こうした歴史観が示唆する「2020年代に有るべき全体構造」構築に際して実に有用そうなカード(原義通り「切り札」)を引きました。
多くの人は単一の無矛盾的な行動規範を与えれば子どもはすくすくと成長すると考えているけれど、これはまったく愚かな考えであって、これこそ子どもを成熟させないための最も効率的な方法なのである。
成熟というのは簡単に言えば「自分がその問題の解き方を習っていない問題を解く能力」を身に付けることである。
成人の条件というのは「どうふるまってよいかわからないときに、どうふるまうかを知っている」ということである。
別に私はひねくれた逆説を弄しているわけではない。「私はどうふるまってよいかわからない状況に陥っている」という事況そのものを論件として客観的に思考の対象にするとする。すると、手順としては…
- それについて記述する。
- それについて分析する。
- それについて他の人々と意見を交換する。
こうした考察から有益な情報を引き出すことができるのが成人だと申し上げているのである。だって、人生というのは「そういうこと」の連続だからである。
けれどもシンプルでクリアカットで無矛盾的な行動規範だけを与えられて育てられた子どもは「そういうこと」に対処できない。
「どうふるまってよいかわからない」ときに「子ども」はフリーズしてしまう。フリーズするかしないかはハードでタフな状況においては「生死の分かれ目」となる。だから、子どもたちは矛盾と謎と葛藤のうちで成長しなければならないのである。
新海誠監督が劇場版アニメーション映画「天気の子(2019年)」で語ろうとしたのは、ある意味単なる「Boy meets Girl」ではなく(そう矮小化しようとした試みは全て失敗に終わった)、例えば歴史的に「息子-夫-父(及びそうした立場の超越者としての老人)」といった形で可算集合化された男性巡回群と「娘-妻-母(及びそうした立場の超越者としての老人)」といった形で可算集合化された女性巡回群の現代的な形での直積、すなわちレヴィ=ストロースの構造主義理論における「(音韻論で言うところの)対立する一対 (Couple d’oppositions)の有機的連関(Organic linkage)」の21世紀版を再構成しようという試みだったのかもしれません。
- 可算集合(countable set)…要するにとりあえず「(「無限小(-Inf)~-3,-2,-1,0,1,2,3,~無限大(-Inf)」の様な形で全列記可能な整数集合なども含め)自明の場合(Trivia Case)としてその要素=元(Element)を全て数え上げられる(Countable)集合(Set)」を指す。
- 巡回群(cyclic group)…複素数(Complex Number)概念の延長線上に現れるこの概念は一見、とても取っ付き難く感じられる。
ところがコンピューター言語的には「2πをnで割った数列をCos関数に与えてX軸、Sin関数に与えてY軸に与えると正N角形を描く」といったアルゴリズムに当たり前の様に応用されている概念であり、これを用いれば「半径rの円に外接する正多角形の辺長計と内接する正多角形の辺長計が(辺長が無限小で辺数が無限大の)円そのもの(Circle itself)の理論上の周長たる2πrへと収束(Convergence)していく様子」を容易に可算化(視覚面などにおいて納得のいく範囲までの計算による近似)する面倒な計算だって容易に実装出来てしまうのである。プログラム引用元:
さらに上掲の様な男性巡回群と女性巡回群の直積には王名表や家系図の様な形での「世代交代=桁上がり」があるからN進法の様な繰り返し単位の一種と捉えるべき側面が存在する。
とはいえこうした数理に全面的に依存した(国家や組織といった概念が登場する以前で、政治も経済も伝統的営為に埋め込まれていた)部族社会や(血族や教団や職人組合といった伝統的社団が党争の最小構成単位となった)中世社会=「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的権威体制」などの最盛期における「(不完全極まりなく不安定な)伝統的社会の再生産過程を支えてきた(同じく不完全極まりなく不安定な)最小単位」には(男性や女性のライフサイクルの不可欠な一部でありながら男性巡回群にも女性巡回群にも含まれない)子供や老人といった局外者(Outsider)が存在したりLGBTQA的展開への配慮が欠落していたりと、特定数理の写像(英mapping,map、仏application)としては欠陥が多過ぎる。ある意味それはただ単に(他の社会システム同様に)各時代における社会の再生産過程においてかろうじて「十分な(Enough)」な処方箋を提供するに過ぎず、必ずしも満足のいく形で実践されるとも限らなかったという意味合いにおいて理念の一種としてのみ存在し続けてきたと考えるべきなのである。実際、大友克洋の漫画「童夢(1980年~1981年)」や「AKIRA(1982年〜1990年、アニメ映画化1988年)」は(社会に組み込まれてない)子供や老人が既存社会を破壊し得る超常能力を備えた結果(1970年代までに流行した)深い眠りから覚めた怪獣や、外宇宙から侵略してくるインベーダーや、核戦争同様に「認識可能範囲外を跋扈する絶対他者」として機能する世界観を描いて国際的評価を得た。
また伝統社会自体も必要に応じて「(開拓時代終了を受けての、限りある家財を分散させない為の)長子相続の普及」といった新たな展開を迎えてきた歴史がある。
それにも関わらず数学的構造の絶対性に拘泥し過ぎたレヴィ=ストロース自身は、その後ゴビノー伯爵やニーチェが傾倒した「距離のパトス(Pathos der Distanz)」論あるいは「人種エントロピー(Race entropy)」論へと傾いていき「さまざまな文化の混合は人類の知的キャパシティを縮小させ、種としての生存能力さえ低めることになりかねないから、それぞれの文化の間の距離を維持して、全体としての多様性を保つべき」なる伝統主義的立場に立つ様になって時代についていけなくなってしまう。この意味合いにおいてレヴィ=ストロースの構造主義自体は21世紀まで生き延びられたとは到底いえない。
その一方、過去から継承された因習の墨守のみに終始する伝統主義が「数理的に改善可能な問題のみに表面的関心を集中させる」進歩主義の影響を受けて「現状における最善」を模索する保守主義に脱皮するプロセスを描いたのがカール・マンハイム(Karl Mannheim、1893年〜1947年)の「保守主義的思考(Das konservative Denken、1927年)」となり、この論考が発表された背景には(保守主義化によって与党を勝ち取った英国や日本の保守政党と異なり)保守系国民の期待が幾ら集まっても「地主の利権団体」の枠組みから一歩も踏み出そうとしなかった当時のドイツ保守系政党への苛立ちの反映もあったと推察されている。その結果、こうした政党支持者の票がNSDAP(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei=国家社会主義ドイツ労働者党)に流れ、挙句の果てに保守系政党そのものがこれに合流していった歴史展開を思えばマンハイムの危惧は完全に当たったといえよう。
ナチスそのものの政治的方針など終始「無節操なええとこどり」の域を一歩も出ないが、そのナチスに保守主義実現の夢を託そうとしたドイツ貴族階層出身の女性作家テア・フォン・ハルボウ(Thea von Harbou, 1888年~1954年)が脚本を手掛けた「メトロポリス(Metropolis、1926年)」には当時なりにドイツの保守系有識者が夢見た「想像する以上に進歩主義寄りの」ドイツ保守主義思想が明瞭な輪郭を伴った形で読み取れる。
だがもちろん、進歩主義寄りに転じれば転じる程、保守主義的思想は(そもそもの出発点だった筈の)伝統主義との軋轢を深める。この辺りをバランスよく捌いた剛腕な歴史絵巻をエンターテイメントのフォーマットできっちり展開してるのが幸村誠「ヴィンランド・サガ(VINLAND SAGA, 2005年~)や野田サトル「ゴールデンカムイ(2014年〜)」やゆうきまさみ「新九郎、奔る!(2018年~)」辺りであり、その意味では「ゲーム終了のホイッスルはまだ鳴ってない」感がある。
- 直積(direct product)…二次元系(Two-dimensional system)ならxとy, 三次元系(Two-dimensional system)ならxとyとzの組み合わせ(set)で空間上の任意の座標が表せる直交座標系(Orthogonal Coordinate System)が代表例とされる。直積集合の元が順序対なので、同じ元はひとつも含まれない。
52枚で一組のトランプの標準的なトランプのデッキも、{♠, ♥, ♦, ♣} なる4個の元(Element)を要素とする(群でいうと位数4の)スート(suit)集合と{A,1,2,…,9,10,J,Q,K}なる13個の元を要素とする(群でいうと位数13の)ランク(Rank)集合を直積した結果構成される直積集合の代表例の一つである。この場合も直積集合の元が順序対なので、同じ元はひ
とつも含まれない。
ところで直交座標系では各座標軸(axis)が単位元0,逆元が符号を逆転した同値となる無限等差数列(Infinite Arithmetic Progression)=加群(Module)の一種と目されるが、それぞれの座標軸の相関係数(Correlation coefficient)が0となる、すなわち直交(orthogonal)し線型独立 (linearly independent)が成立する必要がある。
*以下の相関係数の図示に誤りがあるのは承知。そのうち修正予定…
プログラム参照元:
直積(Direct Product)の概念自体はもっと幅広い範囲を指す。実際、歴史上の概念としての男性巡回群{息子,夫,父親}と女性巡回群{娘,妻,母親}の直積集合においても、元集合間の直交性や線形独立性を必ずしも前提とはしていない。
こうした問題については過去の投稿でも部分的には触れてきました。
歴史を人間が自然を克服し人工によって自由を実現する前進運動として捉えた場合、(歴史的にスノビズムやカウンター・カルチャーなどを牽引してきた差異=不平等の実存が次々と克服されていく)前進運動の終わりは自由の獲得と関係のない差異のためだけの自殺さらには絶滅(エクスターミネーション-進歩の終わりは種の絶滅)を価値の頂点とする世界として現れるのではないか。
まさしくゴビノー伯爵やレヴィ=ストロースを伝統主義者に退化させてしまった実存不安そのもの。そのして…
日本における「世紀末的閉塞感」からの脱却過程
どうやら「それまで大人の用意した家族や社会といった枠組みの中で自らを構成きてきた若者達が、自らも主体性を備えた一員として社会に組み込まれていく過程で抱え込む実存不安」には時代を超越した普遍性がある様である。
- もちろん「自らも主体性を備えた一員として社会に組み込まれていく過程にある若者達」は「我々の主体性は何人たりとも犯し得ない(お前達には我々を無批判で受容する自由のみを許してやろう)」なる「傲慢な大人達の主張」に精神的に反発を感じた。まさしく1970年代中旬から表面化してきた「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマの再確認過程…
- しかしそれと同時に「大人達はやる事なす事全て間違ってる。我々が自らの主体性を獲得するには革命を起こすしかない」といった性急な急進主義的扇動も同じくらい警戒する様になったのである。両者が(自らは不満を撒き散らすだけで行動を起こそうとしないといった態度などを背景として)表裏一体の関係にある事を見抜き「そういう大人にだけはなりたくない」と考える様になったのである。
日本の2000年代前半以降のエンターテイメント業界は、こうした感情を丁寧に拾い集める事によって「世紀末的閉塞感」からの脱却を果たしていったのである。
米国における「世紀末的閉塞感」からの脱却過程
2000年代のアメリカは「21世紀のロビンク・ルーソー物語」ともいうべき孤立無援物の全盛期。2010年代に入るとこれらが次から次へと映像化される展開を迎える。こうしたブームの延長線上に現れたのがアンディ・ウィアー「火星の人(The Martian、原作2011年、映画化2015年)となる。
また当時はTVシリーズ「バフィー 〜恋する十字架〜 (Buffy the Vampire Slayer、1997年~2003年)」やステファニー・メイヤー著「トワイライト(Twilight)シリーズ(原作2005年~、映画化2008年~2012年)」といったティーン向けロマンス物のメガヒットもあった。
こうした展開を背景に日本の「バトル・ロワイアル(BATTLE ROYALE、原作1999年、映画化2000年~)」や川原礫「ソードアート・オンライン(Sword Art Online, Web版2002年~、刊行2009年~、アニメ化2012年~)の影響も受けながらスーザン・コリンズ著「ハンガー・ゲーム(The Hunger Games、原作2005年~2010年、映画化2012年~2015年) やジェームズ・ダシュナー著「メイズランナー(Maze Runner, 原作2009年~2016年、映画化2014年~2018年)」、アーネスト・クライン「ゲームウォーズ(READY PLAYER ONE、原作2014年、映画化2018年)」などが次々と発表され「若返り」が達成されたのだった。
その間には「人生のFPS化」なるキーワードが登場。
新海誠監督映画「天気の子(Weathering With You, 2019年)」において主人公森嶋帆高とヒロイン天野陽菜の親との関係が希薄にしか描かれなかった事について(ヒッピー世代の影響でありとあらゆる物語に親子関係の葛藤が盛り込まれるのに慣れた)旧世代が不服を漏らし(多くのアドベンチャーゲームやラノベの様に、主人公達の行動の主体性の確保が最優先課題とされ、物語的必然がある場合を除いて親子関係が描かれないばかりか、しばしば完全に物語外に追いやられるのに慣れた)新世代が普通に受容した背景には、こうした歴史的流れもあったのです。
「天気の子」、いま上映されているのがグッドエンディング版で、来年に発売されるファンディスクにトゥルーエンド版が追加される。10年くらい前にやった伝奇アドベンチャーゲームならこうなっていた。俺にはわかるんだ。
— 藤★野 (@toyadaisho) 2019年7月28日
「君の名は」と「天気の子」しか観たことないけれど、少女があまりに客体でしかないところにモヤっとする人がいるのはわかる。少女は解かれるべきミステリーであり攻略するアドベンチャーであり最終的にはトロフィーなわけだ。「ラピュタ」や「ポニョ」もそう。日常のボクに非日常のキミ。
— ひかゆ (@_hikayu3) 2019年8月22日
そして昨年、こうした諸問題を一挙に解決する処方箋として思いついたのが「アノマロカリス仮説(Anomalocaris hypothesis)」という次第。
ルネ・デカルト(René Descartes、1596年〜1650年)やイマヌエル・カント(Immanuel Kant、1724年〜1804年)は「(人間が認識可能な情報の集大成としての)物(独Ding、英Thing)の世界」と「(その外側に「原則として」人類に不可知な形で拡がる)物自体(独Ding an sich、英thing-in-itself)」の世界を峻別しつつ、人間はある種の直感能力によって後者と直接結びついている筈とした。歴代の芸術家や科学者達が啓示を受けてきた領域…
その大源泉をとりあえずカンブリア爆発期(Cambrian Explosion、葯5億4200万年前〜5億3000万年前)に左右相称動物(Bilateria)が生物史上初めて獲得した「眼と視覚情報を処理する脊髄」に仮託する。「天からの声」はそのさらなる奥から我々に届いているのかもしれないが、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考(独Logisch-Philosophische Abhandlung、英Tractatus Logico-philosophicus、1918年執筆、1921年刊行)」の中で述べた様に「語り得ない事については、沈黙する他ない(Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen.)」のである。
実際、それは映画「2001年宇宙の旅(2001: A Space Odyssey、1968年)」に登場するモノリスの如く劇的に作用した。以降(これを備えない)放射相称動物(Radiata)が進化面で遅れを取り始める一方、この新たな能力を捕食動物として初めて有効活用したアノマロカリス(Anomalocaris、約5億2,500万〜約5億0,500万年前)が「(当時の生物としては破格の大きさまで成長する)地球最初の百獣の王」の座に躍り出たのである。
しかしその一方で、種としてのアノマロカリス自体は自らの系統を一切残す事なく絶滅している。
- 一説によれば皮肉にもこの捕食性動物は、その奇跡的成長ゆえに「(棘や殻や毒で自衛した)食えない連中」のみを淘汰によって残し、それが食べられず餓死したのだという。
- また別の説によれば、同種の生存戦略をより洗練させた魚類や甲殻類の先祖が登場し、それに生存競争で敗れたのだという。
正解はもちろん不明だが、こうした「史上初めて現れ(良い意味でも悪い意味でも)引き出し得るポテンシャルの全てを引き出し切って歴史的役割を終えた後に跡形もなく消滅」という全体像を俯瞰して「あらゆるビジネスモデル(歴史的事象)の先例」と看做す向きもある。まさしく「平家物語(13世紀前後成立)」の冒頭「祗園精舎の鐘の声、 諸行無常の響きあり。 娑羅双樹の花の色、 盛者必衰の理をあらはす。 おごれる人も久しからず、 唯春の夜の夢のごとし。 たけき者も遂にはほろびぬ、 偏に風の前の塵に同じ」の世界…
とはいえ左右相称動物(Bilateria)にも後にせっかく獲得した目と脳を捨てた系譜が存在し、その恩恵は必ずしも万能ではない。個体の存続に有用でなければ、その種ごと淘汰されていく。知識やMeme(文化遺伝子)といった諸概念も記録に残されず、いや例え記録には残されたとしても誰もそれについて想起も言及もしなくなれば自然に消え去っていく。そうまさに雨の中の涙の様に…そして、だからこそ逆説的に群論(group theory)の様な「数理そのものの純粋かつ恒久的な記述方法」の登場は歴史的画期となったといえよう。
かくして何度でもこの話に戻ってきてしまう訳です。
第一の点は、〈数学の概念は、まったく予想外のさまざまな文脈のなかに登場してくる〉ということ。
The first point is that mathematical concepts turn up in entirely unexpected connections.しかも、予想もしなかった文脈に、予想もしなかったほどぴったりと当てはまって、正確に現象を記述してくれることが多いのだ。
Moreover, they often permit an unexpectedly close and accurate description of the phenomena in these connections.第二の点は、予想外の文脈に現れるということと、そしてまた、数学がこれほど役立つ理由を私たちが理解していないことのせいで、〈数学の概念を駆使して、なにか一つの理論が定式化できたとしても、それが唯一の適切な理論なのかどうかがわからない〉ということ。
Secondly, just because of this circumstance, and because we do not understand the reasons of their usefulness, we cannot know whether a theory formulated in terms of mathematical concepts is uniquely appropriate.〔この二つの論点をさらに言い直すと〕第一の点は〈数学は自然科学のなかで、ほとんど神秘的なまでに、途方もなく役立っているのに、そのことには何の合理的説明もない〉ということ。
The first point is that the enormous usefulness of mathematics in the natural sciences is something bordering on the mysterious and that there is no rational explanation for it.第二の点は〈数学の概念の、まさにこの奇怪な有用性のせいで、物理学の理論の一意性が疑わしく思えてしまう〉ということ。
Second, it is just this uncanny usefulness of mathematical concepts that raises the question of the uniqueness of our physical theories.
こうした「数理モデル(Mathematical Models)」の特徴を「科学理論の客観性が保証される為には、その仮説が実験や観察によって反証される潜在性を備えていなければならない(逆をいえば科学理論とは、現段階ではきちんと反証を退けられている相応に信頼性の高い仮説の集合である)」と要約したカール・ポパー(Karl Raimund Poppr, 1902年〜1994年)の信念と結びつけたのが「数理モデル信仰(Belief in Mathematical Models)」なる概念…
そう、あくまで「信仰」の問題なので別種の「信仰」によって反対される可能性を絶えず秘めているのです。しかもそれは「反証が成立されない限り、その仮説を棄却しない」と考える合理主義に立脚する「弱い」信仰なので「真理は最終的に必ず一つでなければならない」と考える「強い」信仰に対して決定的抵抗力を有している訳でもありません。これが昨今日本を騒がせている「フクシマ不当差別問題」の本質とも。
忙しくて昨年末には上手くまとめられなかった内容。とりあえず今年の考察はこの辺りが出発点になりそうです。まさしく冒頭に掲げた通り「どうふるまってよいかわからないときに、どうふるまうかを知っている」が問題解決の鍵となってくる訳です。