ふと「時代は繰り返さないが韻を踏む」という言葉を思い出しました。
最近突如として回覧数を急激に伸ばしている以下の投稿…
イリヤの空、UFOの夏(電撃文庫) - カクヨム https://t.co/nHRW3KnRUb
— くじら (@kuzira8) July 23, 2019
夏だ!セカイ系だ!無料で読めるぞ!!
『天気の子』を見た人たちが口々にセカイ系語りを始めてるの楽しいんだけど、セカイ系のブームってゼロ年代の初期で終わってて2000年代後半までは生き残れなかったんだよな
— くじら (@kuzira8) July 23, 2019
『ゼロ年代の想像力(https://t.co/QykX9jROGJ)』が2008年だけど、あの時点で「まだセカイ系の話するの!?」みたいな反応は結構あったと記憶している
— くじら (@kuzira8) July 23, 2019
【セカイ系作品全盛期】2000年代前半に実際にあったのは? - 諸概念の迷宮(Things got frantic) https://t.co/NBDM1DiW7Y
— くじら (@kuzira8) July 23, 2019
1990年代後半~2000年代初頭にかけてあった殺人・レイプ・ドラッグのような肌感覚で刹那的な刺激に強く存在を見出す空気
よく考えてみれば、ここで指摘した「1990年代後半~2000年代初頭にかけてあった殺人・レイプ・ドラッグのような肌感覚で刹那的な刺激に強く存在を見出す空気」 って学生運動/新左翼運動の終焉を認められず急進派が暴走して自滅し、しかも残された穏健派がその展開の総括を拒絶した1970年代のUnfinished Businessの再来だったとも?
そもそも「穏健派が急進派の自滅の統括を拒絶した歴史」って、下手をしたらリヒャルト・ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環(Der Ring des Nibelungen)四部作(1848年〜1874年)」ラストにおける「神話的解決」にまで遡るのです。
*まぁ簡単に要約するとこの物語、元来はワーグナーがバクーニン経由で感染した「実際に政治を担当するのは王侯貴族や聖職者の様な不労所得階層ではなく、実際の生産活動に従事する産業者の同盟たるべき」なるサン=シモン的民族史観に従って書き始められたのですが、途中で保守的な王党派のバイエルン国王がパトロンについた為「不労所得階層」アース神族を、彼らに征服された先住民族たるロキやラインの乙女が団結して倒すという革命史観をそのままクライマックスとして表現する訳にはいかなくなったと推測されている。
少なくとも、新海誠監督の自主制作アニメ「ほしのこえ(2002年)」、高橋しん「最終兵器彼女(2000年〜2001年)」、秋山瑞人「イリヤの空、UFOの夏(2000年〜2001年)」の3作のヒットから生まれた「戦闘を宿命化された美少女(戦闘美少女)と、彼女を見守ることしか出来ない無力な少年」なるジャンル概念の起源はこれ。
『天気の子』もともと「エヴァっぽい作品」を示す言葉だった「セカイ系」が、「君と僕」的な「セカイ系」の解釈に変わっていった訳だけど、元祖「セカイ系」と呼ばれた『ほしのこえ』を作った新海誠氏が、その後からの解釈通りに作品を作ったら、そりゃ純度が高くなるわーと納得した
— 加野瀬未友 (@kanose) July 19, 2019
①「ニーベルングの指環(Der Ring des Nibelungen)四部作(1848年〜1874年)」ラストでは父の陰謀によって夫ジークフリートを殺された未亡人ブリュンヒルデが「封印された自らの暴力性の象徴」軍馬グラーネや「炎の精」ロキや「水の精」ラインの乙女達を召喚して束ね、父の居城ヴァルハラを攻め滅ぼす。
*「先に」に死んでヒロインに復讐の大義名分を与える小道具的役回り。要するにガンダムでいうとギレンの「諸君らが愛してくれたガルマ・ザビは死んだ!何故だ!」演説におけるガルマ役。
②後世に入ると「男性が(ライバルとしても、夫としても、父親としても)不甲斐ない事が女性の精神的自立に貢献する」戦略からハンナ・バーベラ・プロダクション製作のTVアニメ「ドラドラ子猫とチャカチャカ娘(Josie and the Pussycats、1970年〜1971年)」におけるイケメンだけど役立たずのボディーガード達、永井豪「キューティーハニー(1974年〜1975年)」におけるヒロインの恋人早見青児(新聞記者なので戦力としては期待出来ない)や武内直子「美少女戦士セーラームーン(1992年〜1997年)」におけるタキシード仮面(地場衛)のキャラクター設定に影響を与える。
- 「ドラドラ子猫とチャカチャカ娘(Josie and the Pussycats、1970年〜1971年)」の日本における放映は「黒猫のタンゴ(1969年)」流行直後だったので、差し替えられた日本語版主題歌もタンゴ調となった。この伝統が「美少女戦士セーラームーン(1992年〜1997年)」に継承されたとも。
そもそも日本においては伝統的に化け猫には(龍造寺家の廃嫡に抵抗する)佐賀鍋島藩騒動における抵抗主体(しかも幕末期に最終勝利を勝ち取る)という認識が付帯してきた。国際的にはヴァル・リュートン(Val Lewton)の「The Bagheeta(1930年)」を原作とする映画「キャット・ピープル(Cat People、1942年)」の流れが合流した「ブラック羽川=火虎=女子自らが決して黙殺してはならない本音」なる解釈も存在する。一方、オリジナルの「ドラドラ子猫とチャカチャカ娘(Josie and the Pussycats、1970年〜1971年)」主題歌のサウンドは本家米国だとJacson5、日本だとフィンガー5あたりのそれに該当する雰囲気。こちらもこちらで重要な「時代の音」。
*そしてこちらのソウル・ミュージックっぽい系譜は系譜で本場米国におけるアースウィンドアンドファイア、日本ではゴダイゴなどにつながっていく。 -
その一方で「キューティーハニー(1973年)」や「魔女っ子メグちゃん(1974年)」の主題歌には1960年代におけるフランス歌謡やグループ・サウンズの影響が感じられる。
こういう日本の展開の背後には池田理代子「ベルサイユのばら(原作1972年〜1973年、アニメ化1979年〜1980年)」原作水木杏子、作画いがらしゆみこの少女漫画「キャンディ♥キャンディ(原作1975年〜1979年、アニメ化1976年〜1979年)」も含む形で「20世紀日本的ルッキズム」が存在していた。
新井詳「中性風呂へようこそ(2007年)」より
どうして父親は娘から嫌われるのか?
①昭和型マチズモ
*1978年当時の子供達の憧れはTVや漫画の不良で、みんな真似してた。子供にとって大人とは「何をしても痛がらない存在」で、虐め方も「言葉・力・人数の統合芸術的虐め」。「今の方が精神を傷付ける言葉を使うので昔より過酷」というが、当時は至る所で喧嘩が行われて鋳たので目立たなかっただけ。「子供は喧嘩するもの」と思われていた。- 男も女も「(不潔さ、ペチャパイといった)性別的弱点」をモロ出しにするのが「人間味溢れる演出」として流行。
- 中性的な人やオカマを酷く嫌う。オカマは大抵不細工に描かれ、迫られて「ギャー」というギャグが頻発。
- 美形でお洒落な男は大抵気障で鼻持ちならない役。
②バブル世代特有の(トレンディドラマ的)「男の幸せ」「女の幸せ」のくっきりしたキャラ分け。
*「そんなに男が女より強くて偉くて選ぶ権利がある世界の女ってすっごくつまらない」「なら男になった方がマシ」とか言い出す- 恋愛決め付け論「女の人生は男で決まる。御前も何時かいい男をみつけて可愛がってもらうんだぞ」
- 美男に否定的「ヒョロクテ弱そうな男だ。女みたい」
- 処女崇拝「(飯島愛を指して)こんな風になったらオシマイだぞ! 傷モノになるなよ!」
- 母づてに聞かされる「新婚早々、浮気されて苦労したのよ。お父さんもなかなかやるでしょ?」
- ホモやオカマを極端に嫌う(これ男? 気持ち悪っ!!)
- 役割決定論「ボタンつける練習するか? 将来彼氏につける練習に…」
要するにどちらも1960年代までは確実に全国規模で根を張っていた(家父長権威主義を含む)戦前既存秩序の残滓。1990年代以降には通用しない。
こうして20世紀的価値観は過去の遺物に…
逆を言えば、かくして日本人は国際社会への適応能力を高めてきたとも。
ところでこの時代のウーマンリブ運動の雰囲気に取材した「オーシャンズ8」は、当時国際的に流行していた音楽トレンド、すなわちカロニ・ウェスタン、ジャズ、ファンクの融合(ヒュージョン)について(当時は全く存在していなかった)21世紀的解釈で完全再構成してきたのが興味深かった。
これは当時なりの最適解の一つが「マジンガーZ」主題歌だったりする事と併せて考えるべき重要設問だったりする。 - 男も女も「(不潔さ、ペチャパイといった)性別的弱点」をモロ出しにするのが「人間味溢れる演出」として流行。
③ちなみに「(第一次世界大戦を契機に先進国から前近代国家が一掃され、近代国家間の競争が全てとなった)総力戦体時代(1910年代後半〜1970年代)」の「終わりの始まり」ともいうべき1970年代前半はこういう時代でもあった。
- フルシチョフによる「スターリン批判(1956年)」を契機とする新左翼運動や米国ヒッピー運動を契機とする学生運動が終焉を迎える。特に日本では「東大安田講堂事件(1969年)」を契機に民心が離れ始め「山岳ベース事件(1971年〜1972年)」と「あさま山荘事件(1972年)」で決定的に乖離した。
この動きに日本のリベラル層も便乗して永井豪「ハレンチ学園(1968年〜1972年)」の(流行CMに便乗しただけの)スカートめくり回を袋叩きにし、新左翼運動家や学生運動家崩れが支持した日活ニューアクション制作ラインを廃止に追い込み、さらにその日活の予算で旧大日本帝国軍をただひたすら妄執的に「大陸では無辜の人民に対する略奪と強姦と虐殺しか働かなかった鬼畜集団に過ぎず、米軍から支給されたM1ガーランドやブローニング自動小銃で武装した八路軍や、T38/85を大量に保有するソ連軍の様な「正義の軍隊」が現れるとたちまちゴミクズの様に処理された(なにしろ武器が38式歩兵銃しかない設定)単なる害虫の如き存在」として描き、かつその獣性を学生運動家や新左翼運動家のそれと重ねる「戦争と人間三部作(1970年〜1973年)」を制作させている。
*ちなみに歴史のこの時点において「従軍慰安婦問題」に関する言及は一切ない。
こうした流れを「旧左翼勢力の大反攻」と総括したいところだが、実は当時の日本共産党は惜しみなく予算と人材を注ぎ込んでくるソ連と中国の取り込み工作と必死の戦いを繰り広げており、かように執拗なまでに「鬼畜皇兵を大陸から駆逐した八路軍やソ連軍こそ正義の軍隊」と刷り込もうとするプロパガンダ戦略の主体になったとは思えない。そもそもなまじ同様の浸透作戦を展開しつつあったが故にソ連系工作員と中国系工作員も対立関係にあった訳で、なぜ当時そういう展開を迎えたかについては不明点も多いのである。
*そもそも当時の新左翼運動家や学生運動家は反スターリン主義を掲げつつ文化革命には傾倒していた。この辺りが当時の情勢にどういう影響を与えていたかもよくわからない。
- その一方でこの時代にはTV普及に伴う映画の凋落を(放送コードの関連からTV番組には模倣不可能な)過剰なまでのエロティズムとバイオレンスの詰め合わせで乗り切ろうという動きが目立ってくる(同時進行で公民権運動に勝利した黒人や、当時急速に数を増やしつつあったアジア系移民の取り込みが急務とされたが、ここではそれに深くは踏み込まない)。実は(「ハレンチ学園」実写版まで手掛けた)日活ニューアクションの映画制作ラインの目論見もそこにあり、リベラル層からこれを潰された事から「日活ロマンポルノ」路線が始動する訳だが、国際的には監督業を引退したロジャー・コーマンが手掛けた「残酷女刑務所(The Big Doll House;1971年)」「残虐全裸女収容所(The Big Bird Cage;1972年)」のヒットがあり、その影響から(日活ニューアクションのアクション俳優陣を引き取った)東映が「女囚さそりシリーズ(1972年〜1973年)」を筆頭とするピンキー・バイオレンス路線を開拓。これが「ゴッドファーザー(The Godfather、1972年)」ヒットを受けた深作欣二映画「仁義なき戦い(1973年〜1976年)」シリーズへとつながっていく。並行して英米においては「SF文学も、もっと大胆に性や暴力について語って良いはずだ」とするニューウェーブSF運動が進行。
- こうした国際展開もあって、当時のリベラルが徹底して敵視した「人間解放運動の一環としての新左翼運動家や学生運動家のエロティズムやバイオレンスへの耽溺」は、日本においてはただそれだけに終わらなかったのである。そうした動きの牽引役となったのが例えば少年漫画の世界では永井豪、少女漫画の世界では竹宮惠子だったという次第。
まずはこの次元における歴史的展開は「天気の子」における「生まれて初めて見たおっぱいの向こう側が透けて見えたら、もはや少年は傷だらけになっても走り続けるしかない」なる物語展開ととりあえずあまり相関係数が高そうでもないという話…