諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【ツイフェミ式架空戦記を超えて】その評価軸は「現実の女性解放史」と直交?

最近話題のこの方面の歴史観に関する話題…

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これについてはこういう反論も。

ふと思い出したのが「ベイマックス系女子」 なる流行語になり損ねた言葉。

また、岡田麿里荒ぶる季節の少女達へMaidens in your Savage season、2016年〜2019年)」における本郷ひと葉(愛読書は村上龍コインロッカー・ベイビーズ(1980年)」)のセリフ「ぽっちゃりではなく、ただのデブですよ?」も思い出しました。(コインロッカー・ベイビーズ」でハシと結婚するニヴァの様に)身体の成長に心が追いついてない年少組の天敵? 割と女性の最大の敵は常に女性…

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ネロ先生「性的欲求バリバリの妄想少年が高校教師になるなんて大問題、そうおっしゃいましたね。」

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「大丈夫、女子高生に食指は動かない」

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「汚いから」

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「女子高生の肌は大半が荒れている」

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「青い果実といえば聞こえはいいが」

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「未発達な肉は固そうだ」

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「明け透けで文学には存在し得ない暴投過ぎる表現をしてくる」

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「それが新鮮でそそられるかといえば、単に雑なだけ」

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実際、国際SNS上の関心空間に集う匿名女子アカウントの間では、2010年代前半において概ね「ニンフェットNymphet世代概ね女児の成長速度が一時的に男児のそれを抜く9歳〜14歳に対応)」に対応するこの年少組と、かかる疾風怒濤期は何とか乗り越えて相応の精神的成熟を果たした年長組愛読書は志村貴子放浪息子(2002年〜2013年、アニメ化2011年)」「青い花(2004年〜2013年、アニメ化2009年)」いけだたかしささめきこと(原作2007年〜2011年、アニメ化2011年)浅井いにお「おやすみプンプン(2007年〜2013年)」「うみべの女の子(2009年〜2013年)」辺り)が激しく衝突する事件がありました。

その一方で最終的に(巧妙極まりない懐柔戦略によって)年少組を従えた年長組は、彼女らが破壊的規模まで鬱屈させてきた暴力的ルサンチマンを(自分達の手に負える範囲まで)蕩尽すべく(共通の敵たるメンヘラ系女子アカウントが集う)ルーナ・ラブグッド(Luna lovegood)派コミュニティに対する殲滅戦を誘導したのです。
まるで発想が百年戦争1337年/1339年〜1453年)時代の英雄たるエドワード黒太子が(雇い続ける事によるメリットよりよりデメリットの方が大きくなった)傭兵を国外へと追いやる方便として遂行したスペイン遠征そのもの…こうした「現実の党争」を実際に間近に経験してきたからこそ、ツィフェミの語る形而上学的理想論が虚空より生み出した上掲の様な架空戦記には一片のリアリズムも感じられないのですね。

というより、彼女らの言動でなく実際の振る舞いに着目してみると、全く「共産主義者無政府主義者を一通り殲滅してしまうと、リストラを恐るあまり自分達だけが唯一の正義という立場から気に食わない対象全てに対してアウトレンジからう一方的迫害を続けられる特権階層として生き延びる為に取り締まり対象を宗教団体や国民の風紀一切など無制限に拡大し言論弾圧事件まで引き起こしていく特高警察そのもの。

特高の教育弾圧諸状況

フランス革命後のフーシェの政治警察は,ナポレオン3世から第三共和国まで継承され、フーシェをモデルとしたプロイセンの政治警察は,ナチスゲシュタポとなって発展したとされる。

20世紀になっても,それは依然として必要とされた。労働運動・ロシア革命コミンテルンアナキズム運動などの激化を見たからであり,資本主義国家はその体制維持のために刑事警察を武器として社会主義革命と斗う事が必要であったからである。無論,共産主義国家とても例外でなく,その体制維持の為に秘密警察を必要としたのであった。

セリグマン氏の社会科学エンサイクロペディアによれば,第一次大戦後,この面で目立ったのはイタリー・ポーランド・ドイツ・トルコ・ペルシヤ・ヴェネズェラ・キューバー・日本などであったと言う。フランスのSurate Generate,ポーランドのDefensywa、ルーマニヤのSiguranta, 特にソ連のチェ・カ→ゲ・ぺ・ウ→オ・ゲ・ウ→エヌ・カ・ウエ・デ→エム・ヴエ・デ→エム・ゲ・べ→カ・ぺ、日本の特高特別高等)警察やアメリカのFBIなどのように明確な形をとった特別の機関も作られたが,それ程に露骨な形でなく巧みに隠蔽しながら,隠微な形で事実上,政治警察的運営が警察の運用,社会機構の中で行われている場合が多い。ともあれ,セリグマン氏のエンサイクロペディアも言うようにいつでも,専制的・独裁的政府の下では,警察または軍隊の特殊な機関が,その政府にとっては不法な政治的反対勢力を探知し,またしばしば処罰すべく機能した。

この種の思想の何が恐ろしいといって「処刑屋としての自分達が生き残るのが最優先課題」なので国民文化や国民経済を破壊して国を滅ぼしても捕食動物的快感しか覚えないあたり。実際の自然界の捕食動物は(おそらく本能的にロジスティクス方程式に沿う様な形で)大飢饉到来時には獲物を狩り尽くさない様に自制する様な動きを見せる事すらあるのですが、工場で量産され、最初から自らの増産とノルマ達成にしか関心を持たないアンドロイド戦士に同種の機能を求めても、おそらく無駄というもの。

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1910年(明治43年)、明治天皇の暗殺を計画したとして、大逆罪の容疑で多くの社会主義者無政府主義者が逮捕・処刑された(幸徳事件(大逆事件)。これを受け、翌1911年(明治44年)に、それまで高等警察事務の一部であった危険思想取締りのため、内務省が枢要地に特に専任警部を配置することを勅令で決定し、同年8月21日に警視庁の官房内に従来より存在した政治運動対象の高等課が分課されて、社会運動対象の特別高等課が設置された。

同課の設置により、地方長官や警察部長などを介さず、内務省警保局保安課の直接指揮下に置かれ、内務省と一体となって社会運動(同盟罷業・社会主義運動・共産主義運動・諜報活動・爆発物・印刷物等)の取締りにあたった。これにはフランスの秘密警察の影響がみられる。特別高等警察を指揮した内務官僚には安倍源基や町村金五町村信孝の父)などがいる。

また大阪府にも1911年に警察部長直属の「高等課別室」が設置され、翌1912年に特別高等課に昇格した。

1913年の警視庁官制の改正によって、特別高等課は、特別高等警察外事警察労働争議調停の三部門を担当する課として位置づけられた。

1922年に日本共産党が結成されると、1922年から1926年にかけて、北海道・神奈川・長野・愛知・京都・兵庫・山口・福岡・長崎など主要府県の警察部にも特別高等課が設けられ、1925年には治安維持法が制定され取締まりの法的根拠が整備された。

三・一五事件をうけ、1928年には「赤化への恐怖」を理由に全府県に特別高等課が設けられ、また、主な警察署には「特別高等係」が配置され、全国的な組織網が確立された。1932年6月に警視庁の特別高等課は「特別高等警察部」に昇格した。

1932年に岩田義道、1933年には小林多喜二に過酷な尋問を行なって死亡させるなど、当初は、共産主義者共産党員を取締りの対象としているが、後に日本が戦時色を強めるにつれ、挙国一致体制を維持するため、その障害となりうる反戦運動や類似宗教(当時の政府用語で、新宗教をこう呼んだ。)など、反政府的とみなした団体・活動に対する監視や取締りが行われるようになった。第二次世界大戦中には「鵜の目鷹の目」の監視網を張り巡らせたほか、横浜事件や俳句弾圧事件など言論弾圧といわれる事件をひきおこした。

1944年に大阪府警察局に「治安部」が設置され、特別高等課も配置された。

敗戦後は進駐軍不法行為の監視を行った。当初、内務省は陸海軍の解体・廃止に伴う治安情勢の悪化に対応するために、警察力の増強と、特高警察の拡充を行うつもりでいた。「昭和21年度警察予算概算要求書」には、特高警察の拡充・強化のために、1900万円が要求されていた。内容は、1.視察内偵の強化(共産主義運動、右翼その他の尖鋭分子、連合国進駐地域における不穏策動の防止)、2.労働争議、小作争議の防止・取締り、3.朝鮮人関係、4.情報機能の整備、5.港湾警備、6.列車移動警察、7.教養訓練(特高講習、特高資料の作成)の計7点である。

政府・内務省は、警察力の武装化特高警察の拡充・強化によって、敗戦による未曽有の社会的悪条件の下にある民心の動揺を未然に防止し、不穏な策動を徹底的に防止することを狙っていた。1945年10月5日、政府はGHQに上記の警察力拡充計画の許可を求めたが、GHQはこれを拒否している。

1945年10月4日、連合国軍最高司令官総司令部GHQ)の人権指令により、治安維持法と共に廃止された。しかしながら、内務省上層部は、日本共産党などの反政府的動静に対処するためにも、全国の特高警察網を温存させる必要があると考えており、1945年12月19日、特高警察に「代わるべき組織」として、内務省警保局に公安課が設置され、各都道府県警察部にも警備課が設置された(公安警察)。

GHQによる人権指令により、特別高等警察に在籍していた官僚・警察官は、公職追放の対象になったものの、戦争犯罪人として指定され、問責・処罰の対象となった者は、内務省特高警察関係者には1人もいなかった。1万500人の特高警察関係者の中で、内務大臣、警保局長、保安・外事・検閲各課長および各府県の警察部長級51人、特高課長・外事課長55人、警部168人、警部補1000人、巡査部長1587人、巡査2127人の合計4990人が休職となり、その後「依願退職」の形で罷免となった。ただし、G項該当追放者はわずかに319人、一斉罷免者の数はさらに少ない86人でしかなかった。茨城県警察部土浦警察署の署長であった池田博彦は、特高警察関係者の半数近くが罷免されたことによって、警察の情報収集能力が落ちたことを嘆いていた。

1946年1月3日、アメリカ人ジャーナリストのマーク・ゲインが、山梨県警察部大月警察署の署長に対して、「特高警察が解体されて、破壊分子を監視する機関がなくなったのはまことに困ったことではないか」と質問したところ、署長は、「それはたいしたことではない、なぜなら特高警察の仕事は県庁の公安課の司法官の手に引き継がれたから」と説明している。署長は続けて、「私もちょうど県庁所在地での会議に出席して帰ったばかりです。その会議は12月28日、29日の2日間開かれて、いま公安課にいるもとの特高係長がわれわれの仕事についていろいろ新しい指示を与えました。とくに今度の選挙についての」と語っている。このように、特高警察の業務は、公安警察に継承されていた。


GHQ参謀第2部(G2)は、特高警察関係者の中から、公職追放された者を多く雇用して、元特高警察官の知識や経験を情報収集や謀略活動に利用しており、内務省調査局と、その後身である法務庁特別審査局に入局させて、レッドパージの先鋒としての役割を担わせていた。特別審査局の調査第三課は、特高警察の元締めであった内務省警保局保安課と編成が酷似しており、団体等規正令第11条により解散処分となった日本共産党全労連の動向を監視していた。G2は公安警察とも密接な関係にあり、日本の各地方に置かれたG2管下の対敵諜報部隊(CIC)は、各都道府県警察部の警備課(公安課)と緊密な連絡を取り合って諜報活動に従事していた。後にG2は、中央集権的な警察機構の存続を望む内務省警保局を支持し、警察機構の分権化・細分化を進めるGHQ民政局(GS)と鋭く対立している。

その後、GHQ占領政策の転換に伴う公職追放者の処分解除(逆コース)により、1951年9月以降、旧自治省警察庁・警視庁公安部・公安調査庁・厚生省・労働省・旧防衛庁宮内庁・文部省・日本育英会住宅金融公庫・年金福祉事業団・日本住宅公団首都高速道路公団阪神高速道路公団・日本観光協会などの上級幹部職に復職していった。

また、公職復帰後に知事や副知事を足掛かりに、国会議員となり、その後、自治大臣国家公安委員会委員長や、文部大臣、法務大臣となる者もいた。

そういえば「彼ら」はフランス革命における「最終勝者」でもありましたね。「テルミドール反動1794年7月27日)」とは要するにロベスピエールら革命指導者達が(次第に国民から見放され始めたジャコバン派恐怖政治の全責任を虐殺の現場担当者に押し付けて逃げ切ろうとしたところ、逆に返り討ちに遭って自分達の方がスケープゴートにされてしまった党争(内ゲバ)の一瞬。所詮はホロコーストしか能がない烏合の衆に過ぎず、その後も党争(内ゲバ)を続けるだけでのみを続ける事しか出来ず「それよりはマシ」という理由でナポレオン独裁が準備されたのです。

それにつけても、どうして軍国主義共産主義といった全体主義思想は秘密警察による国民監視や密告奨励と縁が切れないのでしょう。 その背景には人間性や自由といった多様で多態な「基本的に制御不能」諸概念に対する基本的不信感が存在するから。

  • かかる近代的状況の始まりは1850年代末における古典的自由主義Classical liberalism)と社会的自由主義Social liberalism)の対立表面化まで遡るとも。いや実際にそれを際立たせたのはこの時代から急速な発展を開始する新ファクター科学主義Sientism)だったのかもしれない。

    1850年代末には欧州近代思想の大源流が一気に出揃った。「文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならないが、他人に実害を与える場合には国家権力が諸個人の自由を妨げる権利が生じる」とするジョン・スチュアート・ミル自由論On Liberty、1859年)」の古典的自由主義、「我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものは、実際には社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない本物の自由意思や個性が獲得したければ認識範囲内の全てに抗え)」とする「上部構造理論の提唱者カール・マルクス経済学批判Kritik der Politischen Ökonomie、1859年)」の社会自由主義、「進化は系統的に展開する」としたチャールズ・ダーウィン種の起源On the Origin of Species、初版1859年)」の科学的アプローチがこれである。

    科学主義Sientismの台頭…実は19世紀前半に猛威を振るった「俗流唯物論vulgar materialism、今後は自然科学的な知のみを体系化すべきであり、それによって哲学は不要になるとする立場)」に対し、ウェーバーやフェヒナーらの精神物理学、ヘルマン・フォン・ヘルムホルツらの感覚生理学といった研究の積み重ねが「(人間が認識可能な情報の集大成としての独Ding、英Thing)の世界」と「(その外側に「原則として」人類に不可知な形で拡がる物自体(独Ding an sich、英thing-in-itself)の世界」を峻別するイマヌエル・カントImmanuel Kant、1724年〜1804年)の超越論をリヴァイヴァルさせ「自然科学のようないわゆる経験科学の発展によって物自体が認識可能となる」とする独断論の克服に役立てられていく流れでもあった。

    こうした歴史を背景にコンドルセの国民教育平等論やジョン・スチワート・ミルの男女平等論が次第に力を得ていったのである。

    ちなみに、かかる進歩的流れに乗り遅れた(あるいはその唯物論的態度に態度に耐え切れなかった)欧米のインテリ=ブルジョワ階層は一斉にオカルト方面に走った。百年後の日本でも同種の展開があり、月刊ムー創刊1979年)やオウム真理教テロ事件1994年〜1995年)辺りの流れがこれに関わってくる。

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    その一方で皮肉にも中国やベトナムの様な「資本主義化に成功した共産主義国」は、こうした意味合いにおける共産主義にはさっさと見切りをつけ、さらにその源流に存在する(ドイツ帝国大日本帝国のモデルでもあるフランス第二帝政Second Empire Français、1852年〜1870年)のイデオロギーたるサン=シモン主義への回帰に成功したからとも考えられている。

  • とはいえこの問題が実際に国際的に本格的に表面化してきたのは「(第一次世界大戦(1914年〜1918年)当時の大量破壊によって世界全体の資源総量が激減し国家間の競争が全てとなった総力戦体制時代1910年代後半〜1970年代)」も終わりが見えてきた1970年代後半に入ってからだった。背景にあったのはマルクス主義の思想としてての終焉や共産主義国間での(戦争遂行を含む)本格化など。かくして世紀末から2000年代に向けて自由主義圏では「中核的イデオロギーを喪失した左翼陣営の烏合の衆化セルフイメージは「(多様性と多態性の象徴たる)虹を(正義によって)束ねる」運動への転換)」が、共産主義圏では「ソ連支配下の諸国における共産主義からの脱却運動共産主義瘡蓋(かさぶた)論」の形成)」が本格化する。

こうして全体像を整理すると現在ネット上で何が起こっているかについて、だいぶ解釈しやすくなります。その一方でこういう話もありますね。

ちなみに上掲の「国際SNS上の関心空間に集う匿名女子アカウント集団」における「フェミニズム第三世代」の自己認識は以下の様な感じでした。

①「家父長制は、その権力の本来の所有者家母長制だった家母長制によって打倒されるべきである」的なバーバラ・ウォーカー流ウルトラ・フェミニズムは(学生運動の最終目的は家父長制の打倒ではなく自らを頂点とする家父長制の再生産に過ぎない」と見切って大泉サロンを開いた竹宮惠子)1970年代以降の日本の少女漫画家の「家父長制も家母長制もどちらも女性が自立を勝ち取るために打倒すべき権威主義体制に過ぎない」というスタンスによって論破された。以降、日本の少女漫画や女性向けアニメは文字通り我々にとってのバイブルであり続けている。

*本当に実際に普通に「引用で戦う」場面を幾度も目にしてきた。まさしくバイブル…

②その後、とうとう尻尾を出したウルトラ・フェミニズムはむしろ家父長制護持を誓う伝統主義者(ただし米国においては先行してジェファーソン流民主主義(政府の介入に対して家父長制や奴隷制農場を守り抜こうとする立場)の歴史が存在するので彼ら自身の自認はリベラル)に先鋭化。その一方で「多様と多態の容認」によってその境界線を曖昧にしてきたフェミニズム第三世代は穏健な宗教右派皮肉にも彼ら自身の自認は保守派)を吸収し、その規模を着実に拡大させてきた。

③その一方で20世紀後半に入ってから一気に女性の解放が進んだのはテクノロジーの進歩の恩恵を受けたからでもあった。家事のオートメーション化や肉体労働系職場の重機化など…

いわゆる「ツイフェミ式架空戦記」が一切言及しないトピックばかり。ちなみに、いくら頭だけで考えたって彼女達の遂行様式に到達する事は不可能です。何しろ「相応数が集まって相応のコンセンサスを形成している場合、実在するものとして敬意を払う」ルールが生み出す、ある種の特異点な訳で…

こうした日本のTwitterですると「全てお前の妄想の産物に過ぎない。真実を知るのは我々のみ」の一言で切り捨てられてしまうという…

まさしく「究極の自由は専制の徹底によってのみ達成される自由主義のジレンマそのもの?

要するに、ツイフェミの価値観は上掲の様な他のあらゆる価値判断基準と完全に直交(線型独立性の達成)している?