この話題に踏み込めるのは、まだまだ先になりそうな予感で一杯…
ナイチンゲールは心底凄い人だと思うが、Wikipediaに「幼少期は、贅の限りを尽くした教育(フランス語・ギリシャ語・イタリア語、ラテン語などの外国語、ギリシア哲学・数学・天文学・経済学・歴史、美術、音楽、絵画、英語、地理、心理学、詩や小説などの文学)が施される」という記述があり
— ultraviolet (@raurublock) 2020年1月17日
これがナイチンゲールを1人作るための最低条件なのだろうなあと
— ultraviolet (@raurublock) 2020年1月17日
ヨーロッパ中を旅行して見聞を広め、体が弱いから家庭教師をつけ、看護学校に行くのを家族に反対されたから30までみっちり自宅で最高レベルの教育を受けて、家族を説得し、政府の人にパイプを作って軍と渡り合える下準備をしてクリミアに乗り込んだ人ですからね…。
— judy (@Daddylonglegs98) 2020年1月17日
ナイチンゲールは、イギリス有数の大富豪の家系です。
— バリュー投資家『鎌倉見物』 (@kamakurakenbutu) 2020年1月17日
幼少期より英才教育を受け、数カ国語を話せます。中でも数学に夢中になり、食事も忘れて数学の夢中になったほどです。
両親は数学の本を取り上げるのに苦労したほどです。https://t.co/bsjpq518sZ
ナイチンゲールが看護師として活躍したのは、3年ほどしかありません。
— バリュー投資家『鎌倉見物』 (@kamakurakenbutu) 2020年1月17日
クリミア戦争の過労によって、その後ほとんど寝たきりの生活になりました。
しかし、その寝たきりの生活で数学者として看護師としての業績を上回る仕事を残しました。https://t.co/NtntoH1siE
ナイチンゲールが数学者として残した実績は、統計学です。
— バリュー投資家『鎌倉見物』 (@kamakurakenbutu) 2020年1月17日
母国イギリスでは、看護学よりも統計学者としての実績の方が高く評価されています。
ナイチンゲールが事実上、イギリスに近代統計学をもたらしました。https://t.co/59Cn5MtuE9
円グラフを用いたプレゼンテーションを最初に行った人らしいですね。数学の素養は目を見張るものがあったとのことですし。
— 冷泉鷹章@19晩秋・ALL甲18結願! (@Taka_reizei) 2020年1月17日
この時マイクロソフトが存在してたら「PowerPoint」の宣伝に抜擢していたのは間違いないだろうなと。
当時の野戦病院は衛生という観念がまるでなく、地獄そのものの様相を呈していたと聞きますし、彼女のような教養を持ち、リーダーシップと行動力のある人間でなければもう数十年ほど野戦病院の環境が変わることはなかったのでしょうね。
— 八々斜目 (@yaya7me) 2020年1月17日
本当に凄い人です。
確か衛生管理の必要性を、数学的・統計的手法を用いて解析し導入させました。彼女が看護師として働いたのは実は2年に満たない期間で、実際の業績としては統計的手法の確立に対するものの方が大きいんですよね。
— uchi【T.F.C.987】 (@uchi987) 2020年1月17日
これまでの投稿における関連言及。
ここで欧州恒例の「ライバル国家が自国に与えた影響を認めない病」を観測。ナイチンゲールの統計革命は明らかに「政敵」フランスに追い付き、追い越す大義名分下で協力が得られやすくなり加速していった筈なのですが、その辺りの資料が全然見つからないのです…
- フランス絶対王政時代に導入され、ナポレオン戦争の勝利をフランスにもたらした砲制度改革たるグリボーバル・システム(système Gribeauval, 1765年~1853年)。
- 1794年のフランス革命中に数学者ラザール・カルノーとガスパール・モンジュによって創設され、1804年にナポレオン・ボナパルトによって軍学校とされた理工系エリート(テクノクラート)養成機関エコール・ポリテクニーク(École polytechnique, 通称X)。
第二帝政時の19世紀、セーヌ県知事ジョルジュ・オスマン(任期1853年~1870年)が取り組んだフランス最大の都市整備事業「パリ改造」。ジョルジュ・オスマンの名をとりtravaux haussmanniensとも呼ばれる。同時期には大英帝国も本土やインドで大規模な都市近代化運動を展開。これにはナイチンゲールも主導的立場で関わっている。
整備されたパリの街は「世界の首都」と呼ばれるようになり、フランス国内にとどまらず各国における都市建設の手本とされた。首都の大規模な改造は、ナポレオン3世の威光を高めることにつながり、当時の政権の寿命を延ばしたといえる。
混乱した社会状況を受け、それに対して極めて合理的にその解決を行ったと考えれば近代的都市計画の出発点と呼ぶに相応しいものだとも評価し得るが、一方、スイスの建築史家ジークフリート・ギーディオンはその著書『空間・時間・建築』のなかで、改造後のパリの街を「まるで衣装棚のように、画一的な大通りの裏側にあまりにもひどい乱雑さが隠されている」と批判している。
この大規模な都市改造は反面、都市としての防御力をなくしてしまうことになり、普仏戦争ではパリを防衛することが出来なくなり敗戦する原因となった。
またスラムを一掃したことは下町の自治共同体を解体することにもなり、パリ市民は現代東京のように隣の住民の顔も知らないような住民ばかりになり、多くのコミュニティが破壊されてしまう。オノレ・ド・バルザックやアレクサンドル・デュマ・ペール、ヴィクトル・ユーゴーらの文学者が作品において描写した当時のパリの街並みも失われ、これらの作品の内容を理解する事も難しくなった。
まぁ、上掲の引用からも垣間見られる様に、この種のフランス史の「質実剛健的部分」は、まさに(七月革命前夜頃から第二帝政の時期に掛けて「破壊しか遂行しなかった」革命時代の痛手からの回復とフランスへの産業革命導入を主導した)サン=シモン主義の落とし子だった筈のインテリ=ブルジョワ=政治的エリート階層から出た筈の有識者層からも黙殺されているのです。
以下続報…