諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【魔女狩り】「壊れたノブレス・オブリージュ」に突き動かされ続けるモンスタークレーマー達の行列?

ウルトラ・フェミニストの類のクレームが、なまじ反応すると際限なく増加しつつどんどん理不尽な内容へと変貌していくの、何かのシステムの暴走としか思えません。

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こういう時しばしば「魔女狩り」が引き合いに出されますが、そういえば実は「魔女狩り(特に後期)」は「主権国家体制 (羅: civitas sui iurisの権威が、末端のそれまで中央集権と無縁のまま中世的自助主義の世界を生きてきた伝統的集落にまで浸透していくプロセスの一部が可視化されたものすなわち全体像としては暴走ではなく正常動作の成功)」に過ぎないとする説もあるのです。

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 魔女狩り (岩波新書) 新書 – 1970/6/20

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魔女狩りは、“魔女狩りの手引書”といわれる『魔女の槌』が著わされた1480年代に始まり、その後一時停滞し、1580年代に再び、魔女についての新しい文献が出て再燃し、今度は大きな被害をもたらしたという。これを一続きの流れとして見がちである。しかし、実際には二つの大きな波としてみることができる。宗教裁判所が先頭に立って行ない、犠牲者は限られていた1480~1520年と、世俗裁判所(領主・国王)が行ない、被害は大きかった1580~1670年とである。仮に前者を前期魔女狩り、後者を後期魔女狩りとする。

  • 前期魔女狩り1480年〜1520年カソリック圏において、貨幣経済浸透による農村の共同体的風習の破壊と軸を同じくして進行。貨幣は余所者と一緒に流入してくるので次第に隣人が信用出来なくなっていき、疑心暗鬼が募った結果起こったヒステリーとも。
    *ちなみに伝統的な狼男のイメージもこの時期を境に「森の奥を彷徨う共同体からの追放者(そうした人物との邂逅そのものが物語の主題)」から「集落に人間として紛れ込んで隙あらば隣人を餌食にしようとする物騒な災厄(必ず未然に発見され、撃退される)」へと変貌。興味深いのは第二次ウィーン包囲(1683年)以降反撃に転じた神聖ローマ帝国オスマン帝国から回復したトランシルバニア地方などの東欧にはこうした伝承が古形のまま残っており、それが欧州に改めて流入して両者が混じり合う形で近代吸血鬼譚の原型が形成されたという事。

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  • 後期魔女狩り1580年~1670年…その主舞台はプロテスタント圏、例えば薔薇戦争1455年〜1485年/1487年)によって大貴族連合が崩壊し「絶対王政テューダー朝1485年〜1603年)が成立し、その絶対王政性をステュアート朝スコットランド王統1371年〜1714年、イングランド王統1603年〜1707年、グレートブリテン王統1707年〜1714年)が継承しようとして清教徒革命1638年〜1660年)や名誉革命1688年〜1689年)が引き起こされたイングランドなどであった。
    *はからずしもチューダー朝時代に「王国の藩屏」として抜擢されたジェントリー階層が地方巡回判事や中央政界の廷臣として地歩を固めていった時期に該当。おそらくこれらの地域において「農村に浸透して共同体的風習を破壊した」主体は貨幣経済というより国家権力に裏打ちされたコモンローだったのだろう。

①ちなみにエクソシストExorcist、退魔師)が行う悪魔祓いの儀式をローマ教会は「カソリックの権威を高める為のデモンストレーション」、英国政府は「宗教的因習に拘束された被害者の精神的解放の扶助行為」と規定しているとか。あるいはこの違い、そのまま「前期魔女狩り」と「後期魔女狩り」の性質の違いに重なってきそうな気がする。また前者が均衡と調和を求めるのに対して、後者が自由と解放を求めるといった比較も可能かも。

②そういえば「イングランド王室の藩屏」たるジェントリー階層はローマ教会の神学の影響から逃れる為に大学においてギリシャ・ローマ文学を基礎教養として叩き込まれる模様。ゲーテバイロン卿はその作中においてギリシャを含むオスマン帝国支配下の「未回収の欧州」)を吸血鬼の故郷としたが、これも(ロマン主義的世界観と表裏一体の関係にある)古典主義的想像力のなせる技?
*ただしポリドリ「吸血鬼(The Vampire、1818年)」流行に便乗した演劇では舞台をスコットランドに移す事が多かった。そういえば森の精霊に変貌した娘の死霊が青年を道連れにしようとする筋書きはゴーチェ脚本のロマンティック・バレエ「ジゼル(Giselle、1841年)」と同じの「ラ・シルフィード (仏: La Sylphide、1832年)」も舞台はスコットランド。一方「三大バレエブラン(Ballet Blanc=白のバレエ)」の掉尾を飾るチャイコフスキーの「白鳥の湖(Swan Lake 1877年)」の舞台は「ジゼル」同様ドイツの山奥。チャイコフスキーワーグナーの大ファンでもあったので、白鳥の姿をした娘の死霊達は指輪4部作のワルキューレに重ねられているとも。「崖の上のポニョ(2008年)」同様、自意識を覚醒させたヒロイン以外は誰かへの隷属を続ける設定です。「究極の自由は専制の徹底によってのみ完成する」ルールがここでも?

③また、後期魔女狩りの激化した時期が(地方判事として伝統的集落への法的介入を望む)ジェントリー階層の躍進期だった点に注目する向きもある。要するに魔女狩りが過熱すると伝統的集落内だけでは問題が処理し切れなくなり、外部の法的裁定を仰がざるを得なくなる。そして一度でもそれを仰いだら、以降その集落は何でもその裁定に従わねばならなくなり中央集権化が達成される。実は日本の武家の支配範囲拡大も、この種の民事介入(特に集落内における旧勢力と新勢力の衝突の調停)を契機とする事が多かったという。

イギリスにおいてジェントリが「ジェントルマン」として社会的尊厳を保ち続けていたことはよく知られているが、これは彼らが広大な土地を所有する地主(不労所得)として単に贅沢を楽しみ収奪する存在だけではなく、(少なくとも建前の上では)地域社会に奉仕する名士として振るまい、かつそれを周囲に示し続けることで、彼らの支配こそが最上の者による支配なのだという印象を終始維持し続けられたためである。それは、戦争があれば自ら率先して戦場に赴くことであったり、治安判事などの官職を無給で引き受けて地域の治安維持や収税に努めることであったり、慈善事業に積極的に取り組んで地域社会に貢献することであった。これらの行いはノブレス・オブリージュ仏: noblesse oblige ― 高貴なる者の義務)」と呼ばれ、商業的に成功した新興の富裕者(成り上がり者)と異なり、ジェントリは自己の利益だけを顧みない(実際には無給の官職は不労所得者(つまり上流階級)以外の政治参加への道を閉ざしていたことはさておき)名士的な存在であるとの印象を周囲に与えた。

16世紀になると社会の発展や変化に伴って、中間層(ミドリング・ソートと呼ばれる人々)の勃興が始まるが、商業的に成功して莫大な富を手に入れた彼らは、その成功に見合った名誉と尊敬を求め始めるようになる。彼らに地主貴族層への仲間入りの機会を提供したのは、ヘンリー8世による宗教改革であった。宗教改革によってカトリック修道院は解散させられ、その領地は王領地へと編入されたが、その土地は後に行政機構改革(政府債務削減)の財源とするために売却されることとなった。この旧修道院領を買い取り、自身の所領とすることで、成功した中間層は念願のジェントリとなることができたのである。こうして「ビジネス」で成功した人物(中流階級)が、成功の仕上げとして土地を買い取りジェントリ(上流階級)になるという道筋は定着していった。時代を経て、立身出世の手段が金融や交易から海外植民地との貿易や植民地経営に変わっても、この道筋は変わらず続いた。このように、成功した人間(新興勢力)を既存体制への挑戦者ではなく、ジェントリという体制側に取り込むことによって、イギリスは硬直化していた階級社会に一定の流動性をもたらすことに成功し、同時に既存の地主支配体制をより磐石なものとすることに成功した。

ある意味、こうした伝統的システムの崩壊がモンスター・クレーマーの大量登場を生んだとも。こうした人々の最大の皮肉は、ここまで既存の「誰彼問わず服従を誓わせ、利権引き出そうとする既得権益の走狗」の振舞いを踏襲しつつ、それでもなお自らを「既存権威から人々を救出する自由の戦士」と自認してる辺りで、流石にこの部分は脳が致命的にバグってるとしか言い様がありません。

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  • こういう話は元来「究極の自由は(他者に対する)専制の徹底によってのみ達成される」絶対君主のジレンマとして語られるべきなのである。

    例えばフランス王室とオーストリア王室の「外交革命」は、フランス国王による(東欧各所でオーストリア王室への抵抗を続ける)バートリ家への突然の支援打ち切りを伴った。追い詰められたバートリ家は以降「仇敵オスマン帝国に援助を仰がざるを得なくなる。もちろん日本人の大半はそんな歴史など知らないが、彼らの印象を悪くする為に伝統的に用いられてきたネガティブ・キャンペーン自体は届いている。そう串刺し公Vlad Țepeș / トルコ語: Kazıklı Bey)やドラキュラ公Vlad Drăculea)といった異名でも知られるワラキア公ヴラド3世Vlad III , 1431年~1476年)や「血の侯爵夫人エリザベート・バートリ(マジャル語:Ecsedi Báthory Erzsébet、ドイツ語:Elisabeth Báthory von Ecsed、スロバキア語:Alžbeta Bátoriová-Nádašdy、英語: Elizabeth Báthory de Ecsed、1560年~1614年)の悪行三昧…まさに宗教戦争も煽ったルネサンス期における出版革命の暗黒面…

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    そもそもフランス国王はカール大帝を追い詰める為にオスマン帝国のスレイマン大帝と結んだ事もある程で歴史的に完全に節操が欠如しているが、それについての批判を圧倒的権威性によって自然と抑え込んできた歴史が、冒頭に掲げた「究極の自由は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマには内包されている訳である。

  • どうしても発言が慎重にならざるを得ないのは、ここでいう絶対君主に「お前が欲しいのはこれだろ?」と独善的に決めつけてディズニーランドを提供したウォルト・ディズニーや、iPoneを提供したスティーブ・ジョブズも含めねばならないから。こういう天才性も備えてこその「何をやっても許される絶対君主」だという側面も決して忘れてはならないのである。

  • 東洋の逸話はこうした「肯定的要素」に乏しい。「まず鳥獣を鳴鏑で射た。続けて矢を射なかった者は斬首とされた。次に自分の愛馬を鳴鏑で射た。続けて矢を射なかった者は斬首とされた。次に自分の愛妻を鳴鏑で射た。彼に続けて矢を射なかった者は斬首とされた。そして父を鳴鏑で射た時、従わない部下は誰一人いなかった」の名調子で有名な「匈奴帝国の創健者冒頓単于についてのエピソードでも絶対に他人が信じられない悲壮さのみが漂う。
  • それが「一人一派」「一言一派」とエスカレートし「どんな矛盾した発言をしても相手は一切批判せず盲目的に受け入れねばならない自由」まで他人に強要してくる様になったら、もはやその人物は単なる絶対君主の枠など軽く超えて史記の「指鹿為馬」の域に入ったとしか言い様がない。

    もっとも海外のリベラル層はこんな程度のルビコン川など、とっくに渡ってしまっている。最後に如何なる境地に辿り着くか皆目見当もつかない。

イザベラ・バード朝鮮紀行Korea and Her Neighbours, 1894年~1897年)」における閔妃1851年~1895年)評を思い出します。「人柄などは至って普通なのですが、とにかく国家や臣民が好きに使ってよい小遣の無限供給源といった抽象的イメージとしてしか思い浮かべられないのです」。ほとんどカスパー・ハウザーKaspar Hauser、1812年1833年)そのもの。誤殺も恐れず「政敵」退院君側と推察される人間なら容赦なく粛清し続け、その後釜には身内を登用し続け、その間の散財で国庫を破綻させた妖女の正体なんて案外そんなものだったのです。そもそも彼女は徹底的に搾取され続ける臣民や、身内を殺された臣下を同じ人間かもしれないという基本的事実が想定外だったので、その恨みの鬱積が感じられなかったと推察されます…