諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】岩波新書「日本思想史」が好評らしい?

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久々に骨太の日本論がやってきた?

第一章 日本思想史をどう捉えるか」において、方法論を示している。王権と神仏がキーワードだ。王権は国家統治に関する政治的な機能を有し、世俗的な権力を表わす()。これに対して、神仏は世俗を超えたところから世俗に影響を与える宗教的な要素である()。この二つの両極の緊張関係のもとに、文化や生活が営まれるという構造だ。これを大伝統と呼ぶ。これは古代から江戸時代まで続く。

中伝統は明治以後、第二次世界大戦敗戦までの構造だ。二つの極がそれぞれ重層構造を持つという複雑な構造が崩壊し、天皇を頂点とする一元的な構造となる。4つの領域があり、世俗的な「」の頂点には立憲国家であることを示す近代的言説があり、その下に教育勅語など儒教的な道徳倫理がある。神仏の「」の頂点には天皇の祖先を祀る国家神道があり、一般国民は仏教式で祖先を祀る。

第二次大戦敗戦により、中伝統は崩壊し、小伝統が形成される。王権=天皇は象徴となり、神仏の要素はなくなる。アメリカに依存する半独立状態だが、タテマエとしての戦後民主主義が進展するが、小伝統が解体する中で、今日の脱近代の思想崩壊状況に至っている、という見立てだ。 

日本に思想がないのは奈良時代南都六宗時代にまで遡る」なんて話もありました。なお、平安時代以降の密教ブームや浄土思想ブームを生き延びて現存するのは「(藤原氏の手厚い庇護を受けた)法相宗」「(東大寺を拠点とする)華厳宗」「(鎌倉時代の仏教ルネサンスに本気で身を投じた)律宗」のみだったとも…

アイディア(Idea)」はその大源流が古代ギリシャ哲学者プラトンが提唱したイデアにまで遡る別筋の骨太な考え方(Thought)なので、日本人振り回すには重過ぎます。どちらかというと日本人の価値判断基準は「これについてはこう考えよう」的な概念(Concept)の影響力が賛同者規模の増減によって大胆に入れ替わる空気社会(Atmosphere Set)中心だった印象がありますね。「周易」第49卦曰く「大人虎変、君子豹変、小人革面、過則勿憚改あやまてば、すなわち、あらたむるにはばかるなかれ)」。だいたいそんな感じ?

そもそも「アソシエーション(Association)」なる用語の採択そのものに「浮浪小作人(サン=キュロット)が急増したフランス革命前夜より19世紀後半の産業革命本格導入期にかけて貨幣経済浸透同様に不可逆的な形で進んだ伝統的共同体の崩壊」を目の当たりにして絶望し、米国開拓地(トクヴィル)やシベリア辺境(クロポトキン)の相互扶助精神をモデルとする共同体概念の再建を目指したフランス社会学の「アサンシオン(Ascension)」概念の影響を観てしまうのは穿ち過ぎ?

ちなみに「個人と環境が互いに行使し合う相互影響」に拘泥してきたドイツ社会学とフランス社会学の相互影響範囲もまた微妙。「革命は輸入は出来るが輸出は出来ない(たとえ一見輸出に成功した様に見えても、いや成功してる様に見えれば見えるほど必ずその内容が大胆なまでに換骨奪胎されている)」の世界?

鈴木大拙先生を筆頭に、日本人哲学者は「主客問題」に煩いから…まぁその揺るぎない態度ゆえに(親と世代との対立に悩みジャック・ケルアック「路上」やアレン・ギンズバーグ「吠える」らビート・ゼネレーション作家に熱狂した1950年代の若者達のコミュニティを嚆矢とする)最初期のヒッピー文化形成に相応の影響を与えた訳ですが、如何せん興味本位だったのであまり長続きはしなかった模様。

主体は英語だとagentやactor」と聞いて思い出すのが「権力絶頂期のスターリンが、映画監督エイゼンシュテイン(自らを重ねる)絶対君主イヴァン雷帝を、能や歌舞伎や人形浄瑠璃の演出で「神の意思に弄ばれてしまった人形」として描かせようとした」エピソード。

ここでまさかの「人形振り」…絶対権力者スターリンの自己認識は「八百屋お七」だったという驚愕の事実…果たして「主体の自由」の本質とは一体何なのか?

 

オチはまさかの日本「沼地」論…

「この国は沼地だ。やがてお前にもわかるだろうな。この国は考えていたより、もっと怖ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」

中略

「そうではない。この国の者たちがあの頃信じたものは我々の神ではない。彼等の神々だった。それを私たちは長い長い間知らず、日本人が基督教徒になったと思いこんでいた。… [中略]… デウスと大日とを混同した日本人はその時から我々の神を彼等流に屈折させ変化させ、そして別のものを作りあげはじめたのだ」

 そういえば過去にはこんな投稿も。

」に殉ずるか、思想的自由を貫くべきか? 今日においてはまさにこの問題こそがエリート=インテリ=ブルジョワ階層に課せられた課題なのかもしれません。

 思えば遠くにきたもんだ…