諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【学園物の起源】自由連想の果てに想像以上のパラダイムシフトに到達…

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 出発点はこの辺りでした。

とっさに連想したのが、ジュリア・ロバーツ主演映画「モナリザ・スマイルMona Lisa Smile, 2003年)」に克明に描かれた1950年代米国女子大生を囲む閉塞感…

1953年、ニューイングランド地方の名門女子大に若い女性教師キャサリン
美術史の助教授としてこの大学に赴任してくる…
優秀だがとても保守的な考えを持っている校風に新風を吹き込もうと
意気込んで来たものの…
学生にとって重要なものは教育よりもエリートの恋人からもらう婚約指輪だった…
そして…彼女は初めての授業に出るが…
直ぐに女生徒たちの嫌味な言動に振り回されてしまう…
それでも、彼女は生徒や学校関係者との摩擦を繰り返しながら女性の自立とか自由な精神等を生徒に教え続け少しずつ大学に変化をもたらしていくのです。

次に連想したのがスティーヴン・スピルバーグ監督映画「アミスタッドAmistad, 1997年)」の撮影エピソード。

  • この映画に登場する黒人奴隷の多くは無名俳優であったが、奴隷船の場面で実物と同じ重さの鎖に繋がれると、そのあまりの重さに意気消沈してしまった。
  • するとスピルバーグ監督はこういった内容の演説をぶちかましたという。「いいかい、よく聞いて。その鎖の重さは、奴隷商人の奴隷に対する恐怖の反映だ。実際、彼らの予感は当たり、君達は反逆を起こして彼らを殺し、しかも後の裁判で正当防衛を勝ち取る。今君達が表現すべきは、その鎖の重さにも打ちひしがれない奴隷商人の恐怖の対象なんだぜ
  • 熱狂は、狂気は伝染する。たちまち黒人俳優達の目に次々とルサンチマンの炎が宿り始めるのを目にして、スピルバーグ監督は満足げにこう呟いたという。「OK, その目が欲しかった。では撮影に入ろうか。

監督当人もウクライナユダヤ人出身で、米国に「移民」するまで先祖が辛酸を舐めてきた経験があったからこその煽りとも思えます。そういえばドリフターズ(The Drifters. 1953年~)に「ラストダンスは私に(Save the last dance for me,  1960年)」を楽曲として提供したのもまた「黒人の非業に自らのそれを重ねたユダヤ」だったのでした。

越路吹雪バージョン(1961年)の登場により、戦前ばかりか戦後も妖しい活躍を続けた伝説の名プロデューサー秦豊吉1892年~1858年)の名前が浮上してきます。何となくイメージ的には、こういうタイプの人が宝塚を退団した「越路吹雪の付人兼マネージャー兼作詞家兼翻訳家」の岩谷時子の男歌から女歌へ変換を「面白いじゃないか。やってみろ」と承認した感じ…

で、岩谷時子の名前が登場した時点で、同じく彼女が歌詞の翻訳を手掛けた1960年代のヒット曲フランス・ギャル(france gall)の「夢見るシャンソン人形(Poupée de cire, poupée de son, 1965年)」経由で安野モヨコの漫画「シュガシュガルーン(2003年~2007年)」アニメ版(2005年~2006年)主題歌「ショコラに夢中」へと継承されていった何かに接続。

今聞き返すと、ハイハットとギロが醸し出す意外なまでのパッカラ感…

もしかしたら大瀧詠一さらばシベリア鉄道(1986年)」小泉今日子木枯らしに吹かれ(1986年)」辺りのパッカラ感の大源流にはこういう少女ハードボイルド的荒涼な風景が広がっていたりする?

こういうのも2000年代に入ると日本人の感じる「フレンチ・シャンソン」みたいなテイストに合流していく訳ですが、実はこうした楽曲を提供したセルジュ・ゲンスブールってロシアのウクライナ出身で、同アルバム収録で同じくフランス・ギャル(france gall)が歌った「Laisse Tomber Les Filles(1964年)」こそが「ドリフのズンドコ節(1969年)」だったりして、当時のフランス人も彼の曲にエスニックさを感じていた疑惑が…

【新年からしょうもない話で】ズンドコ節をめぐるグローバルな冒険【すみません】

で、現代フランス人がこの辺りの曲をcoverすると突如アレンジがAcostic Funk Guiter調に…なるほど、こういう化学変化の系譜もあるのか。

Eurasian Funkの系譜に思わぬ操作変数を発見した形…

それでも、いやだからむしろ、こうした潜在需要をこんな格好いい形でまとめ上げたNile Rogers率いるSickAcostic Funk音楽史に確固とした足跡を残したわけだけど、だからこそ欧州勢はますます追い詰められてこうした無謀な賭けにに打って出ざるを得なくなったとも。

グッカステンの「鏡」に日本語バージョンなんてあったんだ!!

裸の君の視線 裸の僕を眺める
하다카노 키미노 시센 하다카노 보쿠오 나가메루
벌거벗은 너의 시선은 벌거벗은 내 몸을 보고

触れ合えば儚く冷たい キスをして 巧みに操る
후레아에바 하카나쿠 츠메타이 키스오 시테 타쿠미니 아야츠루
맞닿으면 덧없이 차가운 키스를 하고 교묘하게 조종하네

消せない君の香り 揺れてる僕の足取り
케세나이 키미노 카오리 유레테루 보쿠노 아시도리
지울 수 없는 너의 향기 흔들리는 나의 발걸음

ふらついて委ねた先には 惨めにも君だけ探してる
후라츠이테 유다네타 사키니와 미지메니모 키미다케 사가시테루
비틀거리며 맡겼던 곳엔 비참하게도 너만을 찾고 있네

 

静かに耳を塞ぎ 目を閉じて踊る君
시즈카니 미미오 후사기 메오 토지테 오도루 키미
조용히 귀를 막고서 눈을 감으며 춤을 추는 너

背後に僕を置き 鏡を見て踊る君
하이고니 보쿠오 오키 카가미오 미테 오도루 키미
등 뒤에 나를 놓은 채 거울을 보며 춤을 추는 너

荒く手を出して 僕を誘い笑った君
아라쿠 테오 다시테 보쿠오 사소이 와랏-타 키미
거칠게 손을 내밀며 같이 하자며 웃은 너는

心蝕んでく鏡の中 自分を探す
코코로 무시반데쿠 카가미노 나카 지분오 사가스
마음을 좀먹어 가는 거울 속에서 나를 찾고 있네

 

目を閉じて踊るね 耳塞ぎ踊るね
메오 토지테 오도루네 미미 후사기 오도루네
눈을 감고서 춤을 추네 귀를 막고서 춤을 추네

目を閉じて踊るね 耳塞ぎ踊るね
메오 토지테 오도루네 미미 후사기 오도루네
눈을 감고서 춤을 추네 귀를 막고서 춤을 추네

 

静かに耳を塞ぎ 目を閉じて踊る君
시즈카니 미미오 후사기 메오 토지테 오도루 키미
조용히 귀를 막고서 눈을 감으며 춤을 추는 너

背後に僕を置き 鏡を見て踊る君
하이고니 보쿠오 오키 카가미오 미테 오도루 키미
등 뒤에 나를 놓은 채 거울을 보며 춤을 추는 너

荒く手を出して 僕を誘い笑った君
아라쿠 테오 다시테 보쿠오 사소이 와랏-타 키미
거칠게 손을 내밀며 같이 하자며 웃은 너는

心蝕んでく鏡の中 自分を探す
코코로 무시반데쿠 카가미노 나카 지분오 사가스
마음을 좀먹어 가는 거울 속에서 나를 찾고 있네

まぁ、こういう図式の中に「人間椅子の国際評価」も収まってくるという話。

 1960年代における「男歌と女歌の往復」というと、当然さらに「朝日のあたる家(The House of the Rising Sun)」についても触れなくてはいけませんが、もう十分複雑な話に足を踏み入れているので別途投稿で。

その一方で「ラストダンスは私に」には、美空ひばりバージョン(1982年)なんてのもあるのか。何この中島みゆき感…

それまであまり中島みゆきをブルーズ歌手として意識した事はなかったけど、以下がブルーズでないなら、何がブルーズなのか?

ところで、私の記憶の中ではさらに「越路吹雪版ラストダンスは私に(1961年)」とヘレン笹野「心細いな(1982年)」が20余年の歳月を超越して地続きとなっていたりします。

 

①「謎外国人」が歌ってる事により1960年代に多かった(流行歌独占を目論む映画版権部を欺く技法の一つとしての)似非洋楽を連想する。当時は子供番組主題歌も「抜け穴」の一つだった…

②そして「ラストダンスは私に」同様の「男歌・女歌」往復可能性…ただしそのポテンシャルは最初期、すなわちラムちゃんがあくまでゲストで、あたるとしのぶが主人公カップルだった状況下(美女が現れたらあたるが目移りし、美男が現れるとしのぶが目移りする)のみにしか存在しない。

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それでは、その状況を乗っ取って、あたかもこの歌の正しい歌い手に収まったかの様に見えるラムちゃんとは、一体何者だったのか? 富野由悠季監督は「僕が機動戦士ガンダム(MOBILE SUIT GUNDAM, 1979年)を製作するまで、日本のエンターテイメント界には(人間と人間が戦うという発想がなく)常に人間と宇宙人が戦っていた」と断言しています。そして「うる星やつら」連載開始は1978年からで、彼女は最初から「インベーダー(Invader=侵略者)」を自称してるんです。何、この構図…
*「うる星やつら」挿入歌「星空サイクリング」についても思うところは多い…

  • どう関係してくるのか分かりませんが、1978年といえばテーブルゲームSpace Invadersがリリースされた年でした。当時はまだゲーム・センターなど存在せず「ゲーム喫茶」に百円玉を積み上げて黙々とPlayする姿が…

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  • そして「男女カップルに無理やり侵入者が混ざってくる」タイプの物語文法というと岩明均の漫画「寄生獣(Parasyte, 1988年~1995年)」。,ただしこの物語におけるインベーダー(侵略者)ミギーは、最終的に二人を残し「永久の眠り」に就いてFade outする道を選びます。

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  • さらに再現度が高いのがマーベル・ユニバースの異端児「ヴェノムVenom, 2018年)」とも。なにしろ原作ではラムちゃんが「駄目人間あたるの恋人」のPositionを独占する一方、しのぶには補償として「遥かにマシな恋人」が与えられますが、この構図自体までちゃんとなぞってる訳ですから。

 で、早速映画「ヴェノム(Venom. 2018年)」を見返した所、想像以上に様々な示唆を得る展開に。20世紀と21世紀ではまるで意味が変わってしまった「ダーリン、うちと一生添い遂げるっちゃ!!」なる叫びの意味の変遷とは? とりあえず以下続報(本人も混乱しており、総括に相応の時間が必要な模様)…