諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【「海獣の子供」の安海加奈子】【「君の名は」の宮水ニ葉】改めて2010年代とそれ以前の境界線について。

映画「海獣の子供」、忙しくてまだ観てません。もしかしたら劇場では観ないんじゃないかという気もしてきました。そもそも過去投稿で「母親が宿命から逃げてツケを娘に回した五十嵐大介海獣の子供2006年〜2011年)」の安海加奈子と「母親が自ら最後の犠牲となる事で娘を宿命から解放した新海誠監督映画「君の名は。2016年)」の宮水ニ葉を対比的に描いてきた立場上、食指が動かないという側面もありまして…

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どっちも大好きな作品ですが、私の中には「2000年代以前」と「2010年代以降」の間に列記とした時間軸上の線引きが存在している様なのです。

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  • 前者には富野喜幸伝説巨神イデオンSpace Runaway Ideon、TV版1980年、劇場版1982年)」や巴啓祐「神の獣1992年)」や「新世紀エヴァンゲリオンTV版・旧劇場版1995年〜1998年)」や鬼頭莫宏なるたる1998年〜2003年)」の様な「(ある意味現世代の感覚ではオーギュスト・ブランキ(Louis Auguste Blanqui、1805年〜1881年)の提言「反体制に勝利などない。何故なら勝利した反体制は既に体制側であり、たちまちさらに強固な形で反体制側への弾圧を開始するからだ」に無感覚過ぎるガイア仮説」が、後者には「(ある意味「神の獣」や「新世紀エヴァンゲリオン」の現世代版リニューアルというべきシン・ゴジラ2016年)」や「(ある意味「海獣の子供」の現世代版リニューアルというべき君の名は2016年)」が分類されている。

  • あえてこの境界線を乗り越えようとするなら、米澤穂信古典部シリーズ」における「ふたりの距離の概算2010年)」から「いまさら翼といわれても2016年)」にかけての地獄巡りめいたイニシエーション展開が必要となる(しかもまだまだ途上だから、最終的に何処に漂着する事になるのか一切予断を許さない)。川原礫ソードアート・オンラインSword Art Onlineシリーズ2002年〜2018年)」もこの境界線を乗り越えた強者コンテンツの一つ。最近では「サスペリア」リメーク版がいい線いってた。「で、結論として貴方は死にたいの、生きたいの?」「死にたいです」「じゃあ死ね、次…」。山岳ベース事件(1971年〜1972年)を連想させる究極の2値ロジスティック回帰判定の積み重ね。この冷徹な極限状態でのサバイバル体験が現世代版の価値観の基底にはある?

その一方で、こういう意見も。

そこで得られるのは、宇宙との同一化であり、宇宙という存在を、マクロとしてもミクロとしても感じるという想像力である。宇宙の物質と人間を構成する物質に共通したものがあるのなら、人間と宇宙は、ある意味で“同じもの”と考えることができるかもしれない。そう考えると、地球に存在するあらゆるものは、全て人間とつながっているといえるはずである。“自分と違う”ことで傷つけ合ってきた人間同士も、いつか分かり合えるかもしれない。そのような希望を本作は示している。

まさしくガイア仮説体験シュミレーター…

ここで興味深いのが、こういう「考えるな、感じろ!!」タイプの作品だからこそ、真逆の米津玄師の主題歌「海の幽霊」が似合う辺り…
*それにつけても、なんか出出しが「横浜たそがれ」めいた曲ですねぇ…そして違ってる箇所が時間の差分という気がしました。



*「考えるな、感じろ!!」の真逆…「五感を信じるな、思考せよ!!」ではなく「例え頭では絶対辿り着けないと分かっていても、この体は前に進み続け様とするのを諦めない」みたいなニュアンス。


*まぁどれだけメジャーになっても根は「ゴーゴー幽霊船」の人ですからね。そもそも、そう簡単に「聴衆に迎合して牙を抜かれた飼い犬」になり果てる人じゃないんです。


*中身は同じなのに魅せ方を180度メジャー向きに切り替えてきたのは「vivi」「アイネクライネ」辺りだったかなぁ…ここまではイラストレーターの側面もまだまだ残してるのが興味深い?

 

これと真逆の関係が新海誠監督映画とRADWIMPSの間には成立してます。
新海誠監督映画の場合、作品自体の方が「例え頭では絶対辿り着けないと分かっていても、この体は前に進み続け様とするのを諦めない」みたいな達観に達してる感があり「それだけではつまらない」と思う人が出かねないのである。

上掲投稿段階ではRADWIMPSの魅力を「眠り姫を強引に言葉だけで起こそうとするアジテータ」と要約し、象徴主義symbolisme)的アプローチの一種に分類してしまったのですが…

  • 象徴主義symbolisme)…受け手の認識回路を楽器に見立て、思い掛けない言葉と文脈の奇襲の積み重ねで「最高の音」を鳴らさせようとするアプローチ。一般に「監獄や精神病院に幽閉されながら、それでも自己承認欲を充したくて妻に現在流行してるあらゆる印刷物を差し入れさせて執筆活動を続けたマルキ・ド・サドや「(自らの手掛ける雑誌を売る為には炎上商法すら辞さなかった米国初の職業作家・編集者エドガー・アラン・ポーが始め、ボードレールランボーが欧州に定着させたと考えられている。

例の「Hinomaru」騒動におけるファンの擁護姿勢で考えを改めました。

 いやRADWIMPS自身の創作姿勢がどうだかなんて相変わらず良く分からないままなのですが、どうやら彼らの「アジテーション」によってむくりと起き上がった眠り姫達は「アジテーションの内容そのもに魅了された騙された)」というより「こんなにも語る価値もなど皆無な世界について、無謀にもこんな風に語ろうとする貴方達の歌を、可能な限りどうせこんな無茶、そう長くは続かないずっと聞いていたくなった」みたいな気持ちで集まってきたみたいなんですね。しかも揃いも揃ってオスカー・ワイルド幸福な王子The Happy Prince、1888年)」に登場する燕を思わせる「死兵の目」をしてやがる…

そういえばJ・R・R・トールキンホビットの冒険The Hobbit, or There and Back Again、1937年)」にも印象的な台詞がありました。「(合戦の最中、エルフの様な長命種について何故彼らは今日ここで死ぬ運命を選んだのでしょう。これまで通り普通に死の危険なんて避けて通っていたら、まだまだ幾らだって生きられた筈なのに」。これが第一次世界対戦で多くの友人が戦死したのを契機に物語執筆に没頭していった著者の台詞と思うと…

そりゃ「こんなバンドを支持する輩はまとめてネトウヨ」みたいな軽い気持ちで弾劾したパヨク側がまとめて返り討ちにされる訳です。論点がズレているというか、人生に対する覚悟が違うというか…というよりRADWIMPSって、こんなにも重いファンの期待を一身に背負って、あえてパンク・ロッカーを続けてるの?