諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】科学史上におけるエコール・ポリテクニークの存在感

ここでも少し触れましたが、科学史において近代フランスの軍学エコール・ポリテクニークÉcole polytechnique、通称X)が果たした役割については、まとめて調べてみる価値があるんです。

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マーベル・コミック刊行のアメリカン・コミックに登場するヒーローチーム「X-MEN(X-Men, 1963年~)」の"X"の由来はしばしば当時の黒人公民権運動を率いるリーダーの一人だったマルコムXMalcolm X, 1925年~1965年)とされますが、要するにこちらもさらなる発想の根源は(本人の意向の如何を問わない)代数的抽象化による匿名性の獲得なのです。

主人公が後天的に能力を授かるそれまでのヒーローとは逆転する発想で生み出された。X-MENの語源はEXTRA-MEN、生まれながらの超能力者を意味する。

アメリカの黒人公民権運動活動家。ネーション・オブ・イスラム (NOI) のスポークスマン、ムスリム・モスク・インク (Muslim Mosque, Inc.) およびアフリカ系アメリカ人統一機構 (Organization of Afro-American Unity) の創立者でもある。

非暴力的で融和的な指導者だったキング牧師らとは対照的に、アメリカで最も著名で攻撃的な黒人解放指導者として知られているが、彼が活動中に暴力行為にでたことは一度もない。

出生名はマルコム・リトル (Malcolm Little)だが、1952年9月NOIから"X"という姓を授かって以降は「マルコムX」を名乗った。アメリカ黒人の「姓」は本来の彼らの姓ではなく、奴隷所有者が勝手につけたものにすぎないとネーション・オブ・イスラム教団では考え、未知数を意味する「X」は、失われた本来の姓を象徴するものである。同名の人物が入信した場合、入信した順番に「X」の前に番号をつけることになっていたのである。○○2X、○○3X、といった具合である。

ちなみにエコール・ポリテクニークのXの由来はフランスにおける愛称l’Xリクス)の模様。これについてもそのうち詳細を調べたい…

 

エコール・ポリテクニーク(École polytechnique、通称X) - Wikipedia

1794年フランス革命中に、数学者ラザール・カルノーLazare Nicolas Marguerite Carnot, 1753年~1823年)とガスパール・モンジュ(Gaspard Monge、1746年~1818年)によって創設され、1804年ナポレオン・ボナパルトによって軍学校とされる。

ラザール・カルノー(Lazare Nicolas Marguerite Carnot, 1753年~1823年) - Wikipedia

フランスの軍人、政治家、数学者。フランス革命戦争にあたってフランス軍の軍制改革を主導し、「勝利の組織者」と称えられた。政治的には穏健な共和主義者の立場を貫き、反対派からも尊敬されたという。また数学者としても功績を残した。著名な子孫たちとの区別のため大カルノーとも呼ばれる。

ガスパール・モンジュ(Gaspard Monge、1746年~1818年) - Wikipedia

フランスの数学者・科学者・工学者・貴族。エコール・ポリテクニークの創設者。今日知られる微分幾何学を開発し、曲面方程式や曲線の微分方程式から3次元空間への曲面曲率線の概念を導入して幾何学的形状を解析するなど、微積分方面による曲面の研究で知られる。

従来から製図で使用されていた画法幾何を、ジラール・デザルグの定理やパスカルの定理に基づく遠近法を研究して三角法や射影幾何学、図学という学問・学術にする体系再編に貢献し、この画法幾何学をベースにした解析手法は応用力学にまで取り入れられて構造解析の、また透視画法や投影図法が現在も製図法の骨子になっている。当時の度量衡を確立したほか、モンジュ・アンペールの方程式や群論や輸送最適論などの研究などでも知られる。軍事技術関連では、大砲鋳造や火薬製造法などを開発している。

フランス革命当時、海軍大臣元老院議長を務めていた。ヴァレ大学にガスパール・モンジュ学院、また切手の肖像画のほか、フレンチライラックやバラにも名がつけられた花がある。

スイス数学界のベルヌーイ一族やフランス絵画界におけるフラゴナール一族に続く名族の登場?

1796年ラザール・カルノーの長男として生まれた。少年時代から、水車のメカニズムなど、科学的な現象に興味を持っていたという。また控え目で非社交的であったが,正義感と感受性の強い性格であった。

1812年エコール・ポリテクニークに入学。1814年に卒業後公務実施学校工兵科へと進み、技師として活動した。 ナポレオン失脚(1814年~15年)により、共和派の政治家であった父ラザールはマグデブルグでの亡命生活を余儀なくされたが王政復古下の軍隊に残った。

1819年参謀部の中尉に任命されたが、まもなく休職し、パリやその近郊で芸術鑑賞や楽器の演奏などのかたわら、熱機関と科学の研究を行った。当時パリ工芸院にいた応用化学者のニコラ・クレマンとも親交を持っていた。

1824年火の動力、および、この動力を発生させるに適した機関についての考察以下、『火の動力』)』を出版。これは熱力学における画期的な論文であり、出版直後に技術者のジラールによりフランス学士院で紹介された。その場にはラプラスアンペール、ゲイ=リュサック、ポアソンなど、当時のフランスの科学者が多数出席していたとされるが、その場では全く反響を得られなかった。

1826年工兵隊に戻り大尉となるが、軍隊の生活を嫌い1828年に軍服を脱ぎ、熱機関と科学の研究を続けた。

1830年ランス7月革命が起こるとこれを歓迎、研究も一時中断したが政治には直接関わろうとはしなかった。カルノーと弟のイッポリート・カルノーのどちらかを貴族院に迎え入れる提案があったときも、世襲を嫌う亡き父の立場を尊重し、弟と共にこの提案を断っている。

7月革命後は再び科学に没頭し、気体の性質などに関する研究を行ったが、その途上の1832年6月、病に倒れ、同年8月24日、コレラにより36歳の生涯を終えた。死後、遺品はコレラの感染防止のためほとんどが焼却処分された。そのため、カルノーの経歴や人となりを伝えるものは、わずかに残された彼自身のノート(『数学、物理学その他についての覚書』、以下『覚書』)、そして弟のイッポリート・カルノーが著した伝記がほぼすべてである。

カルノーサイクルCarnot cycle)は、温度の異なる2つの熱源の間で動作する可逆熱サイクルの一種である。ニコラ・レオナール・サディ・カルノーが熱機関の研究のために思考実験として 1824 年に導入して以降しばらくは注目されなかったが、19 世紀後半にウィリアム・トムソンにより再発見された後に本格的な熱力学の起点となり、熱力学第二法則エントロピー等の重要な概念が導き出されることになった。

実際には実現不可能だが、限りなく近いものを作ることは可能であり、スターリングエンジンはこれに近い。

オーストリア・ウィーン出身の物理学者、哲学者でウィーン大学教授。統計力学の端緒を開いた功績のほか、電磁気学、熱力学、数学の研究で知られる。

1877年に発表した論文「熱平衡法則に関する力学的熱理論の第2主法則と確率計算の関係について(L. Boltzmann: Wien Ber. 76, 373, 1877年)」においてボルツマンの関係式S=log(w)kを導き、エントロピーと系のとりうる状態との関係を明らかにした。上式における比例定数kはボルツマン定数と呼ばれている。

エントロピーは「でたらめさの尺度」として解説されることが多いが、本来エントロピーとは、ルドルフ・クラウジウスによって、カルノーサイクルの性質を語る中でdS=dQ/Tという式の形で、dSとして発見された関数であった(dQ: 熱の微量変化、dS: エントロピーの微小変化、T: 温度)。そのエントロピーが、詰まるところ原子・分子などの「でたらめさ」の尺度であることを論証したのが、ボルツマンが導いたS=log(w)となる。

熱力学だけでなくベイズ統計の歴史にも絡んでくる話です。

10年に渡って新たなエビデンス追加もなくダラダラと続けられてきた「フランスのモリカケ事件ドレフェス事件1894年〜1906年)に終止符を打ったのもまた「科学の勝利確率学者ポアンカレが、裁判官が全員ベルトランの教科書でベイズの法則を学んだ軍学校出身者である事を逆手に取ってベイズの法則に従って論破)」でしたが、フランスのインテリ層はこの事実を隠蔽して自分達の手柄にしてしまいます。困ったのは後世の人間。再現を試みても絶対成功しない筈です。だって全部嘘と妄想の産物なんだから。

異端の統計学 ベイズ (The theory that would not die : how Bayes' rule cracked the enigma code, hunted down Russian submarines, and emerged triumphant from two centuries of controversy, 2013年)」

ラプラスの悪魔

教皇との和解を考えていたナポレオン皇帝は、1802年にマルメゾンにある皇后ジョセフィーヌのバラ園で開かれた園遊会で、ラプラスに神や天文学や天体を巡る有名な議論を吹っかけた。

それで、これらすべてを作ったのは誰なのだ?

と、ナポレオンが尋ねるとラプラスは落ち着いて天体系を構築して維持しているのは一連の自然な原因である、と答えた。

するとナポレオンは不満げに「ニュートンは著書の中で神に言及している。貴殿の著作を熟読してみたが、一度も神の名前が出ないのは何故だ?

これに対してラプラスは重々しく答えた。

私にはその様な仮説は必要ございませんので

ラプラスはかなり前から(牧師でもあったベイズとは異なり)原因の確率と宗教的な考察を切り離していた。「物理科学の真の目的は、第一原因すなわち神の探求ではなく、それらの現象が起こる際の法則の探求である」。自然現象を科学的に説明できればそれは文明の勝利といえるが、神学論争は決して答えが出ないという点で不毛なのだ。
*調べれば調べるほどピエール=シモン・ラプラス(Pierre-Simon Laplace, 1749年〜1827年)の「人間の認識可能範囲外で跋扈する絶対他者」への態度と、イマヌエル・カント(Immanuel Kant、1724年〜1804年)の「(人間の認識能力の集大成たる)物(独Ding、英Thing)の世界と(その外側に「原則として」人類に不可知な形で拡がる)物自体(独Ding an sich、英thing-in-itself)の世界」を峻別する態度の間に親近性を感じずにはいられない。要するに19世紀に入ってから個別に弾劾された「(神の如き超越的知性なら全ての事象が予測可能とした)ラプラスの悪魔」と「(人間は究極的には観測を通じて理論値に到達出来ないとした)ベイズの法則」は本来は表裏一体の思考様式で、それ自体は当時の先鋭的な有識者層の間で共有されていた理念だったのであろう。

 

そして中心極限定理

 フランスの政治が激しく揺れ動く最中、ラプラスはなおも研究を続け1810年中心極限定理を発見した。科学においても統計学においても空前絶後の発見といって良いこの定理によれば、幾つかの例外は別として、大量の類似項の平均は決まって釣鐘型の正規分布となる。使い勝手の良い釣鐘曲線が、突如として数学的実体のある構造物に化けたのである。ラプラスが考えていた原因の確率ベイズ推定)では、それまで項が二種類の問題しか扱えなかったが、中心極限定理が証明された事でほぼ全ての種類のデータが扱える様になったのだった。

中心極限定理は大量のデータの平均値を使う正当性を数学的に示す事でベイズの法則の未来に深く大きな影響を及ぼした。ベイズの法則の主だった創造者で擁護者であったにも関わらず、ラプラスは齢62歳にして劇的な方向転換に踏み切る。ベイズの法則への忠義を棄て、これまた自身が展開していた別アプローチ、すなわち頻度に基づくアプローチに乗り換えたのだ。1811年から息を引き取るまでの16年間、ラプラスはもっぱら頻度を使った(20世紀の理論家がベイズの法則を抹殺する為に駆使した)手法に頼る事になる。

ラプラスが路線を変更したのは、データ量が膨大であれば通常どちらのアプローチでもほぼ同じ結果が得られる事に気付いたからだ。それでもやはり原因の確率の方が便利で、特に曖昧な事例では頻度主義より強力だった。ところがラプラスの時代に科学が成熟した結果、1800年代の数学者達は以前よりはるかに確実なデータを手に入れる事になったのだった。信頼出来るデータを扱うのであれば頻度主義の方が楽である。そして数学者達は20世紀中旬まで同じ大量のデータを扱っても、この二つの手法で得られる結果がひどくズレる場合があるという事に気づかなかったのである

フランス軍部による理論採用

理論家の非難と実践家の有効利用の裂け目に向かって行進したのが、政治力ある数学者ジョセフ・ルイ・フランソワ・ベルトラン率いるフランス軍だった。ベルトランは、無数の不確定要素に取り組む砲術担当の佐官級将校の為にベイズの法則を仕立て直した。砲兵隊は敵の正確な位置や空気の密度や風の方向、さらには手作りの大砲に生じる誤差や射程や方向や発射物の初速といった不確定要素と向き合わねばならなかった。ベルトランは広く用いられたその教科書の中で、ラプラスが考案した原因の確率は、新しい観測結果にに基づいて仮説を検証する際に有効な唯一の手段だと論じた。ただしラプラスの信者達は道を見失っており、事前原因の確率を見境なく半々にするのはやめるべきだ、というのがベルトランの考え方だった。そしてそれを裏付ける為に近所の岩だらけの海岸で難破が起きる原因を突き止めるのに、海の潮の流れが原因である可能性と、それよりさらに危険な北西の風が原因である可能性が等しいとしたブルターニュの愚かな田舎者の話を引き合いに出した。ベルトランに言わせれば、事前確率を等しくするのは(極めて稀なケースだが)あらゆる仮説が実際に同じ様に起きやすいか、あるいはそれらの仮説が起きる可能性について何も分かっていない場合に限るべきだった。

砲術の将校達はベルトランの厳密な基準に従って、同一の工場、同じ条件の下でほぼ同じ職人が同じ材料を使って同じ手順で鋳造した大砲に限って等しい確率を割り振る様にした。こうしてフランスやロシアの砲術将校達は1880年から第二次世界大戦までの約60年、ベルトランの教科書を頼りに大砲を撃ち続けたのだった。

ドレフェス事件とベイズ推定

ベルトランによるベイズの法則の厳密化は、一八九四年から一九〇六年にかけてフランスを揺るがしたスキャンダル、ドレフュス事件にも影響を及ぼした。ユダヤ系フランス人で軍の将校だったアルフレッド・ドレフュスは、ドイツのスパイであるという不当な嫌疑により終身刑の判決を受けた。ドレフュスに不利な証拠はただひとつ、本人がドイツの大使館づき武官に送って金を得たとされる一通の手紙だけだった。警察に所属する犯罪学者で身体測定に基づく本人確認システムを発明していたアルフォンス・ベルティヨンは、確率の数学によると有罪の証拠とされる手紙をドレフュスが書いた可能性がもっとも高い、と繰り返し証言した。ベルティヨンがいう確率は数学的なたわごとでしかなく、その論旨も珍妙きわまりなかった。保守的な反共和派やローマ・カソリック教会や反ユダヤ主義者たちがドレフュスの有罪判決を支持するなか、ドレフュスの一族や教権に反対する人々やユダヤ人や左翼政治家や知識人によって、小説家エミール・ゾラをリーダーとするドレフュスの身の証しを立てるための運動が組織された。

ドレフュスの弁護士は一八九九年に開かれた軍事裁判に、フランスのもっとも有名な数学者で物理学者のアンリ・ポアンカレを招聘した。ポアンカレは一〇年以上にわたってソルボンヌ大学で確率を教えており、頻度に基づく統計を信じていた。ところがベルティヨンが証拠とする文書がドレフュスの手になるものなのかと問われたポアンカレは、ベイズの法則を持ち出した。法廷が新たな証拠に基づいてそれまでの仮説を更新したいのなら、この手法こそが良識ある方法であって、このような文書のねつ造に関する問題は、ベイズの法則に基づく仮説検定の典型的問題だというのである。ポアンカレはドレフュスの弁護士に皮肉の利いた短い手紙を託し、弁護士が法廷でこの手紙を読み上げた。ベルティヨンが「もっともわかりやすい点と述べているものは誤りであって……この途方もないまちがいゆえに、その後のすべてが疑わしくなる……なぜあなたがたが判断に悩むのか、わたしにはわからない。被告が有罪になるかどうかはわたしのあずかり知らぬところであるが、かりに有罪になるとすれば、その根拠はこの手紙とは別の証拠であるはずだ。このような論拠によって、しっかりした科学教育を受けてきた公正な人間を動かすことはできない」弁護士がここまで読み上げたところで──法廷の速記者によると──法廷は「長期にわたり大騒ぎ」になったという。ポアンカレの証言は起訴の根拠を木っ端みじんにした。裁判官は全員軍学校を出ており、ベルトランの教科書でベイズの法則を学んでいたのである。裁判官たちは妥協案として、ドレフュスはそれでも有罪だが、刑期は五年に短縮されるという評決を下した。ところが一般大衆は怒り狂い、二週間後には共和国大統領が恩赦を発令することになった。ドレフュス自身は昇進してレジヨン・ドヌール勲章を受け、政府の改革によって教会と国は厳密に分けられるようになった。ところがアメリカの法律学者の多くはドレフュスが確率論のおかげで解放されたことに気づかず、この裁判は数学が暴走した例であり、それゆえ刑事事件における確率論の応用は制限すべきだと考えた。

まさしく「どうふるまってよいかわからない時、どうふるまうべきか知っている」事を成熟の条件とする世界観につながってくる話ですね。