諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】なぜ人は「過剰包装」を好むのか?

なぜ人は「過剰包装」を好むのか?

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https://torja.ca/covid19news0427beef

 この問題、ほじくると「カマトト問題(人は蒲鉾の材料が魚だという事を忘れる方向に進化したがる)」問題に到達します。 

この辺りの扱いを勘違いすると…

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そういえばドレフェス事件(1894年~1906年)におけるリベラル層の迷走(最終的に勝訴となり後世では「インテリズムの最初の勝利」と称賛される様になったものの、当事者の時代証言を見る限り「決定的証拠が出ないまま/いやむしろそれ故にそれぞれが点でバラバラに勝手な理屈をつけるのに都合が良くて(当事者たるユダヤ人すら置き去りにして)10年以上政治利用され続けたモリカケ事件」というネガティブな認しかない)に失望した老技術者ジョルジュ・ソレルGeorges Sorel、1847年~1922年)が執筆した『暴力論(Reflexions sur la Violence=暴力に関する考察, 1908年)』における認識は以下。

  • 権力(フォルス)…終始万民を粛清合戦に巻き込んだ党争至上主義に過ぎなかったフランス革命(特にその最終局面たるジャコバン派恐怖政治)

  • 暴力(ヴィオランス)…そのジャコヴァン派恐怖政治が諸都市で遂行した大量虐殺にもヴァンデへの地獄部隊Colonnes infernales,1794年1月〜5月, 後背地の集落を片っ端から襲撃して「妊婦の腹を裂き、赤子を竈に放り込む」民族浄化作戦を遂行した虐殺部隊)派遣にも屈しなかった王党派

恐怖政治はロベスピエール一人が実施したものでも推進したものでもなく、後に反ロベスピエール派に与する者や国民の大多数も含めて多くの人間がこれに関わり、また当初はこれを支持したのであって(というのも当時は、王政の復活を目指す国内の王党派や共和政という新しい体制を認めず戦争を仕掛けてくる諸外国等、革命を損なう危険性のある障害が多く、過渡期にあってはそれらを力で排除し抑圧するのもやむなしという認識が強かったためです。)、一般に言 われてるような全てがロベスピエールの独裁と暴走の結果であったとするのは完全な誤解です。しかし、主導的な立場で恐怖政治を実施、推進したのもやはりまた ロベスピエールとその協力者たち(ロベスピエール)であり、最終的には行き過ぎた恐怖政治に当初はこれを支持していた国民さえも嫌気がさし、それを好機と見た反ロベスピエール派のクーデター(テルミドールのクーデター)によって、ロベスピエールとその協力者たち(ロベスピエール)は逮捕され、処刑され てしまいました。

実際のテルミドールのクーデターは「(それまで雌伏していたとされる幻の)ロベスピエール派の反撃」などでは決してなく、むしろ行き過ぎた恐怖政治に国民が嫌気がさした段階で、もはや党争を制したロベスピエール派しか残っておらず、中央(公安委員会)からスケープゴートにされかけた虐殺実行班が逆に中央をスケープゴートに生き延びた内ゲバに過ぎなかった。参加メンバーを見てもそれは明らかであろう。

  • ポール・バラスPaul François Jean Nicolas, vicomte de Barras, 1755年〜1829年)…マルセイユトゥーロンにおける虐殺主導者

  • ジョゼフ・フーシェJoseph Fouché, 1759年〜1820年)…リヨンにおける虐殺主導者

  • ジャン=ランベール・タリアンJean-Lambert Tallien, 1762年〜1820年)…九月虐殺Massacres de Septembre、1792年)にも参加したボルドーにおける虐殺主導者。

要するに「首から上頭脳を切り捨てる事で思考力を備えない体だけが残った」体裁であり、当然政治遂行能力など一切備えておらず、最終的に「革命のモグラアベ・シエイエスAbbé Sieyès, 1748年~1836年)と彼が新たな実働要員として選出したナポレオン・ボナパルトNapoléon Bonaparte、1769年~1821年)に転覆される結果を迎えたのには歴史的必然性があったといえよう。

この様にフランス革命はある意味、所謂「太陽王ルイ14世の遺言」すなわち「王は諸勢力の裁定者として生き延び続けるべきであり、その分際を超えて単独勝者となった暁には、失政の責任も自分で負わねばならなくなる」に始まり、それに終わった側面が確実にあった。そして「かかる助言を黙殺したのでルイ16性の時代に革命が起こって(実に国民の実に1/5が犠牲となり、絶対王政庇護下で育った資本主義インフラが徹底破壊され、フランスへの産業革命導入を半世紀遅らせて大英帝国単独覇権を許す形での)破壊の限りが尽くされてしまった」なるイデオロギーサン=シモン主義経由で「株屋王ルイ=フィリップ7月王政(1830年~1848年)や「馬上のサン=シモン皇帝ナポレオン三世第二帝政(1852年~1870年)へと継承されたとも。

しかし考えてみれば世界恐慌時代(Great Depression Age=1930年代)のドイツにおいて(元々フライコール(Freikorps=ドイツ義勇軍)招聘によるドイツ革命(1918~1919)の暴力的鎮圧によって成立した)ワイマール政権ヒンデンブルグの大統領内閣を経てヒトラーNSDAP(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei = 国家社会主義ドイツ労働者党)へ政権が譲渡されていった過程とも共通点が多い。

ちなみに、あえてこの「破壊の限りを尽くす」部分が気に入って忠実に模倣したのがカンボジアクメール・ルージュ政権(ポル・ポト派, 政党存続期間1968年~1998年, 民主カンプチア時代1975年~1979年, ベトナム系国民の民族浄化政策に着手し、ベトナムの介入で倒される)であり、(国民の実に1/3が虐殺されたとされる)恐るべき内実が明らかになるまで世界中のリベラルに理想しされ、垂涎の的となってきた。最近ではネパールの毛共産党が有名で、彼らの国内における資本主義インフラの徹底破壊がネパールを(国内に十分な雇用が存在しないが故の出稼ぎ大国にしてしまった側面も。

そしてかかる「暴力論」における「王党派の抵抗を支えたのは民族的神話である」なる分析からシオニズムファシズムが派生する訳ですが、ここで注意すべき点が以下。

ファシズムを最広義に,〈共同体〉(その大小,出自,体制の相違を問わない)統合の極限的な原理ないし手法と解すれば,これを歴史的事象として清算することはできず,再出現の可能性は常にあると考えなければならない。その政治的・経済的・社会的側面のみならず,思想や文化にわたる機制の解明が必要とされるゆえんである。

*実は「傲岸な地主や資本家に小作人や労働者がゼネストやボイコットでお灸を据える」戦略を推奨したソレルの権力/暴力論は(フランス王党派の政治的現実もあって)抵抗側の革命的勝利、すなわち「蜂起した小作人による地主の廃絶」や「蜂起した労働者による資本家の廃絶」を想定してない。実際「江戸幕藩体制の風紀取締」が「(男女の絡みの禁止に抵抗しての)男の娘」や「(人間同士の絡みの禁止に抵抗しての)触手物・妖怪強姦物」といった特殊ジャンル開発に繋がっていったプロセスに「体制側と抵抗側の立場の逆転」など存在し得ないであろう。まずここに「(政権奪取を前提としない)暴力論の延長線上に(政権奪取が前提の)ファシズムが現れた」とする主張の欺瞞が存在する。

*実際、19世紀末から20世紀初頭にかけての社会主義思想においては、ドイツ帝国福祉国家志向や資本主義経済の安定した発展を背景に「抵抗側の革命的勝利」を目指さない修正主義(Revisionism)あるいは社会民主主義(Social democracy)が優勢で実績も上げていた。変化の兆しが顕在化してくるのは、概ね第一次世界大戦(1914年~1918年)の総力戦化に伴う国家破綻を背景としたロシア革命(1917年)やドイツ革命(1918年~1919年)以降…

*それでもムッソリーニファシズム理論や国家ファシスト党が当時のイタリアに受容された背景には「地主と小作人」「資本家と労働者」の無制限党争を扇動するばかりで一切の資本主義的発展をもたらさない国内左派への絶望があった。皮肉にもその意味合いにおいてファシズムは、一応はロシア革命後、ソ連経済発展の為に(地主と小作人、資本家と労働者の党争を煽る)マルクス主義を捨て(地主と小作人、資本家と労働者の協業を強要する)フレデリック・テイラーの科学的管理法(Scientific management)を採用したレーニン主義の系譜に連なるのである。

テイラー主義(Taylorism)=科学的管理法(Scientific management) - Wikipedia

ウラジーミル・レーニン1913年時点科学的管理法理論について「同じ長さの労働日のなかで以前より三倍以上の労働力を労働者から絞りとろうとする」試みとして全面否定したが、翌1914年にはテイラーの理論を「プロレタリアートが社会的生産のいっさいを掌握し、労働者自身による、あらゆる社会的労働の適切な配分と合理化を目的とする委員会を定める時期を用意するものであった」と評価し、1918年にはその後の革命の成功に不可欠なものと考えるに至った。

*ソレルも「暴力論」第5版以降でレーニンが主導するロシア革命を認める様になるが、こういった詳細がどこまで伝わっていたか、自らの「民族神話論」とヴォルシェビキの「民主集中制」をどう関連付けていたかまでは不勉強で明かに出来てない。その一方で1970年代以降にはソ連中華人民共和国もハリウッド・スペクタクル映画の影響を受けて大予算を投じた祖国防衛戦争映画を撮影する様になる。明かに科学的マルクス主義が形骸化してしまい、別途何らかの代替物、すなわち国民統合の核となり得る「神話」が必要になったのだった。

*系譜でいうと1817年から1824年にかけてサン=シモン主義者として活動しながら「諸勢力の裁定者としての王なら受容する」立場を拒絶して在野に下り「科学者独裁体制」を提唱したオーギュスト・コント(Isidore Auguste Marie François Xavier Comte、1798年~1857年)の様な立場もあるが、彼は数学者であるコンドルセ公爵(Marie Jean Antoine Nicolas de Caritat, marquis de Condorcet, 1743年~1794年, ジロンド派党員として恐怖政治で粛清された一人)の「人間精神進歩の歴史(1793年)」 からその科学進化論を借用し、1841年から1847年にかけてジョン・スチュアート・ミルと親交があったにもか変わらず「数理に人を統制する力はない」という立場を貫いた。一方、代案として提案した「実証哲学(Philosophie Positive)」が完成する事はなかった。

*「(万事科学に従って適切な判断を下し続ける、後衛としての)科学者独裁体制」が古き良きパルプマガジン時代(20世紀前半)のスペース・オペラ独特の牧歌的設定だとすれば、実証哲学(Philosophie Positive)はA.E.ヴァン・ヴォークト(Alfred Elton van Vogt, 1912年~2000年)の「非Aシリーズ(1948年~1984年)」の世界。一応は(演繹的推論より直観的な帰納的推論を重視する)アルフレッド・コージブスキーの一般意味論に立脚するとされるが作中で納得のいく詳細が語られる事はなく「科学を超えた的確な判断を下す超人」を外連味タップリに描くギミックとして登場するに過ぎない。やはりアルフレッド・コージブスキーの一般意味論の影響を受けたフランク・ハーバートデューン(Dune)砂の惑星シリーズ(1965年~1985年)」は、スパイス(麻薬)よって思考能力を補強された「超常感覚の達人」ベネ・ゲセリットや「純粋数学を駆使する」スペース・ナビゲーターや「人間コンピューター」メンタートや「謎の技術者集団」イックスがビジョン(予知能力込みの推論)に従って裏をかき合う陰謀論的展開が、カート・ヴォネガット.Jr.(Kurt Vonnegut Jr. 1922年~2007年)の先の読めない捻くれた展開と合わせヒッピー世代に受けた。一方、ソ連初期SF小説では「科学に精通した無名の宇宙飛行士」などが英雄となる人間中心主義作品が量産され、その反動で「人間に全く似ていないエイリアン」を描くポーランド人SF作家スタニスワフ・レム惑星ソラリスSolaris、原作1961年、映画化1971年/2003年)」やソ連SF作家ストルガツキー兄弟の小説「路傍のピクニック( Roadside Picnic,1977年)」タルコフスキー監督映画「ストーカー(Stalker, 1979年)」が登場。

*一方、コンドルセ公爵、J.S.ミル、オーギュスト・コントらと同グループに属する英国人社会学ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer、1820年~1903年)は(一般にはダーウィンの規定した用語と信じられている)「進化 (evolution) 」「適者生存 (survival of the fittest) 」該年の提唱者として知られる。つまり彼はアンリ=ルイ・ベルクソン(Henri-Louis Bergson, 1859年~1941年)の「持続(Durée)」「イマージュ(Image)」「生命の飛躍(élan vital=エラン・ヴィタール)」概念と同様「究極の答えは静的に超越的に存在しているのではなく、最先端の現場で刹那ごとに矛盾も恐れず生成され続けている」不幸にもその思想はテイラー主義(Taylorism)=科学的管理法(Scientific management)同様、米国に伝えられると「資本家が労働者を効率的に搾取する方法論」として乱用され「(ユダヤ系が大半を占める)ニューヨーク知識人」代表格のリチャード・ホフスタッター(Richard Hofstadter、1916年~1970年)に徹底して叩かれ、ネガティブなイメージを植え付けられる展開を迎える。

シオニズムの非神話化 | ちきゅう座

神なき世俗化Secularization)は、さらに次のものの内部からユダヤ人・ユダヤ教徒アイデンティティを変革した。伝統的なユダヤ教徒は彼らが何を 行うかあるいは何を行うべきかによって識別されたが、新しいユダヤ人は彼らが存在していることで見分けられた。じっさい彼らは同じ宗教の習慣をもっている だけで、ポーランドから、イエメン、そしてモロッコユダヤ人まで同じエスニック・グループ種族集団)に属しているどころか、大胆にも聖書的ヘブライ人 の子孫であると見なされたのである。テルアヴィブ大学のシュロモ・サンド教授のように若干の人々は、エスニック概念としてのユダヤ民族は、19世 紀後半に おけるシオニズムの必要性によってたんに「発明された」ものであったと主張している。結局、彼らはナショナリスト民族主義)であるためにひとつの民族を必要としたのである。

 元パリ駐在イスラエル大使、エリ・バルナヴィ 教授の言葉によれば、「シオニズムは、ユダヤ人の実存的不安を解消する救済策を必死になって探し出し、ラビに背を向けて現代的なものを熱望した… 同化ユダ ヤ人と知識人の発明であった。」しかしながら大部分のユダヤ教徒は、まさにその始まりからシオニズムを拒絶した。彼らはシオニストが、最悪の敵、 反セム主義者たちを利する行為をしていることを分かっていたのだから。前者がイスラエルユダヤ人を集めようとしていた一方で、後者はユダヤ人という状態 から解放 されたかった。シオニズムの創設者テオドール・ヘルツルは、反セム主義者たちを彼の運動の「友であり味方である」と見なしていた。

シオニズムの中の多くの潮流で成功したものは、つぎの四つの目標を公式化した。

  1. トーラーに集中していた国家を越えた治外法権的なユダヤ教徒アイデンティティを、当時のヨーロッパ諸国によく見られた民族的アイデンティティに変質させること。
  2. 聖書的およびラビ的ヘブライ語を基礎にした新しい民 族言語を開発すること。
  3. ユダヤ人・ユダヤ教徒を彼らの出生の国からパレスチナへ移送すること。
  4. 必要なら力づくで、かの地の至る所に政治的経済的 支配権を確立すること。

ポーランド人、あるいはリトアニア人のように他のヨーロッパ・ナショナリストが帝国権力から「彼ら自身の主人」となるためにもっぱら祖国を 力づくで支配するだけであったものが、シオニストたちは最初の三つの目標を同時に達成するために、はるかに大がかりな挑戦に直面した。 

  • 無分別なええとこどり」に終始したナチズムには思想の左右はおろかイデオロギー的整合性すら存在しないが(一人一派とか甘えた事を言ってるとどんどんこっちに似てくる)、ジョルジュ・ソレルロシア革命を手放しで絶賛したフランスへのマルクス主義思想の最初期紹介者の一人(第二帝政時代までサン=シモン主義の実践者の一人だったが、第三共和国時代にそのノンポリ制の限界に直面して転向)だったし、ファシズム理論そのものの提唱者にしてイタリアにおける国家ファシスト党による一党独裁制の確立者でもあったムッソリーニBenito Amilcare Andrea Mussolini 、1883年~1945年)もまたスイス放浪時代にレーニンから直接共産主義思想の薫陶を受けたガチガチの社会主義者だった。

  • ソレルは「王党派の抵抗を支えたのは民族的神話である」としたが、実際の王党派的強さは「(教会の教区管轄者を含む)領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的権威体制」がもたらす一体感にあり、例えばその典型例は「フランス革命時代にドメーヌ()単位まで解体されたブルゴーニュ・ワインに対する、シャトー()単位の生産規模を守り抜いたボルドー・ワインの政治的勝利」といった形で現代に経済的爪痕を残している。

    一方、なまじ「しがない殺し屋」に過ぎなかったが故にテルミドール政権ナポレオンにはかえってその弱点が丸見えで、有力者粛清なる適切な処方箋によって王党派は無力化された。その後、第二共和制時代の四月普通選挙(1848年)において組織票を駆使して急進共和派(Républicains radicaux)の圧倒には成功したものの内部分裂を最後まで克服出来ず第二帝政台頭を許し、以降は政治担当能力を喪失。

そういえば、こういう話も。

日本のリベラル層は映画「未来を花束にしてSuffragette, 2015年)」を鑑賞して女性選挙権運動を弾圧した主体が(元来はリベラル陣営側の筈の)英国自由党だった事、および国労働党が全く登場しない事に何の疑問も抱かなかったのだろうか? 当時の自由党が選挙権拡大運動に反対し、労働党が黙殺を決め込んだのはまさにその結果として選挙権を獲得する人々が国保守党の熱狂的支持層だったからなのである。そこには人道的配慮どころか冷徹な政治判断があるばかりだった。

むしろ(リベラル層がその党争至上主義的立場から敵視し続けてきた現代社会における「王党派的強さ」は民族的神話なんかではなく「肉が食べたい」とか「タバコが吸いたい」といった本能的欲求に根ざした反禁止抵抗運動に継承されたと考えるべきなのかも。