以下の投稿をして以降「血塗れで微笑むガロアさん」が脳裏から離れません。
*ちなみにそれ以前の投稿で触れた「ティンダロスの猟犬」は一旦退場…詳しい経緯はまた別途。
当時既にフランスの急進左派や政治的ロマンティストは急速に時代遅れとなりつつあり、それで大半が生き急いでいた感もある様です。そして、そういう自分を冷徹に客観視し、遠藤周作「沈黙(1966年)」のロドリゴ神父の如く自らの内世界だけは現実の浸透から守り抜く事に全力を尽くしたある種の求道者だけが次世代まで生き延びる展開に…
政治活動からすっぱり足を洗い「芸術の為の芸術」を志向したテオフィル・ゴーティエ (Pierre Jules Théophile Gautier,1811年~1872年)は無論の事、「一揆主義者」オーギュスト・ブランキ(Louis Auguste Blanqui、1805年~1881年)もそうした内面性なら確かに十分過ぎる程に備えていたのでした。
今は、中世から近代へと転換したような大きな歴史的現実の転換期であり、その転換に対応した思想はまだ未形成だ。だから政治からアートまで何をやっても過去の遺物性を引き摺り、残りかすばかりにすぎないが、人間は無為ではいられない習性があるため、当面は場繋ぎとして適当に戯れるしかあるまい。
— 千坂恭二 (@Chisaka_Kyoji) October 27, 2019
思想とは、気の利いた見解でもなければ、目先の問題を処理する処方箋的な言説でもなく、現実を現実として捉える視覚であり光学でもある。つまり、今の現実が、何により、如何ように現実として成立しているのかということに取り組む視座であり問いなのだ。
— 千坂恭二 (@Chisaka_Kyoji) October 27, 2019
何か平賀源内(1728年~1780年)みたいな語り口調ですが、別に現代に限った話でもないのかも?