諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】「最新版の腐海」としての「マスコミ独裁体制」について。

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どちらかといえば私は後者の立場ですかね。そう、ある意味「マスコミ独裁体制」とはそれが最終勝利を飾り、政敵を失ったが故に自滅していく残酷な歴史過程を体現した「最新版の腐海」といえそうなのです。

最近の投稿で久し振りにこの曲を思い出して、脳内無限ループ中…

Les tigres tuent les belles panthères
虎は美しい黒豹を餌食とします。

Les poules zigouillent les vers de terre 
雌鶏の餌食となるのはミミズです。

Les lions massacrent les jolies gazelles
ライオンのガゼルの屠り方は残酷です。

les chats dépouillent les oiseaux de leurs ailes
しかし小鳥の羽を毟って弄ぶ猫ほどでしょうか?

Mais de tous les animaux, c'est qui les plus forts et de loin ?
それでは百獣の王って何でしょう?

Mais de tous les animaux les plus forts c'est nous, c'est les humains !

人間に他ならないんじゃないんでしょうか?

Nous on tue des lions, on tue des loups, et on tue des agneaux
私達はオオカミもライオンも子羊も見境無く殺します。

Les poules trop fastoche on les butte par vingt dans leur cageot
檻の中の雌鳥だってまとめて蒸し焼き。

On tue des hommes, des femmes, des vieux, des enfants à gogo
女だろうが、幼児だろうが、老人だろうが見境なし。

On peut tuer tout ce qui bouge, alors c'est qui les plus costauds ?
視界に入る全てが屠殺対象。それこそ最強の証なの?

Les girafes s’empiffrent de feuillage
確かにキリンだって食べられるだけ食べます。

les vaches engloutissent des pâturages
放牧中の牛だって食べられるだけ食べます。

les lapins se bourrent de carottes et de choux
ニンジン畑やキャベツ畑に放たれたウサギだって同じ。

les koalas se goinfrent de bambous
竹林に放たれたコアラも同じ。

Mais de tous les animaux, c'est qui les plus forts et de loin ?
それでは百獣の王って何でしょう?

Mais de tous les animaux les plus forts c'est nous, c'est les humains !
人間に他ならないんじゃないんでしょうか?

Nous si on veut on peut vider les océans
私達には海を空っぽにする事だって出来るんです。

Couper les arbres et brûler tous les champs
森を伐採し尽くす事だって出来るんです。

Nous si on veut on peut même faire fondre les glaciers
氷河を溶かし尽くす事だって出来るんです。

On peut dégommer la planète qu'ils arrêtent de s'la raconter
地球の外に飛び出して、他の惑星に到着する事だって出来るんです。

Oui de tous les animaux, c'est qui les plus forts et de loin ?
それでは百獣の王って何でしょう?

Oui de tous les animaux les plus forts c'est nous, c'est les humains !
人間に他ならないんじゃないんでしょうか?

そう、「マスコミ独裁体制」を終わらせつつあるのは「ちょっと病弱なセブンティーンが、4000万回以上他人をバールで殴る」、そんな景色だったりもする次第。

そこには既に「勝者の慢心」につながる「敗者側の復讐の成功」なんて美しい物語なんて存在する余地もない。「やばい方のエレクトリカル・パレード」があるばかり…

誰がこれを解き放ったのか? とりあえず今回の出発点はこれ。

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そう、いわゆる「マスコミ独裁体制1990年代〜)」は「産業至上主義時代1960年代〜?)」における後半部に過ぎず「商品至上主義1960年代〜1990年代)」なる前半部が存在したのである!!

ある意味、そこから「マスコミ独裁」に至った原動力は(国家間の競争が全てとなった総力戦大戦時代1910年代後半〜1970年代)の、さらにはそれに続いた商業至上主義への反動としての、そうした動きの全面否定欲求にあったと言えるでしょう。

  • 軍事の優先」「国家の治安に対する執着」「犯罪の厳罰化への執着」「不正な選挙」…「(十分な火力と機動量を有する常備軍を中央集権的官僚制が徴税によって養う主権国家Civitas Sui Iuris体制」の中枢たる「覇権ヘゲモニーhegemony)」を樹立して維持する活動。
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    常に背景としてあり続けてきたのは「究極の自由主義専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマとも。

  • 強情なナショナリズム」「団結の為の敵国づくり」「マスメディアのコントロール」「学問と自由の軽視」…国民統合の為のプロパガンダ浸透とノイズ除去。
    *かつて自らが先頭に立った修羅道。この連鎖を否定したかったマスコミ、あるいはリベラル層は「新たな敵を設定し続ける」修羅道に再び舞い戻るのではなく、この達観に到達すべきだったのでは?

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  • 性差別の横行」「宗教と政治の癒着」「身贔屓の横行と腐敗」…国民統合の為の伝統的社団、すなわち政教一致体制や家父長制や(奴隷制や貴族制をも含む)身分制維持をコンセンサス共通価値観)とする伝統的インテリ=ブルジョワ政治的エリート階層への懐柔。

  • 「(特定企業の保護」「労働者の抑圧」…経済発展を担う新興富裕層の優遇で「移民や植民地の低原価労働者としての活用」も後援。

  • 人権の軽視」…議席が「砂糖大根業界や建築業界の利権代表者」などに埋め尽くされて「国家運営上の正しい判断」が下せなくなる議会制民主主義の欠陥を死ぬほど軽蔑し抜いていたカール・シュミットCarl Schmitt、1888年〜1985年)は、その欠陥を補うべく「政治的なものの概念1927年)」の中で政治技術の中枢は適正な「友・敵関係Freund-Feind Verhältnis)」設定による党争上の勝利とした。マスコミやリベラル層は「絶対悪たる差別主義者ナチス」を追い詰めるべく(NSDAPも採用した、人類の多様多態性を否定する)この思考様式に心酔し抜く展開によってNSDAPというより(普通選挙法(1925年)制定とセットで「国体を揺るがす」無政府主義者共産主義者国粋主義者の摘発を主目的として設置されたのに、ターゲットを狩り尽くしてしまうとリストラを恐るあまり取り締まり対象を新興宗教集団や国民の風俗全般に拡大した大日本帝国末期の特高警察へと変貌していった。それだけ「(政治的現実も経済的現実も取るに足らないとして黙殺可能な反人権主義」なる汎用レッテルの運用は全能感を伴う強力な特権意識を前提とする快感を伴うのであろう。まさしくニーチェFriedrich Wilhelm Nietzsche, 1844年〜1900年)が「善悪の彼岸Jenseits von Gut und Böse、1886年)」において「怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだWer mit Ungeheuern kämpft, mag zusehn, dass er nicht dabei zum Ungeheuer wird. Und wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein.)」の顕現者。当事者の認識は当然(ユダヤ民族に対するホロコーストを遂行したNSDAP同様に)「国際正義の名において、人権主義と人類の平等を阻害する貴様ら絶対悪を族滅する。それに反対する者全てがナチスの差別主義者として族滅されるのが国際正義」という内容で(その自らの正義についての確信ゆえに)論破は絶対に不可能。

    これまでの投稿でも、彼らの主張の極限が「趙高の馬」問題へと収束して行かざるを得ない事は繰り返し述べてきた。

    恐ろしい事に、ここまでくると彼らの体制的権力としての力が勝り過ぎて「伝統的な敗者のルサンチマン」なる価値判断基準をすら超越し「直交」すなわち「線型独立」を達成してしまうのである。本物の弱者すら差し置いて「史上最強の本当の意味での無敵の弱者」なる立場を独占してしまう展開を迎えてしまう。

ここで興味深いのが以下の脱線。

そう、伝統的に各国のインテリ=ブルジョワ=政治的エリート階層は「投擲兵器が社会秩序形成に与える影響」の完全排除を望み、その結果として(表面上は)執拗なまでに「(自らがそれを行使する場合か、それが自分達を守る為に行使される場合以外の一切の武力行使の絶対悪化」に精力的に取り組み続ける結果を生んできたのでした。
*私は日本のマスコミやリベラル層が、南スーダンに派遣された自衛隊の現地韓国軍に対する弾薬貸与について一斉に「人殺しに日本人に巻き込むな、このナチスの差別主義者どもめが!!」と非難した歴史を決っして忘れない。普段は韓国に同情な振りをしてる彼らだが、軍事政権時代には普通に「ヒトモドキが人間の振りしてるだけじゃねぇか!!」と侮蔑してしたし、この時も「(所詮はヒトモドキに過ぎない)韓国人なんて現地人から攻撃されたら喜んで全滅していけ。その犠牲が人道主義と人類平等の精神を顕現させる。日本人を巻き込むな」と弾劾する人々が相次いだ。彼らの「偽善者としての完成度」は「シカゴFacwbook拷問Live事件(2017年)」に際して「黒人側は所詮はか弱い弱者に過ぎないのだから、白人側には補償として襲いやすい(略奪や輪姦や虐殺の対象としやすい)女子供や精神薄弱者から差出す義務がある」なる匿名投稿に「確かに彼らの考え方にも一理ある。我々も人間らしくあり続ける為に人道的かつ人種平等的に振舞うべきだ」なる匿名返答がぶら下がるのを容認しつつ、現実世界では迷子になった非武装の黒人少年が自宅の呼び鈴を押しても(自分や家族を守る為に)躊躇なく射殺して正当防衛を主張する米国リベラルの領域に到達しつつあるといえよう。だから彼らに(実際に中国共産党支持者から略奪・輪姦・虐殺の被害を受けている)チベット人ウイグル人の叫びが届く事は決してない。この場合むしろ彼らの言葉に耳を傾ける人間の方が「絶対悪として族越されるナチスの差別主義者」と扱い割れる展開を迎える。どうしてそうなるか正義の構造を理解してない人間はみんな気が狂ったヒトモドキのナチスの差別主義者に過ぎないから、まとめて族滅対象だよ?

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一体、歴史の何処の時点においてボタンを掛け違えてしまったのでしょうか?