最近、こんな投稿をしたんですが…
高橋留美子「うる星やつら」初期作品を読み返してしみじみと思った事。おそらく当初のコンセプトだった「諸星あたるが毎回別の災厄に遭遇するハプニング物(比較的事件の規模が小さい)」のままでも、それに少し手を加えた「悲観的ガイア理論のパロディ物(比較的事件の規模が小さい)」でも連載を1970年代末まで続けるのすら難しかった。
そもそも作品のクオリティ云々以前に、1970年代を席巻したむやみやたらとパニックを煽る「児童向け怪奇百科事典」的世界観が急速に収束しつつあったのである。一方同時に(月刊ムー刊行などにより)次なる到達地点として浮かび上がってきた、より高度な「怪奇/オカルト/超能力/UFO/時空間ミステリー」の市場キャパシティは遥かに小さい(「レッド・オーシャン=市場規模は大きいが、ライバルも多い状態」「ホワイト・オーシャン=ライバル自体は皆無に等しいが、市場規模も皆無に等しい状態」とするなら「ライバルばかり多くて市場規模に見合わない」ピンク・オーシャン状態)事が明らかとなってきた。
そして何より、当時この分野で突出していた小松左京や(諸星あたるの名前の由来たる)諸星大二郎や萩尾望都や大友克洋の超人的無双振り(1980年代に入ると星野之宣辺りの名前も加わる)…多くの作家が、相応の教養に支えられる形でああ超越的に振る舞えなければ勝てない世界で自分が生き残るイメージを保ち得なかったし、実際一歩間違えば小説「コインロッカー・ベイビーズ(1980年)」「帝都物語(1985年~)」における無差別テロ志向、映画「幻魔大戦(1983年)」「AKIRA(1988年)」における選民思想、漫画「ぼくの地球を守って(1986年末~1994年)」における前世因果思想を経てオウム真理教のサリン散布事件(1994年~1995年)に辿り着いてしまう綱渡り状態。
そういえば同時期盛り上がったレザー・ゲイ・ムーブメントも1990年代に入ると、一旦「バットマンの乳首」事件なる終着地点に辿り着く。1970年代の高橋留美子は「ラムのビキニ姿」「弁天のハードコア・ファッション」といった形でこの領域にそれなりの形では足を踏み入れつつ、決してその精神面についてまでは踏み込まなかった事で巻き添えを回避した。まぁこれは寺沢武一の諸作品についてもいえる事だが(一方、あえてこうした転落イベントに毎回巻き込まれつつ、その都度きっちり生還を果たてきた原作者小池一夫の様な化物も存在する)。
これね、完全に「21世紀には当時のどのアプローチが後世にまで影響を与え続ける偉業と認められ、どのアプローチが破滅的結末を迎えたか」あらかじめ知ってるからこそ描ける文章ですよね。同様の事が、これまで展開してきた「2000年代を席巻した世界系論評批判」についてもいえそうです。
だからこそ完全に予測出来てしまうんですね。私が2010年代から2020年代にかけてのコンテンツについて語ってる内容も、後世になれば(その時点で明らかになってる条件の違いから)そのほとんどが否定され尽くしてしまうであろう事を。まさしくポパーの反証可能性(Falsifiability)の世界…
それでも発言は差し控えないで行きたいと思います。むしろ人はどこで間違うのかについて、ちゃんと検証材料を残しておきたいので…