諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】「ミス軍務省」の誕生

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この話題に踏み込めるのは、まだまだ先になりそうな予感で一杯…

これまでの投稿における関連言及。

ここで欧州恒例の「ライバル国家が自国に与えた影響を認めない病」を観測。ナイチンゲールの統計革命は明らかに「政敵」フランスに追い付き、追い越す大義名分下で協力が得られやすくなり加速していった筈なのですが、その辺りの資料が全然見つからないのです…

  • フランス絶対王政時代に導入され、ナポレオン戦争の勝利をフランスにもたらした砲制度改革たるグリボーバル・システムsystème Gribeauval, 1765年~1853年)。

  • 1794年フランス革命中に数学者ラザール・カルノーガスパール・モンジュによって創設され、1804年ナポレオン・ボナパルトによって軍学校とされた理工系エリート(テクノクラート)養成機関エコール・ポリテクニークÉcole polytechnique, 通称X)。

    第二帝政時の19世紀、セーヌ県知事ジョルジュ・オスマン(任期1853年~1870年)が取り組んだフランス最大の都市整備事業「パリ改造」。ジョルジュ・オスマンの名をとりtravaux haussmanniensとも呼ばれる。同時期には大英帝国も本土やインドで大規模な都市近代化運動を展開。これにはナイチンゲールも主導的立場で関わっている。

     整備されたパリの街は「世界の首都」と呼ばれるようになり、フランス国内にとどまらず各国における都市建設の手本とされた。首都の大規模な改造は、ナポレオン3世の威光を高めることにつながり、当時の政権の寿命を延ばしたといえる。

    混乱した社会状況を受け、それに対して極めて合理的にその解決を行ったと考えれば近代的都市計画の出発点と呼ぶに相応しいものだとも評価し得るが、一方、スイスの建築史家ジークフリート・ギーディオンはその著書『空間・時間・建築』のなかで、改造後のパリの街を「まるで衣装棚のように、画一的な大通りの裏側にあまりにもひどい乱雑さが隠されている」と批判している。

    この大規模な都市改造は反面、都市としての防御力をなくしてしまうことになり、普仏戦争ではパリを防衛することが出来なくなり敗戦する原因となった。

    またスラムを一掃したことは下町の自治共同体を解体することにもなり、パリ市民は現代東京のように隣の住民の顔も知らないような住民ばかりになり、多くのコミュニティが破壊されてしまう。オノレ・ド・バルザックアレクサンドル・デュマ・ペールヴィクトル・ユーゴーらの文学者が作品において描写した当時のパリの街並みも失われ、これらの作品の内容を理解する事も難しくなった。

まぁ、上掲の引用からも垣間見られる様に、この種のフランス史の「質実剛健的部分」は、まさに(七月革命前夜頃から第二帝政の時期に掛けて「破壊しか遂行しなかった」革命時代の痛手からの回復とフランスへの産業革命導入を主導した)サン=シモン主義の落とし子だった筈のインテリ=ブルジョワ=政治的エリート階層から出た筈の有識者層からも黙殺されているのです。

以下続報…