それとも不幸の始まりだったのか…


*その一方で当時の日本人が経験したのは遥かに深刻な実存不安だったとも。

 *「イタリアのメディア王」ベルルスコーニの契機となったのも、欧州向けの和製コンテンツ配信だった。

クレヨンしんちゃん』はスペイン全土で大人気。共通語のスペイン語だけでなく、バスク語カタルーニャ語ガリシア語で吹き替え放送を行ってきたせいで、各地方言語の独立運動に使用されたのは、若者向けの教材として日本のアニメが使われていたため。

  • 高い番組制作能力が国営放送にしかない
  • 弱い地方局が契約料の安い日本アニメを買う
  • 日本アニメを地方言語に積極的に吹き替え
  • 追いやられていた地方言語の復権にアニメが貢献する
  • アニメとナショナリズムの結びつきが発生。

要約するとこんな感じ。不思議な縁だが、だからこそクレヨンしんちゃんが独立のシンボルになるわけだな。 

*ある意味、こうした文化史を象徴的に振り返ろうとしたのが「(ハリウッドに動員された勢の末席を飾るオーストラリア映画人の観点から俯瞰された)グレイテスト・ショーマン(The Greatest Showman、2017年)」だったとも。

*最終場面で「卒業」を強要されるP.T.バーナムには、ロジャー・コーマンベルルスコーニといった「第三世界のコンテンツの欧米圏への紹介者」に対する第三世界側のアンビヴァレントな感情が投影されている?


④一方、マルクス主義イデオロギーとしての敗退が目につく様になった共産主義諸国においては、次第に「国策スペクタクル映画制作による祖国防衛戦争の美化」によってその未曾有の危機を乗り越えようとする傾向を強める。
*「共産圏における民族主義の再評価」…これが全くの悪手で「クメール・ルージュ政権によるベトナム系市民の民族浄化と、ベトナム本国の復讐的内紛介入によるカンボジア崩壊(1975年〜1979年)」「中華民族による劣等蛮族への懲罰として始まり、中共精鋭兵のベトナム後方義勇兵に対する記録的大敗に終わった中越戦争(1979年)」などを引き起こし資本主義圏における共産主義諸国の理想視を台無しにしてしまう。

「戦争と平和(Война и мир、War and Peace 、1967年)」

ロシアの文豪レフ・トルストイの代表作の1つである大河歴史小説戦争と平和』を映画化した作品。1965年から1967年にかけて公開されたソビエト連邦の歴史映画の4部作であり、戦闘シーンに12万人を超すエキストラが動員されて、セリフのある役が559人の出演者、当時のソ連が国を挙げて国家事業として製作撮影して全4部で上映時間が6時間半を超す超大作の映画である。

  • 監督・脚本・主演はセルゲーイ・ボンダルチューク。第4回(1965年)モスクワ国際映画祭最優秀作品賞をはじめ、第41回米国アカデミー賞外国語映画賞など、様々な映画賞を受賞している。

  • ストーリーは原作の第三巻第三部から第四巻までに相当する内容になっている。原作に対して、ピエール、アンドレイ、ナターシャの3人に絞った構成になっており、他の登場人物のエピソードはかなり削られている。また原作にあるエピローグはなく、ピエールとナターシャが再会することで結ばれることを示唆して物語は終わる。

  • 構想を練ったのは1955年で、実際に製作に入ったのは1960年から、撮影は1962年からで1962年9月7日のボロジノ会戦150周年祭の当日に約12万5000人の軍隊を動員して、ボロジノの現地のロケから始まった。

  • 製作費は3,260万ルーブル(当時のドル換算で約3,600万ドル・130億円)であった。因みに1960年代当時の映画では「ベンハー」が1,500万ドル(54億円)、「史上最大の作戦」が1,200万ドル(43億円)、「クレオパトラ」が4,000万ドル(154億円)の製作費であった。しかしこの映画には当時のソ連が国家事業として製作に全面的に関わっており、公表された製作費以外にも経費がかかったが、ソ連政府の全面的な協力により資金には苦労しなかった。その後の物価の上昇度合いから換算すると、2005年時点の7億ドルに相当し、史上最も製作費のかかった映画とされる。

  • 国家事業として製作されたので、戦闘シーンには馬を約1,500頭、合計12万4,533人に及んだエキストラやスタントはソ連軍の兵士を動員することができた。特に1812年のボロジノの戦いを再現したシーンは、製作費の三分の一にあたる約1,200万ルーブル(約48億円)を投入して、実際に戦闘が行なわれた場所を用いて撮影されており、撮影に2年、撮影後の編集作業等に1年を要している。

  • なお、戦闘シーンの撮影では映画史上初めて遠隔操作カメラが用いられ、300mの長さのワイヤに添って動くカメラで上空から撮影された。使ったフィルムは513万フィートで映写すれば約760時間。1行でもセリフがある役で559人(原作でも559人が登場する)、重要な役を演じる俳優だけで36人が起用され、登場人員は戦闘シーンのエキストラを含めて延べ59万5,798人で映画史上空前絶後のスケールと言われた。

  • 戦争と平和」と言えばナターシャ。かつて米国で製作された映画ではオードリー・ヘップバーンが演じたが、この映画ではそれまで全くの素人が抜擢された。既成の女優ではトルストイのイメージにピッタリあう人がいなかったので、ソ連文化省が芸術のあらゆる分野の少女を調べてその候補者を数百人選び出した。その中から、レニングラードのバレー学校を卒業したばかりでやがてはレニングラード・バレーのプリマドンナに嘱望されていたリュドミラ・サベーリエワが候補者リストから浮かび上がり、スクリーンテストを受けて、誰もが「彼女こそナターシャだ」と思わず叫んだという。結局撮影は丸4年以上かかり、彼女も17歳から21歳までの間撮影に入っていた。なお彼女はその後、イタリア映画でヴィットリオ・デ・シーカ監督、ソフィア・ローレンマルチェロ・マストロヤンニ主演の「ひまわり」でマストロヤンニのソ連での妻役で出演している。


本国ソ連では1966年から1968年の間に1億3500万人を超える人々がこの映画を観たとされ、また、世界117カ国の劇場で公開された。4部構成で製作されたが、日本では第1部と第2部は「第一部」、第3部と第4部は「完結篇」として2つに分け、第一部(210分)は1966年7月23日に、完結篇(177分)は翌1967年11月23日にロードショー公開された。

「ワーテルロー(Waterloo、1970年)」

1815年6月18日に行われたワーテルローの戦いを主題にしたイタリア・ソ連合作映画。

  • フランス皇帝ナポレオンとイギリス軍司令官ウェリントン公の戦いを描く。早朝から夕方までの戦況の変化を克明に描写、イギリス軍拠点ウーグモンへの攻撃に始まり、フランス歩兵の前進、イギリス竜騎兵の突撃と全滅、フランス騎兵の突撃とイギリス軍方陣の戦闘、フランス近衛兵の投入と全滅などが細かく描かれている。

  • 撮影には当時のソ連軍が全面協力し、英独蘭仏合わせて総勢20万の大軍が激突した戦いをCGでは表せない奥行きのある合戦シーンで再現した。ナポレオンを題材にした映画では、トルストイ原作で旧ソ連が映像化した『戦争と平和』に並ぶスケール感を持つ。


展開は以下。

  • ナポレオン・ボナパルトはその優れた軍事的・政治的手腕、革命的思想によって全ヨーロッパを席巻したが、スペインやロシア、ライプツィヒで敗北を重ね、1814年4月、オーストリア・ロシア軍をはじめとする同盟軍のパリ入城を許していた。ミシェル・ネイをはじめとする元帥たちはナポレオンに退位を迫り、一度は退位を拒否し同盟軍への徹底抗戦を唱えたナポレオンも、パリ防衛を任せていたオーギュスト・マルモン元帥の降伏を知るとやむなく退位文章に署名する。フォンテーヌブロー宮殿で老近衛隊に別れを告げた後、ナポレオンは放流先のエルバ島へ向かった。

  • しかし10ヶ月後の1815年3月、ナポレオンはエルバ島を脱出し、フランスへと上陸。フランス国王ルイ18世はナポレオン討伐の兵を差し向けるが、彼らはことごとくナポレオンに帰順、兵士や市民の歓声の中ナポレオンはパリ入りし、ルイ18世を追放して再び皇帝の座に着いた。

  • 各国がフランスに宣戦、ナポレオンを法外処分にしてフランスに対する包囲網を築きあげる中、ナポレオンはブリュッセル近郊にいたウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー元帥率いる英蘭連合軍、ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヒャー元帥率いるプロイセン軍の各個撃破を意図。みずから兵を率いて6月15日夜、ブリュッセルへ向かう。そのころ、フランス軍来襲の報に触れたウェリントンは出席していた舞踏会(英語版)を抜け出し、部下たちと作戦会議を開いていた。ウェリントンが防衛線として目を付けた村々には「ワーテルロー」の名もあった。

  • フランス軍は6月16日、リニー、カトル・ブラにおいてそれぞれプロイセン軍、英蘭連合軍を退却させることに成功するが、プロイセン軍悪天候にも助けられてエマニュエル・ド・グルーシー元帥の追撃をかわしながら英蘭連合軍との再合流を目指し、英蘭連合軍もワーテルローの近郊に部隊を展開させていた。6月17日、この日は豪雨によりフランス軍・英蘭連合軍ともに作戦行動はできなかったが、ナポレオン、ウェリントンともに不安な夜を過ごしていた。グルーシーの部隊、プロイセン軍の出方次第で勝敗が決まるからである。

  • そして6月18日。17日からの豪雨により地面は泥濘と化し、フランス軍は砲兵が移動できるよう、地面が乾く正午まで総攻撃を控えなくてはならなかった。11時35分、両軍の砲兵による砲煙と爆煙が空を埋め尽くす中、フランス軍の戦列歩兵が英蘭連合軍右翼部隊の守るウーグモン農場に進撃を開始した。のちに「ワーテルローの戦い」と呼ばれることになる戦闘の始まりである。


イタリアの著名プロデューサー、ディノ・デ・ラウレンティスソ連・モスフィルムと組んで制作したが、全世界のマーケットを視野に入れた為、キャストには欧米の一流どころの顔がずらりと並んだ。ソ連オリジナル全長版は240分の上映時間。

「ヨーロッパの解放(Освобождение、1970年〜1973年)」

独ソ戦を描いたソビエト連邦製作の戦争映画シリーズ。監督はユーリー・オーゼロフ。1970年に製作を開始し完成に3年を要した国家的事業の超大作映画で、総上映時間は合計で7時間48分。5部構成で、1943年のクルスクの戦いから1945年のベルリンの戦いまでが、無名のソ連軍兵士、セルゲイ・ツヴェターエフを主人公として描かれている。

  • 第一部 「クルスク大戦車戦」
  • 第二部 「ドニエプル渡河大作戦」
  • 第三部 「大包囲撃滅作戦」
  • 第四部 「ベルリンの戦い」
  • 第五部 「最後の突撃」


製作動機はアメリカ合衆国製作の『バルジ大作戦』に対抗するためとされている。

  • ヨシフ・スターリンは歴史的人物として登場するが、製作年代がフルシチョフによるスターリン批判以後のためか、個人崇拝の雰囲気では描かれていない。

  • ソビエト、ドイツを始め実在の人物が多数登場するが、アドルフ・ヒトラーは狂信的な独裁者として描かれ、ゲオルギー・ジューコフが度々登場するが彼と並んで独ソ戦ソビエト軍中核的指揮官として活躍したイワン・コーネフの出番は少ないなど、人物の描写についてはあくまで「映画」としての描写であり、史実の再現や解説を意識したものではない。

  • 東西冷戦時代の作品ではあるが、ソ連と同じ連合国側のアメリカ合衆国やイギリスについては好意的に描かれている。

  • グラスノスチ以前のソ連で製作された映画であり、1944年のワルシャワ蜂起には言及していない、また、ドイツ軍が行ったとされる蛮行について多く描かれている一方でベルリンでのソ連赤軍の蛮行は一切描かれていない、ドイツ軍人、特に親衛隊員は冷酷非情な存在として描かれる一方でソ連軍兵士は善人で心優しく礼儀正しい存在として描かれる等、「国策映画」としての色合いが濃い作品である。

  • 第一部「クルスク大戦車戦」では多数の戦車(実物のT-34やIS-2のほかT-44改造のティーガー戦車等)が登場し、戦車登場台数は全映画で最も多い。

  • 作中ではソ連人はロシア語を、ドイツ人はドイツ語を、というようにそれぞれ個別の母国語を喋っており、アメリカの映画でよくあるように「アメリカ人もドイツ人も同じように英語を喋っている」というような作りにはなっていないが、本国公開版ではロシア語以外の台詞にはロシア語による同時通訳的な吹き替えが行われている。日本で市販されていたDVDでは、ドイツ語や英語などのロシア語以外のシーンでも、ロシア語の吹き替え音声がそのまま収録されている。

  • 日本での初公開の際は第一部・第二部がまとめて上映された。

  • 1973年の日活映画『戦争と人間 第3部・完結編』の劇中、ノモンハン事変のシーンには当作のフィルムが流用されており、第一部 「クルスク大戦車戦」他の戦闘シーンが使われている。1979年の松竹映画『復讐するは我にあり』の劇中に、第三部「大包囲撃滅作戦」のオープニングが現れる。おそらくソ連側は「第二次世界大戦において世界を枢軸国から解放したのはソ連だった」という歴史観を日本人に受容させる事を目して協力した。

日本では長らくセルソフトが絶版であったが、2014年にテレビアニメ「ガールズ&パンツァー」とのコラボレーション企画として、HDリマスター版がリリースされた。

それでは同時代、日本では何が進行していたのでしょう?

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  • 東大安田講堂陥落(1969年〜1月19日)以降、世論ははっきり学生運動/新左翼運動に背を向ける様になる。
  • 1970年代前半、それは新左翼陣営側にとっては受難、旧左翼陣営にとっては反撃の時代だった。だから当然「科学的マルクス主義統計的事実および人民解放軍ソ連軍の、その正しさゆえに無敵の暴力に裏付けられた理性への忠誠心」を矜持とする「旧左翼陣営側の人々皮肉にも当時ソ連派や中国派との泥沼の党争状態に陥っていた日本共産党幹部は蚊帳の外)」は「戦争と人間」の中で大日本帝国時代の旧悪と(獣の様に己の情欲のみに従って動こうとする新左翼運動を一緒くたに絶対悪視し、まとめて駆逐しようと試みたのは当然の流れに過ぎなかったといえる。

  • ところが(皮肉にもベトナム戦争において米国が撤退を余儀なくされ、資本主義側諸国が敗北を余儀なくされた)1970年代中旬を境に共産主義諸国間における武力衝突が恒常化。「科学的マルクス主義および共産主義的暴力概念を信奉する旧左翼陣営側の人々」の価値観も根底からの崩壊を余儀なくされてしまう。この時彗星の様に現れた救世主が「反差別」「反戦」「原発」「自然回帰」といった口当たりこそ良いが内的整合性に欠けた感情的スローガン群に動員される「人道主義」に立脚する形で「旧左翼と新左翼の野合」が実現。以降、むしろ(旧左翼運動支持者にせよ、新左翼運動支持者にせよ、そのイデオロギー的正しさを取り戻そうと死闘を続ける)筋金入りの進歩主義者はマイノリティへと転落し、上掲の「似非左翼」から迫害を受ける「受難の時代」が始まったのだった。

    *欧州における以下の潮流と見た目上は重なる。

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    緑の党(Green Party、Greens) - Wikipedia

    環境主義多文化主義反戦などを主な主義、信条とする政党・政治勢力。1970年代から世界各国で台頭してきた、エコロジー、反原発反核軍縮反戦、人種差別撤廃、脱物質主義、多文化主義、消費者保護、参加型民主主義、フェミニズム、社会的弱者の人権などをテーマにした「新しい社会運動」の流れで結成が進んだ政治勢力

    • 1972年3月に同年のオーストラリア・タスマニア州選挙に向けて結成された自然保護政治運動グループであるUnited Tasmania Groupに端を発する(なお、同グループは同選挙において、3.9%の得票をおさめ、1議席を確保した。同グループはその後、オーストラリア緑の党に発展的に解消され、連邦、州、地方議会に多数のメンバーを送り出している)。また、ヨーロッパでは1980年の旧西ドイツにおけるDie Grünen(直訳「緑の人々」。政治的組織化の動きは1970年代後半から)結成であり、その後フィンランド、ベルギー、オランダ、フランスなど欧州各地で次々と結成されていった。

    • 出身者の多くが市民運動家環境保護に関心の高い市民であったが、ここにさらに社会民主党共産党、中央党などの既成政党から当選した政治家が離党して新党としての『緑の党』に合流。さらに左派系労働運動や民主化運動の活動家が加わった。

    • 環境保護だけでなく平和外交・人権・産業構造・教育・社会保障・労働・食料など幅広い政策をもつオールラウンドな政党であり、平和で持続可能で社会正義のある新しいエコロジー社会を目指す。営利企業の自由を最優先する新自由主義的改革(およびそのグローバル化)、国民国家ナショナリズム、軍事・治安国家化には批判的である。こうした政治理念を緑の政治という。

    • 現在ではアメリカやアジアを含む多くの国々に緑の党が存在するが、最も強い政治基盤を確立しているのはヨーロッパにおいてである。政権参加の最初のケースは1995年のフィンランド緑の同盟であり、最も長期のケースはドイツ緑の党社会民主党との連立政権(1998年-2005年)である。

    • 他方で、アメリカなどの選挙制度小選挙区制の国では、緑の党は国政レベルにほとんど影響力をもてないでいる。そのためこれらの国の緑の党は、選挙制度民主化に焦点を当てている。なおアメリカにおいてもカリフォルニア州など市町村議会のレベルでは議席を確保している。

    • また環境問題やグローバル経済、南北問題などに対応するため、グリーン勢力は国際連帯にも熱心である。2001年4月16日にオーストラリアのキャンベラで、緑の党の国際組織であるグローバルグリーンズGlobal Greens,「緑の地球同盟」)が結成された。ここでは、「グローバルグリーン憲章」が採択され、その後世界の緑の党の指針となっている。

    グローバルグリーン憲章」では、諸原則(理念)として以下の6つを掲げる。

    • エコロジーの知識
    • 社会的公正
    • 参加民主主義
    • 非暴力
    • 持続可能性
    • 多様性の尊重

    また、政治的行動(政策・行動)として以下の行動指針を掲げている。

    • 民主主義
    • 公正さ
    • 気候変動とエネルギー
    • 生物多様性
    • 持続可能性の諸原則にもとづく経済的グローバリゼーションの抑制
    • 人権
    • 食糧と水
    • 持続可能な計画
    • 平和と安全保障
    • グローバルに行動すること

    2004年には、欧州連合規模の欧州緑の党 (European Green Party)、および北欧グリーンレフト同盟 (Nordic Green Left Alliance) が結成されるなど、世界の各地域で緑の党のネットワークが存在する。
    なお、環境主義政党を表す「緑の党」の組織名称は「緑の党(Green Party)」と「グリーンズ(Greens)」という二通りのパターンがあるが、これは、緑の党の活動が必ずしも政党だけのものでなく、市民運動をも含んでいるからである。アメリカ緑の党は「Green Party of the United States」と「Green Party」のみを表記しているが、グリーンズ/緑の党アメリカ合衆国は「Greens/Green Party USA」と両方の名称を党名に併記している。また、日本の「緑の党」も「緑の党グリーンズジャパン」としており併記型である。 

    石崎氏は今後数10年のうちに、日本人有権者は持続可能な環境への取り組みを、経済成長よりも優先させるようになると予言する。

    「日本経済は1990年代以降停滞しました。中高年世代は好景気の時代を覚えているが、20代、30代の人たちは景気が良かった時代を知らないので、成長路線を志向していない。お金があまりなくても生活を楽しめると考えている人は多い。気候変動の影響も、今よりももっと顕著になっているでしょう」

何というアクロバティックな展開… 

事象の地平線としての絶対他者を巡る黙殺・拒絶・混錯・受容しきれなかった部分の切り捨てのサイクル」が回っているという事は、その時代についてどう触れ様と同じ消失点に向かって落ちていく状況を意味するのです。その時代をリアルタイムに生きた人間にはかえって見えにくく、むしろ後世の人間が「2点間を結ぶ最短距離が何処で直線とならないか」丁寧に計測を繰り返してやっと全体像が明らかになる感じ。

  • 国家や企業が勝手に個人的自由を代表する権利を主張してきた歴史…

  • 怖いもの知らずの馬鹿だが美しい若者」が「自ら美化した過去の美しい思い出の結晶からすら置き去りにされていく哀れで醜怪な老人」へと変遷する過程。
    学生運動世代は「いつから自分がブルジョワ的偽善の告発を口にしなくなったのか(いつから偽善的ブルジョワそのものに成り果ててしまったのか)」について総括を求められている?

  • 権威主義的エロティズム」からの脱却と親子関係そのものの変遷…

ところで「歴史修正主義」の対語は「歴史正統主義」で、以下の様な概念に由来するイデオロギーと考えられています。

上司が「カラスは白い」と言えば賛同しなければならない風潮 | 日系パワハラ

  • 鹿を馬と偽って献じ、その誤りを指摘した官僚を族滅して「指鹿為馬しかをさしてうまとなす)」の故事を残した「秦朝を滅ぼした宦官」趙高。

  • まず鳥獣を鳴鏑で射た。続けて矢を射なかった者は斬首とされた。次に自分の愛馬を鳴鏑で射た。続けて矢を射なかった者は斬首とされた。次に自分の愛妻を鳴鏑で射た。彼に続けて矢を射なかった者は斬首とされた。そして父を鳴鏑で射た時、従わない部下は誰一人いなかった」の名調子で有名な「匈奴帝国の創健者冒頓単于

だから言い分が荒唐無稽で滅茶苦茶であればあるほど「試金石」あるいは「踏み絵」として正しく動作する事になるのですね。まさしく「究極の自由主義専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマそのもの…

その一方でポーランドとドイツの「国境の町ダンツィヒを舞台とするギュンター・グラスの小説「ブリキの太鼓Die Blechtrommel、1959年)」には、ポーランド有翼騎兵フサリアが「人理を超越する究極の武力の象徴」として登場してきます。

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T34/85にも、そうした武神信仰の一環が感じられない訳でもない?

別にそういう価値観を備えている事自体に是非がある訳でもありません。実際、国際SNS上の関心空間における中道右派概ね現実世界において「銃規制に批判的で、とりあえずトランプ大統領に投票した」米国人のそれに対応)とは、ちゃんと会話が成立してました。

ここで問題となってくるのが、自分も元来はそういう人間である事を、まず自分の目からも隠そうと努力する様になった1970年代以降の「(古典的自由主義を超越する形で社会自由主義が存在し得ると盲信する様になった似非人道主義」の台頭。考えてみれば、最初にこの線引きを教えてくれたのは青池保子エロイカより愛をこめて1976年〜)」における「鉄のクラウス」ことクラウス・ハインツ・フォン・デム・エーベルバッハ少佐を巡る緒論だった気がします。

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青池保子「エロイカより愛をこめて(1976年〜)」 - Wikipedia

青池保子の漫画作品。単行本は2012年8月現在で39巻まで刊行されている。2000年6月現在の累計発行部数は800万部に達する。

1976年から少女漫画雑誌『別冊ビバプリンセス(秋田書店)』に連載。その後、1979年からは少女漫画雑誌『月刊プリンセス秋田書店)』に掲載誌を移し、長期連載(一時中断あり、後述)。2008年に少女漫画雑誌『プリンセスGOLD秋田書店)』に移籍し、2009年1月号から新たに連載を開始した。、青池保子の漫画作品。1976年から少女漫画雑誌『別冊ビバプリンセス(秋田書店)』に連載。その後、1979年からは少女漫画雑誌『月刊プリンセス秋田書店)』に掲載誌を移し、長期連載(一時中断あり、後述)。2008年に少女漫画雑誌『プリンセスGOLD秋田書店)』に移籍し、2009年1月号から新たに連載を開始した。

男色の美術品窃盗犯「怪盗エロイカ」ことドリアン・レッド・グローリア伯爵(以下、伯爵)の法をやぶった美術品収集活動が、北大西洋条約機構(NATO)の情報将校「鉄のクラウス」ことクラウス・ハインツ・フォン・デム・エーベルバッハ少佐以下、少佐)の作戦行動と遭遇し騒動を引き起こす、コメディ色を含んだ怪盗&スパイ活劇。少女向け漫画ながら、綿密な考証と細部まで書き込まれた緻密な絵柄や、少女漫画離れしたストーリーから男性ファンも獲得している、『魔弾の射手』や『Z -ツェット-』など、コメディ色を排した外伝・スピンオフ作品も発表されている。

連載開始当初は青池の出世作『イブの息子たち』のパターンを踏襲し、主役はそれぞれ異なった個性を持ち、超能力を操る3人の少年少女、猥雑なドタバタギャグに加え、主人公を16歳の少女・プラムから始めるなど、少女漫画らしい手法を展開していた。しかし作品No.2「鉄のクラウス」で登場した少佐の硬派ぶりが受け、主役が交替。東西冷戦の渦中で少佐の活躍を描くスパイ物へと変貌した。以後はソ連国家保安委員会 (KGB) との情報争奪戦、冷戦が終結した1990年代以降は、テロリストを相手にしたロシア対外情報庁(KGB)との共同作戦が主要なものとなり、この2つの勢力の間で美術品の窃盗をはたらく伯爵が争いに巻き込まれるというパターンが基本となっている。

1986年に展開された作品No.14「皇帝円舞曲」を境として、1995年まで連載が一時中断されている。このような長期の中断があった背景には、当時、青池が中世ヨーロッパを舞台とした作品に傾倒していたこと、東西ドイツの統一、ソ連崩壊が起こり冷戦が終結し、単純な「西側対東側」の対立軸を基本とした物語が構成できなくなり、再開に対し青池が及び腰となっていたこと[4]などが挙げられる。このため、再開時には軍事評論家の岡部いさくを脚本アドバイザーとして迎えている。

なお、レギュラー級の主要人物(部下A、情報部長、仔熊のミーシャなど)の本名が明らかになっておらず、一方で一つのエピソードにしか登場しないサブキャラクターにかえってフルネームが設定されていることが多い、という幾分逆説的な現象が特徴として挙げられる。

ドリアン・レッド・グローリア伯爵(Earl Dorian Red Gloria as Eroica

国際指名手配を受ける世界的な美術品泥棒「エロイカ」。長い巻き毛の金髪を持つ美形のイギリス人。表向きは美術品蒐集家として知られる貴族で、中世ヨーロッパ美術について豊富な知識を持つ。主要居留地のロンドンに居館を構える。男色家。エーベルバッハ家に伝わる肖像画『紫を着る男』(モデルは少佐の先祖の一人)を巡って少佐と対立し、当初は犬猿の仲であったが、次第にその美点に惹かれ始め追い回すようになる。しばしば少佐の任務を妨害するが、時に利害の一致により共同で行動することもある。初期には数十人の部下を抱えていたが、物語が進むにつれボーナムとジェイムズくん以外は登場しなくなり、中盤以降はジェイムズくんを厄介払いしてボーナムのみと行動を共にすることも多い。

青池が1977年に発表した『七つの海七つの空』の主人公の海賊ルミナス・レッド・ベネディクトの子孫という設定。「海賊の先祖が手柄を立てて爵位を授かった」という発言から、爵位を授かったのもルミナスであると推測される。

両親は13歳の時に離婚、三人の姉も母に引き取られる、と一見不遇であるが、父子揃って「これでおおっぴらに同性恋愛を楽しめる」とあっけらかんとしていた。14歳にして本格的な泥棒行為に挑戦しているが、失敗。以後しばらくはパブリックスクール、オックスフォード大学、と普通の学生生活を送っている。少年時代から卓越した審美眼を開花させており、大抵は一瞥しただけで真贋を見分けることが出来る。豪壮華麗で技巧を凝らした作品を好む傾向があり、西洋芸術のみならず仏像やイコンなどその射程は幅広いが、印象派絵画及び現代芸術には冷淡。基本的には趣味とロマンで泥棒をやっているが、活動資金を稼ぐために金銀宝石の類を盗むことも多い。変装時には女装することが多いが、基本的に女性に対して非好意的。ハーレムの女性たちに取り囲まれた際に震えている場面があることから、軽度の女性恐怖症とも考えられる。なお一度だけ女性に対し好感を持ったことがあったが、その時の台詞は「君は男に生まれるべきだったね」で相手は皮肉と誤解している。口癖は「Good luck!」「エロイカより愛をこめてfrom Eroica with love)」「私はプロだよI'm professional)」。作画モデルはイギリスのロック・バンドLed Zeppelinのボーカリストロバート・プラント

クラウス・ハインツ・フォン・デム・エーベルバッハ少佐("Klaus des Eisens" Major, Klaus Heinz von dem Eberbach

NATO軍情報部・ボン支部の陸軍少佐。直毛の黒髪、長身、強面のドイツ人。非常に有能な情報将校であり、その硬派ぶりで、東西両陣営から“鉄のクラウス”と渾名(あだ名)される。職席は描写がされない(職階ではなく階級で常に呼ばれる)ので不明だが、部下26人を抱えているので課長級と思われる。ハプスブルク家の末裔であり、執事・召使と共にボン近郊にある祖先伝来の城に住む。家紋はEber()である。

『七つの海七つの空』でルミナス・レッド・ベネディクトの敵役として登場するティリアン・パーシモン(『紫を着る男』のモデル)、『アル・カサル -王城-』の主人公・ペドロ1世の子孫にも当たる。父親も元ドイツ国防軍軍人で独ソ戦に従軍した装甲(戦車)師団の要員との設定。任務について謹厳な態度を貫き、軍令を重んじ、無能な部下には容赦なくアラスカ・ジュノー支部への異動(左遷)を命じる。任務一筋で俗事についての関心が極端に低く(ただし歓楽街の穴場や風俗従事の女性の情報などには精通している)、NATO内でも非常に高い人気を持ちながら独身。周辺にしばしば出没する伯爵のことも「軽薄なナルシスト」と毛嫌いしているが、泥棒としての腕を任務に利用することもあり、その能力については一定の評価も与えている。

美術音痴であり、モナリザの複製画を見ても「太ったおばさんの絵」としか認識しないほどだが、美的感覚は持ち合わせており、戦車、特にレオパルト戦車とその車体が持つ鋼鉄の質感を愛する。やむを得ない場合を除き、工業製品はドイツ(統一前は西ドイツ)製の物しか使用しない。好物はフライドポテトとネスカフェのインスタントコーヒー「ネスカフェゴールドブレンド」、ヘビースモーカーでHB (たばこ)を愛飲している。

経費の濫費と人使いの荒さから上部との折り合いがままならず、有能さは誰もが認めながら出世は遅く「万年少佐」と陰口を叩かれている。しかし番外編では情報部以前に所属していた装甲師団の戦車部隊に異動し、中佐に昇進したこともある。運転技術は極めて高等。元戦車兵ながらパイロットライセンスも取得しており、ミグ25や大型旅客機を手足のように使いこなしている。また、アラスカからハワイ近海まで練習船で航海したこともあるので(クルーは部下26名のみ)、船舶免許も取得しているものと考えられる。付け加えて馬術も巧み。学生時代はサッカー部。その為か、ドイツチームがW杯決勝に進出した際には、珍しく職務を中断しての観戦を許可している。また幼少時に母親と死別し任務に忙しい厳格な父と、忠誠無私の執事に育てられたためか、ギムナジウムのシスターに淡い憧れを抱いて成長したとされる。女性に対して冷たい態度をとりがちな中、シスターには年齢を問わず好意的。

シーザー・ガブリエル、シュガー・プラム、レパード・ソリッド

本作の主人公と設定されていた、イギリス人の三人組。三人とも超能力者であり、美少年であるシーザーを伯爵が男色の「ターゲット」としたことから、超能力を駆使して伯爵と戦うが痛み分け。その後も伯爵を好敵手的存在として三人の物語が続くかと思われたが、次に登場した少佐に人気を奪われフェードアウト。「アキレス最後の戦い」編を最後に、インターポールの刑事「タラオ・バンナイ」と共に二度と姿を見せなくなってしまった。

今から思えばこの作品もまた「(国家間の競争が全てだった)総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)」からの脱却過程だからこそ顕現し得た重要な過渡期作品の一つという事になってくる様です。

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