諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】「数理三昧の境地」について。

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ふと「数理三昧」なる言葉を思いつきました。以下のサイトの考え方によれば「我が振る舞いは全て数理の内にあり(All I do is in mathematical thing.)なる境地」とでも表現される様です。ちなみに詩人北原白秋1885年〜1942年)によれば「三昧の境地」とは「すべてを忘れ一心不乱に遊ぶ童心」を指す様です。

ふと論語における「従心(じゅうしん)」なる言葉を思い出してしまいました。

論語』為政篇

十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順したがう。七十にして心の欲するところに従えども、矩(のり)をこえず。

現代語訳

15歳の時に学問を志し、30歳になると自分で立つことができるようになった。40歳では己れの人生に迷いがなくなり、50歳で自分の天命が何かということを知った。60歳になると人の意見に耳を傾けることができるようになり、70歳になると自分の心のままに行動しても規範からはずれるということがなくなった

解題

これは74歳で亡くなった孔子が晩年に自分の人生を振り返って弟子たちに述べた感慨です。やがて人が生きる節目の指針となり、さらにはここで使われた言葉が節目の年齢を意味するようになりました。ところで上記の文章には著名な「不惑(ふわく)」以外にも年齢を表す言葉が出てきます。

  • 15歳は「志学(しがく)」
  • 30歳は「而立(じりつ)」
  • 40歳は「不惑(ふわく)」
  • 50歳は「知命(ちめい)」
  • 60歳は「耳順(じじゅん)」
  • 70歳は「従心(じゅうしん)」

日本では「不惑」以外ほとんど使いませんが、中国では書き言葉として「而立」「不惑」「知命」「耳順」はそれぞれ、30歳40歳50歳60歳の意味で使われています。「志学」と「従心」は辞書にも出てきませんので使われないのだろうと思います。

何となく自明的場合として「我が振る舞いは全て数理の内にあり(All I do is in mathematical thing.)」=「己の心の欲するところに従えども、数理を超えず」と対応付けられそうな気もしてきますが、まさにここにこそある種の恐るべき罠が潜んでいるのです。

数理三昧」の暫定定義

まずはその検討(Testing)時点で反証可能性(Falsifiability)を黙殺意識する必要がないと想定される自明の場合(Trival Case)の範囲を抽出する。仮にこれを「既知空間(Known Set)」と呼ぶ事にする。

さらにこの範囲内から無矛盾の閉じた系(Closed System)を構築し、意味論的統制(Semantic Control)的に保持不可能な部分はとりあえず一時的に黙殺する。仮にこの範囲を「それぞれの数理世界(Each Mathematical Things Set)」と呼ぶ事にする。数理三昧すなわち「我が振る舞いは全て数理の内にあり(All I do is in mathematical thing.)の境地」はこの範囲内においてのみ成立してよい。

もちろん「既知空間」や「それぞれの数理世界」において反証可能性意味論的統制に基づく「見直し(Review)」が成立したら、その都度上掲の「①自明な数理のみを抽出し、②それだけを材料に閉じた系を構築し、③意味論的統制により全体構成を整える」プロセスはやり直しとあいなる。こうして全体像を俯瞰すると「意味論的統制によってそれぞれの数理世界から黙殺される展開を迎えた要素」の少なくとも一部は「復活の時」に備え一時的待避領域(Temporary Evacuation Set)に逃されるだけなのである。

反証可能性(falsifiability) - Wikipedia

科学的理論は自らが誤っていることを確認するテストを考案し、実行することができる」という科学哲学の用語であり「誤りをチェックできるということ」を重視する。「テスト可能性」「批判可能性」ともいい、方法論的には「トライアル&エラー=試行錯誤」とも呼ばれる。

科学哲学者カール・ポパー(Sir Karl Raimund Popper, 1902年~1994年)はこれを科学的基本条件と見做し「科学」と「非科学」を分類する基準とした。彼自身の説明では反証可能性は「ある言明が観察や実験の結果によって否定あるいは反駁される可能性をもつこと」を意味する。

何となくでも数理世界(Mathematical Things Set)における「意味論的統制(Semantic Control)の概念の片鱗くらいは掴めたでしょうか?

要するに「オブジェクト指向プログラミングにおいて、参照数が0となったオブジェクトはメモリー上から自動的に削除される」みたいな考え方ですね。とりあえず最初の出発点はこれなのです。

Mokusatsu. 黙殺。That’s this? Not English for sure.urashimamaeda.wordpress.com

柔道」や「寿司」と違ってこの日本語がアメリカに入った経緯はかなりユニークである。言語学者アメリカの日本に対する政治的な分析を試みて、この言葉が当時の日本になければ広島、長崎の上空で原子爆弾は破裂しなかっただろうと指摘したからと言うのである。彼らの英語話者向けの分析を見てみよう。

  1. to ignore
  2. to refrain from comment

1は「無視する」、2は「コメントはしない」。要は「だんまりを決め込むこと」をその意味に当てている。

 

 発音mokusatsu[モクサツ]

 例文

  A: “I don’t want to hear about it.”(その話は聞きたくない)

  B: “Me, too.”(私もだ)

 注釈

  “Hear no evil, see no evil, speak no evil and do no evil” is our philosophy.
  (我々にだって「見猿、聞か猿、言わ猿」を通す事がありますね)

  Think about this again.

  (再考すべきかもしれません)

 

こういう展開を生んだ日本と米国の言語文化ギャップには、傾注し続けざるを得ないのです。

確かに東洋では「黙殺された事を黙って容認する」のは面子に関わってくる問題とされ、その状態の放置は「全面服従の容認」に直結するイメージが存在します。一方、少なくともそれぞれの(個人が内在する)数理世界においては、それぞれがそれぞれなりの形でこの試練を乗り切り、新たな意味論的統制に基く全体構造の再調整を遂行する事が期待されているのです。

*そういえば意味論的統制(Semantic Control)概念の起源たるセマンティック社、いつの間にか商品およびマスコット・キャラだったノートン先生に逆に食われて消滅してました。これが世間の道理?

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こうした観点に立てば(例によって例の如く既に中国本土で滅び、日本にのみ生き延びる事となった伝統的価値間としての)「従心(じゅうしん)=七十にして心の欲するところに従えども、矩(のり)をこえず概念(Concept)の危うさも自然に浮かび上がってきますね。

実際には「 わしは、今でこそ先生、先生、などといわれているが、十四までは勉強が好きじゃなかった。二十九までは独立できなかった。三十九までは迷うことばかり、 四十九まで天命なんか知らんかった。五十九まで人の言うことに、聞く耳持たなかった。六十九まで、やりたい放題やって、失敗することが多かった。まあ、そんなもんだよ、人生なんてもんは。」と言うような場面が、お酒を飲みながらあったのではないでしょうか。イヤ、そうあって欲しい。

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  • 従心概念そのものには「それぞれの数理世界がそれぞれなりの形で定期的に迫られる(OSバージョンアップの如き)依るべき信念世界(Belief Set)の定期更新」が欠落している。そして「過去正しかったものが、今も未来も正しくあり続ける」なる伝統的価値感への固執は、その人物/概念を急速に「我々に認識可能な領域の外側を跋扈する絶対他者」の領域へと追いやる事になるが、その当事者が年相応に権力を振るう立場にあると多くの人間が巻き添えとなって生贄に捧げられる事になる。

  • また真逆に「心の欲するところに従う限り、矩(のり)を超えた事にならず」という唯我独創方向に考えが進んで「数理三昧の世界」に完全に背を向けるなら、たちまち「究極の自由主義専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマが起動。やはり中華王朝史に数多く記録されている老暴君誕生と相成ってしまう。

とりあえず全体を俯瞰すると「数理三昧の境地」から離れれば離れるほど人間は不幸になると考えて大丈夫っぽい? 随分オタク臭い結論で、案外「主人の主観を自らの主観として完全受容し、その股肱の役悪に徹する」任侠の世界っぽい。そういえば欧州中世の大学生概念とも重なってくる? さらなる古層には「吟遊詩人=好き勝手、歌って踊るだけで暮らしていく決意を固めたキリギリスの世界」なる概念も。ああ「数理博徒」なる新概念の爆誕かよ…

こうして思わぬ方向に視界が開けた時点で以下続報…