諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【VR(バーチャル・リアリティ)】鍵は「当事者意識」の持ち込み方?

これまでも日本人が以下の誤解をしてる点については繰り返し述べてきました。

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  • VRバーチャル・リアリティ)の原義は「概ね現実を置き換え得る何か」である。

  • だが日本人は伝統的に現実を「置き換え不可能な実体」と考えてきたせいで、今日なお「原子力やコンピューターやスマホの流行なんて人類史からすれば一瞬の迷走に過ぎない。やがて人類は自らの愚を悟り、それらを全て捨て去って本来あるべき姿へと回帰する」などと確信する老人層に振り回されている。
    *そもそも三味線も「エスニックな音色の外来楽器」から「日本音楽の伝統楽器」への急旋回を経ている? ましてやエレキギターおや?

以下の過去投稿を読み返してるうちに、その事を改めて思い出した次第…

これからの技術トレンドとして注目を集めてる専用AI(IBMいうところの「コグニティブ・コンピューティング(Cognitive Computing)」)とVRVirtual Reality)。アメリカ政府の対応は以外と冷静沈着?

SDスコット・ダディッチ) SFの世界の話だと思っていたら、すっかりわたしたちの現実を変えてしまうものになっている人工知能AI)の話題を中心に、今日はお話できたらと思っていますが、AIの時代の本格的な到来を実感したのは、いつでしたか?

BOバラク・オバマ) わたしの見るところ、本当はすでに生活のあらゆる場所に入り込んでいたのに、われわれがなかなかそれに気づかなかったということだろうね。それというのもわれわれのAI観がポップカルチャーの影響を強く受けてきたからで、『WIRED』の読者ならば馴染みある話だと思うけど、これは、汎用AIと専用AIの区別ということなんだ。

SFで描かれるのはもっぱら前者。人間よりも賢くなったコンピューターが、人間なんてさして役に立たないと考えるようになり、われわれはコンピューターに飼いならされてぶくぶく太っていくか、もしくは『マトリックス』の世界のなかで生きるはめになる。

ところが、ホワイトハウスのサイエンスアドヴァイザーの話などから察するに、そんな世界が訪れるのはまだまだ先のことだ。ただ、そうした未来を思うことに意義があるのは、それが想像力を養い、選択や自由意思といった問題について思考を深めてくれるからで、それはアルゴリズムとコンピューターを用いて極めて複雑なタスクを処理する専用AIを使っていくうえでも必要なものとなる。

実際、専用AIは、医療から交通、電力供給まで生活のあらゆる面で目にするようになっているけれど、それによって、生産性や効率は格段に上がるとされている。それを正しく扱うことができれば、専用AIは、莫大な富と機会とを生み出す。けれども、そこにはダウンサイドもあって、AIはある種の職業を消滅させてしまうかもしれないといったことについて、注意深く考えなくてはならない。それは格差を広げるかもしれないし、賃金を下げるかもしれない。

JI伊藤穰一) これをいうとムッとするMITの学生もいると思うんですが、AI技術の基礎たるコンピューターサイエンスの担い手が、圧倒的に男性が多数で、その大半が白人、しかも、「人よりも機械と話しているほうが楽」といった連中だということを、わたしは懸念しているんです。彼らの多くは、SFに登場するような汎用AIをつくれたら、政治や社会といった泥臭い問題を心配しないで済むようになると考えがちです。機械が自分たちの代わりに解決してくれるだろう、と。

BO たしかに。

JI けれども、彼らはそこにある困難を過小評価しています。わたしは、2016年はAIが単なるコンピューターサイエンス上の問題であることを超えた年だと思うんです。つまり、AIがいかに振る舞うかを知ることが、あらゆる人にとって重要になったということです。MITメディアラボでは、「拡張知能」という言葉を使っているんですが、それは、わたしたちはどうすれば社会的価値というものをAIに実装できるのか、という問題を明らかにしたいがためなんです。

BO 以前一緒にランチをしたとき、Joiは自律走行車の例を挙げてくれた。テクノロジーはすでにここにある。膨大な判断を瞬時にこなせて、結果として交通事故死を劇的に減らし、交通網を効率化し、地球温暖化の原因である炭素排出の問題を解決できる、そういうマシンが、すでに手元にある。けれども、Joiがエレガントに指摘した通り、問題は、そのクルマにいったいどんな価値判断を埋め込むのかという点にある。それを決定するためには、数え切れないほどの決断をしなくてはならない。古典的な命題としては、クルマが歩行者をはねそうになったとき、ドライヴァーはハンドルを切れば避けられるけれど、壁にぶつかって自分が死ぬかもしれない、といったものがある。これは倫理的な命題だが、それをいったい誰が決定すべきものなのか。
*「トロッコ問題」…「ある人を助けるためにほかの人を犠牲にしてもいいか?」という思考実験。MITメディアラボは2016年、自律走行車のlose-loseのケース(歩行者を守るために乗客は死ぬべきか、乗客を守るために歩行者が死ぬべきか)におけるAIの振る舞いを調べた。

JI このいわゆるトロッコ問題について調査した際、ほとんどの人が、より多くの人を救えるなら運転手と乗客が犠牲になっても構わないという考え方を支持しましたが、そんな自律走行車なら絶対に買わないとも言ってました()。

とりあえず「完璧なVR世界で汎用AIと戯れられる未来」が訪れるのは当分先といわれています。というか将来よほどの発想の飛躍が起こらない限り絶対実現しない未来…実現に必要なのはむしろ、それを淡々と目指す楽観性? 最前線のアメリカ人が信じてるのって、坂口安吾が焼け跡で語ってた「肉体に思考させよ。肉体にとっては行動が言葉。それだけが新たな知性と倫理を紡ぎ出す」といった具合のフランス式行動主義。アメリカ人にとっては「アメリカン・ルネサンスAmerican Renaissance)」の重鎮の一人だった詩人ホイットマンの言葉となる様だけど、日本にはこれがちゃんとした形で伝わってない気がしてなりません。

これある意味「アメリカ人の本質部分」なので、大統領がオバマからトランプに変わっても全然変わってない気がします。そう21世紀的トロッコ問題の本質、それはあくまで「自分が命を預けた人工知能が自分を殺したり、自分を守る為に人を殺しても納得出来るか」なんですね。 そして(自らもある意味ナチス協力者となりながら最終的には迫害された経験を有するピーター・ドラッカーが指摘した様に、この種の問題ではまさしく「当事者意識の欠落」こそがナチズムの呼び水となるのです…

そういえば私も十分年寄で、BTS(防弾少年団)の「MIC Drop2017年)」の成功理由をL.A.スタイル「James Brown Is Dead1991年)」路線の延長線上で「Barack Obama is dead」をやってのけた点についてしか捕捉出来なかった訳ですが、まさかその後国際的に「ポスト・ジャスティン・ビーバー」的地位を占める事になるとはねぇ…米国の音楽家は彼らの事を「シュミラクラSimulacra=擬態)」と呼んでいます。音楽文法や舞踏文法などはHiphopアーティストそのままなのに、韓国大手芸能事務所が自打球で国際的に撤退を余儀なくされたK-POPアイドルのポジショニングに進出し「歌と踊りが上手なだけの品行方正な若者」を演じ切って成功している訳ですからですね。こういう部分でもVRバーチャル・リアリティ)とは何かが問われるという話…