20世紀後半に急浮上してきた「究極の自由主義は専制の徹底によってしか達成されない」ジレンマは、日本の漫画に登場する2つのアイテムを対比させる事によって、さらに鋭く素因数分解(Prime Factorization)あるいは偏微分(Partial Derivative)出来そうなんです。
- 高橋留美子「うる星やつら(1978年〜1987年)」に「食べたいと願ったものが何でも(無節操に)転送されてくる鍋」が登場する回があった。ただし複数の人間が一斉に違った食べ物を思い浮かべるので何度やっても壮絶な闇鍋にしかならず、誰も何も食べられない。
- 藤子不二雄「どらえもん(原作1969年〜1996年)」に類話がありそうでないのは、この問題に無理矢理決着をつけようとすると「独裁スイッチ」より恐ろしい結論に到達してしまうから。曰く「みんなが一斉に同じものだけ願う様になれば、反人道主義も不平等感も消え去る」、曰く「変な事を考える奴をどんどん除去していけば、究極的には正しい考え方だけが残る」。これはもはや西洋由来のFacismではない。中華王朝由来の大同主義である。
あ、これ奇しくも「民主主義の敵」ジレンマのヴァリエーションになってますね。
ジェフ・ラスキン 他人の脳みそを盗むのはジョブズにとって普通のやり方さ。まず人のアイデアを鼻であしらっておいて、その1週間後には、素晴らしいアイデアを思いついたなんていいながら戻ってくる。そのアイデアというのは、もちろん1週間前に誰かがジョブズに話したアイデアなんだ。我々はジョブズのことを現実歪曲空間と呼んでいた。
ロバート・サットン(スタンフォード大学教授) 私がイヤな奴についての本を書いていることが知れたとたん、誰もが進んでやって来てはスティーブ・ジョブズの話を聞かせてくれるようになった。シリコンバレーでいかにジョブズが恐れられているか、そのレベルには驚嘆するものがある。彼は人を震え上がらせ、悲嘆にくれさせる。だが、彼はほとんどいつも正しく、たとえ間違えている時でも、その創造性の豊かさには目を見張るものがある。
ジャン=ルイ・ガセー(Be創業者、元アップル副社長) 民主主義に沿ってたんじゃ、素晴らしい商品なんて創れっこない。闘争本能の固まりのような独裁者が必要なんだよ。
実は社会主義経済計算論争(economic calculation controversy、1920年代〜1930年代)や 計画経済(Planned economy)論とも表裏一体の関係にあります。「議会制民主主義普及の最大の障害は、完全に民意が読めてそれを遂行する絶対君主の存在である」に対する「自由市場経済は必ず失敗に終わる。全ての生産と分配を管理すべき」なる提言。ある意味人類としての主体性放棄。「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的権威体制への精神的退行…
社会主義経済計算論争(economic calculation controversy、1920年代〜1930年代)
社会主義経済の可能性について経済学者の間で起こった議論。オットー・ノイラートの「戦争経済から実物経済へ」に対してルートヴィヒ・フォン・ミーゼスが「社会主義共同体における経済計算」で反論したことが発端となった。
- 設問は「社会主義経済において、生産手段は公のものとされ、生産量は国家が決定するため、市場や価格は存在しないことになる。このような経済が現実に適用できるものか」というもの。
- 否定派の意見としては「貨幣が存在しないとすれば価格もうまくつけられない」としたミーゼス、「すべての情報が集まらない以上、計算は不可能」としたフリードリヒ・ハイエクが有名。
- 肯定派としてはミーゼス、ハイエクの不可能論に対し「市場メカニズムを社会主義経済に導入することで社会主義は可能となる」としたオスカル・ランゲ、それに同調したアバ・ラーナーらが有名。
いずれにせよ誰も「計画経済がそのまま遂行可能」とは考えなかった。実際、計画経済システムの内在的な欠陥を市場メカニズムの導入により解決しようという試みがコスイギン改革やハンガリーにおいて進められたが、結果的に失敗している。
「社会主義計算」論争が生じたのは19世紀末だ。産業革命がもたらした壮絶な貧困を証拠として、社会主義者たち、マルクス主義者たちなど、自由放任の批判者たちは自由市場がつまりは失敗し、生産と分配についてコントロールできる優しい政府のほうが、財をもっと効率よく平等に割り振れるのだと論じた。「社会主義計算」論争が起きたのは、自由放任の支持者たちが市場のほうがリソースをうまく、あるいは少なくとも無限に賢い政府と比べてもひけをとらないくらいにうまく割り振れるのだ、と論じて、これが論争となった。
この論争は、マルクス主義学派が登場したときから始まっていたとはいえ、正式に「社会主義計算」論争を真剣に議論したのはワルラス派経済学者であるエンリコ・バローネだ。バローネは、1908年論文「集産主義国家における生産省」でこれを論じ、続いてパレート (1896; 1906: p.266-9) も独自の考察を行った。バローネは、少なくとも原理的には社会主義経済でも資本主義と同じくらいよい成果を挙げられるはずだ、というのも価格というのはワルラス系の連立方程式の解でしかないと考えられるからだ、と論じた——その方程式を解くのが政府だろうと市場だろうと関係ない、と。
だが、社会主義システムのほうが実はもっと優秀だったりしないだろうか? この問題を提起したのはオットー・ノイラートだ。ノイラートは、第一次世界大戦中に、政府が「戦時経済」を実施して、それが雇用を高水準にたもち、景気変動を防ぎ、戦争のためになかなか効率よくリソースを仕切り、生産を最大化したようだということを指摘した。平時でも同じことができるのでは? ノイラートは、それが可能だと思った——ついでに、そういうシステムならお金がいらないという追加の利点もある。集産コントロールなら「実体価値」だけで十分だ。オットー・バウアーやエミール・レーデラーなど、第一次大戦後のドイツ社会主義化委員会に関わっていたマルクス主義者たちは、お金の廃止についてノイラートほど決然とはしていなかったが、それでも特に産業集中を前提とすれば、社会主義による解決策のほうが効率がよいと明確に考えた。
この問いかけはまた、フレッド・M・テイラーも1929年の有名なAER 論文で発したものでもある。そしてかれは、それを肯定的に回答した——確かに社会主義国家は、私企業経済と少なくとも「同じくらいの効率」を実現できる、ということ。そして集産システムでなら、初期所得(あるいは割り当て)の分配もまた政府がコントロールできる追加の変数となるという追加のメリットもある。これは市場経済にはない。消費はどうだろう? モーリス・H. ドッブ (1933) はさらに、消費者の独立性なんてそもそも過大評価されているとまで論じた。政府が生産だけでなく消費の決定もコントロールすれば、「非効率」の問題はなくなる、というわけだ。
ここで オーストリア学派が、ルードヴィヒ・フォン=ミーゼスという大砲をひっさげて参戦した。有名な1920年論文「社会主義コモンウェルスにおける経済的計算」で、ミーゼスは攻撃を開始した——社会主義経済における価格システムは必然的に劣っている、なぜなら社会主義システムで政府が生産手段を保有しているなら、資本財は最終財とはちがって単に内部での財の移転にすぎず、「交換対象」ではないので価格が得られない——したがって値づけされず、したがってこのシステムは必然的に非効率なのだ、と。
だがミーゼスの議論構築には誤謬があった——H・D・ディキンソン (1933) はすぐにそれを指摘した。というのも、バローネ と テイラーが示したように、世界をワルラス的連立方程式として見てそれを解こうとするなら、内的産物に値づけできないなどという問題は生じないのだ。というわけでボールはオーストリア学派のコートに打ち返され、それに反論する役目を受けて立ったのはフリードリッヒ・フォン=ハイエク (1935) だった。バローネとテイラーが夢見た連立方程式系は、あまりに多くの情報を必要とするし、それはどう見ても簡単に手に入るものではなく、それが得られても、必要な計算(何千もの方程式が出てくる)はむずかしすぎる、とハイエクは論じた。同様に、市場経済で提供される経済インセンティブは、集産システムでは再現できない。
パレート派の経済学者、特にテイラー (1928)、ヤコブ・マルシャック (1923)、オスカール・ランゲ (1936, 1938) 、アバ・ラーナー (1934) は、国家運営の経済は少なくとも同じくらい効率的になれると論じた——ただし、政府の計画者たちが価格システムを、市場経済と同じように使えばだが。これはもちろん、パレートの厚生経済学基本定理の適用でしかない。さらに、現実的な意味でいえば、市場経済だって市場の失敗にすぐにぶちあたる(たとえば不完全競争や外部性、取引費用など)し、そうなれば価格メカニズムでは効率的な割り振りができなくなる。完全に競争的なシステムであるかのように価格設定をする政府はこれを克服でき、したがってもっと高効率になれる、というのだ。
オスカール・ランゲの議論は特に強力だった。価格というのは、ある財と別の財の交換レートでしかない(あるいはパレート (1906: p.155) 式に言えば、それは「財の分配とその変換と関連した会計装置」なのだ)。それを意志決定者にとってのパラメータとみるにしても、それが中央計画者に提供されようと、市場に提供されれようと、国有企業の経営者たちが費用最小化を目指すよう支持されれば関係ないはずだ。市場が正しい価格を「見つけ」安定させるという機能はめざましいものではある。だが政府がワルラス派のいう「競売人」になればいい——模索過程を通じて価格を探すというわけだ。さらに、社会主義経済にはインセンティブがないという問題について、現代の資本主義経済だって、所有(株主)と経営者(CEOなど)との間の亀裂が増大して、インセンティブは同じくらい歪んでいるではないかとやりかえした (ランゲは、このために各種の制度学派の成果に頼った)。
フリードリッヒ・ハイエクは、この新しい議論に応じて自分の立場をさらに磨き上げた。これは一連の重要な論文 (1937, 1940, 1945, 1948, 1968) で行われ、要するに国家運営経済が資本主義よりリソース割り当ての効率を高くできないのは、市場経済における価格メカニズムの伝える情報は、どんな計画者であれ獲得できる情報よりも多量だからだ、と論じた。これは情報と自己組織化に関する研究として、ハイエクのキャリアの後半で大きな役割を占めることになる。
この論争のおもしろい結果としては、ソ連自体において、ランゲが提案した技法が採用されたということがある。これはレオニード・ カントロヴィッチによる線形プログラミングの開発につながり、これにより計画経済における効率的な割り当ては、競争市場経済と実質的に同じように価格の利用が必要だということが示されてしまった。同じことをチャリング・C. クープマンスも、多市場シナリオにおける効率性の定式化された議論で示している。その結論で、集産主義経済は理想化されたワルラス派の世界では民間市場システムよりもよい結果は挙げられない——だが市場より悪い成果になるのが確実というわけでもない。要するに、二人はバローネのもともとの主張に戻ってきただけなのだった——少なくとも理論的には。オーストリア学派は、価格の「情報的」役割とインセンティブ問題に関するハイエクの立場を死守し続けた。
ミクロ経済学、特に価格理論のアプローチのひとつ。主として1つの財の市場における価格と需給量の決定をあつかう「部分均衡分析」に対し、多くの財をふくむ市場全体における価格と需給量の同時決定をあつかう理論を「一般均衡分析」と呼ぶ(ただし、部分均衡は注目する財以外をまとめて一つの財として捉え、明示的ではないがその均衡を考えていることになるため、一般均衡分析でもある)。レオン・ワルラスが19世紀に創始し、1950年代にケネス・アロー、ジェラール・ドブルー、ライオネル・マッケンジー、二階堂副包らの貢献により現在の整合的な分析手法となった。
消費者や生産者がすべての財の価格を与えられたものとして行動する完全競争市場の一般均衡モデルは、消費者や生産者の効用関数や生産関数を特定化しなくても、凸解析や不動点定理などでかなりの分析が可能な数学的に優れた構造を持つ。すべての財の市場の需給が一致する競争均衡価格の存在定理や、競争均衡における資源配分がパレート最適であることを言った「厚生経済学の第一定理」などが、一般均衡分析の重要な定理として知られている。これらの定理は仮定から結論を導く数学的な証明を追うことで理解可能であるが、2財2消費者を図示したエッジワースボックスでも直感的な理解は可能である。
一方、非競争的な市場の分析で、同一市場内で製品差別のない寡占の分析は、完全競争市場の一般均衡ではなく、非協力ゲーム理論によるものが主流になっている。
経済の資源配分を市場の価格調整メカニズムに任せるのではなく、国家の物財バランスに基づいた計画によって配分される体制。生産・分配・流通・金融を国家が統制し、経済を運営する。原則的に全ての生産手段が公有とされる。主に社会主義国の経済体制であり、現在、純粋にこれを採用する国は少ない。 対立概念は市場経済(Market Economy)。また、計画経済と市場経済の利点を共に備えた参加型経済(Participatory Economics、剰余価値は全て生産者たる労働者自らが獲得するので非労働者による搾取がない)も存在する。
①計画の機能を初めて本格的に取り上げたのは「反デューリング論(オイゲン・デューリング氏の科学の変革、1878年)」およびその抜粋版たる「空想から科学へ(Die Entwicklung des Sozialismus von der Utopie zur Wissenschaft、1880年)」を執筆したフリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels、1820年〜1895年)とされる。
*マルクス以前の社会主義者にまとめて空想的社会主義(英:utopian socialism, 独:Utopischer Sozialismus)のレッテルを貼り「全員ただの引きこもりで現実社会に爪痕一つ残さなかった」と決め付けた端緒。
- カール・マルクスも「資本論(独: Das Kapital:Kritik der politischen Oekonomie 、英: Capital : a critique of political economy)1部(1867年)」において生産が「自由に社会化された人間の産物として彼らの意識的計画的管理のもとにおかれる」とはしている。
- 複雑極まりない経済動態を当局者が完全に把握し、需給を調整したりするのは極めて難しく、コンピュータを用いてこれを解決しようという試みもあった(社会主義経済計算論争、1920年代〜1930年代)。
②実践の原型はソ連におけるレーニンのゴエルロ・プラン(GOELRO plan、1920年〜)、スターリンによる第一次五カ年計画(1928年〜1932年)などに求められる。
- ヨシフ・スターリンが1928年に制定した第一次五カ年計画では1932年までに達成すべき統制数値をゴスプラン(国家計画委員会)により定め、企業の再国有化や農業集団化を実施し、各組織に対して生産計画数値であるノルマの達成を厳命する指令型の計画経済メカニズムの基礎を再構築した。
- ゴスプランの研究者であったフェリドマンのモデルに従い、重工業優先の発展戦略(二部門モデル)により、コンビナートと呼ばれた工業地域の計画・建設、天然資源(石炭など)の大規模な開発が進行。既存の農村はコルホーズと呼ばれる協同組合方式の集団農場に編成され、開拓地に設置されたソフホーズ(国営農場)と共にその後のソビエト農業の基本構成単位となり、この開発モデルは第二次世界大戦後のアジア諸国で採用されることとなる。この政策に反対したブハーリンなどは追放され、やがて多くのネップマンやクラーク達などと共に大粛清の犠牲となった。
- この工業化・集団化政策と、ロシア革命によって世界経済から相手にされなくなり孤立したことが功を奏した。1930年代の世界恐慌で欧米の資本主義国が軒並み不況に苦しむ中、ソ連はその影響を受けずに19世紀ドイツや明治維新後の日本を凌ぐ前代未聞のペースの工業化と高い経済成長を達成したのである。このことは欧米から驚嘆され、強制労働など、スターリン体制の闇の実態について知らなかった知識人の間では理想視された。
- ただし1933年、第一次世界大戦後の国際社会で共に孤立化し、それ故に協力関係を保っていたドイツに反共のナチス政権が誕生すると有力な投資元を失い一層孤立化が進行する。
③世界各国(特に枢軸国)がまず大きな影響を受けた。
- 満州国の産業開発五カ年計画(1937年〜。1939年以降日本の生産力拡充計画に組み込まれる)。
*日本本土でも企画院事件(1939年〜1941年、多数の企画院職員・調査官および関係者が左翼活動の嫌疑により治安維持法違反として検挙・起訴された事件)などにより不発に終わったケースもあるが、革新官僚らはソ連の計画経済に感化されていた。実際、経済新体制確立要綱(1940年)でも計画経済を目指す事が明記されている。
- ナチス・ドイツでは、私有財産権は保護されたものの、四カ年計画(Vierjahresplan)が作成された。
*1933年からの第一次は失業解消とドイツ富国化を約したスローガン的なもの。1936年からの第二次の目標は戦争に備えてのドイツの国際的自主性確保。特に食料と原料を外国に頼らない自給自足の経済活動(アウタルキー)の樹立。ナチス政権のNo.2であるヘルマン・ゲーリングが計画の全権(ドイツ語: Beauftragter für den Vierjahresplan)となり、計画を遂行する四カ年計画庁は国家省庁として大きな権力を握ったが第二次世界大戦勃発(1939年9月)以降は次第に軍需省などに主導権を奪われていく。
- イタリアは、第二次世界大戦が勃発する1939年まで国有企業が占める割合がソ連に次いで最も高く、事実上ソ連の経済体制とほとんど変わらなくなった。
④一方、1938年にナチス迫害を逃れオーストリアからスイス経由でアメリカに亡命したロシアのオデッサ生まれのウクライナ系ユダヤ人ガーシェンクロン(Alexander Gerschenkron、1904年〜1978年、オーストリア学派の一人)の初期の業績はソ連の計画経済の統計的欺瞞を追及することに当てられた。
- その一方で後に「後進性の優位」論(先進国と後進国の共存状況で、後者は前者が先進技術を取り入れることによって経験しなくてはならなかったいくつかの段階をスキップすることができる)によって明治維新後の日本やソ連の工業化過程を説明している(キャッチアップ型工業化)。
ガーシェンクロン著「歴史的観点から見た経済的後発性」がもつ今日的意義
④戦後は中華人民共和国やベトナム社会主義共和国の様に社会主義を標榜する国だけでなく韓国やマレーシアといった開発独裁下の東南アジアでも五カ年計画が採用されている。ただしその運用はソ連や東欧諸国に比べて弛緩していた為、皮肉にも経済改革(市場経済化)をスムーズに準備した。特に中華人民共和国では毛沢東時代から既に経済の分権化が進んでいたと指摘されている。
経済学者の野口旭は「社会主義経済が崩壊したその根本的原因は、市場経済と比較した場合の効率の悪さ・生産性の低さにある。社会主義最大の問題点は、計画経済よりもむしろ『分配と所有の不平等が存在しない社会』を標榜することで経済の効率化を望む人々のインセンティブを阻害してしまったことにある」と指摘している。
こうした対立構造の起源を遡ると所謂「1959年革命」に辿り着きます。
- フランス革命当時粛清されたジロンド派数学者コンドルセ伯爵(Marie Jean Antoine Nicolas de Caritat, marquis de Condorcet, 1743年~1794年)が辞世の句として残した大数の法則に立脚した確率論的進化論。
- それを継承して古典的自由主義や女性解放論や近代的人種平等論に数理的裏付けを与えた英国人数学者ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill、1806年~1873年)の「 自由論(On Liberty, 1859年)」における「文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならないが、他人に実害を与える場合には国家権力が諸個人の自由を妨げる権利が生じる」なる提言。
- これに対して「我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものは、実際には社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎないと疑ってかかれ」なる懐疑精神を突き付けたカール=マルクスの「経済学批判(Kritik der Politischen Ökonomie、1859年)」の刊行。ちなみにこのサイトはマルクス当人の階級闘争史観そのものというより、むしろその出版をパトロネージュしたフェルディナント・ラッサール(Ferdinand Johann Gottlieb Lassalle、1825年〜1864年)の社会民主主義的発想の大源流に注目。
- こうした時間経過を伴う変遷について「種(Species)の合目的(Purpose)な系統進化(Systematic Evolution)」なる時間単位フォーマット概念を提供したチャールズ・ダーウィン(Charles Robert Darwin, 1809年~1882年)「種の起源(On the Origin of Species、初版1859年)」刊行。ただしその展開はあくまでラマルク的形質獲得論ではなく、確率論的生存バイアスに基づくとした。増販に際してはさらに性淘汰/性選択(Sexual Selection)概念に言及し「格好いい/可愛い」尺度だけで生き延びる生存戦略を肯定している。
こうした諸概念の重なり具合を、どうやって素因数分解(Prime Factorization)とか偏微分(Partial Derivative)といった数理(Mathematical Things)に落とし込むかが目下の課題な訳ですが、ここにきて、これまで「無政府主義の一つの究極形」程度度とたかをくくってきたアントニオ・ネグリのマルチチュード論に関する異説が…
政治哲学者で元パドヴァ大学政治社会科学研究所教授であるアントニオ・ネグリとデューク大学文学部准教授であるマイケル・ハートは、共著「帝国(Empire、2000年)」および「マルチチュード:帝国時代の戦争と民主主義(Multitude: War and Democracy in the Age of Empire、2004年)」において地球規模による民主主義を実現する可能性として「国境を越えるネットワーク上の権力」という概念を提唱した。
ネグリによればこれは近代以降に登場した超大国の覇権によるグローバルな世界秩序である帝国主義に対抗し、これからの世界を変革し得る存在としてそれぞれの国家の国や企業を含む超国家的なネットワーク上の権力として位置付けられる。
また、いわゆる19世紀以降の社会主義に代表される革命に見られた多様性と差異性を無視したこれまでのありかたとは異なり、統合されたひとつの勢力でありながら多様性を失わない、かつ同一性と差異性の矛盾を問わぬ存在としている。
1975年の党大会で、エンリコ・ベルリンゲル書記長により歴史的妥協(Historic Compromise)の方策が提案された。この大会で、〈民主主義的、反ファシズム革命の第二段階〉と現状を位置づけ、当時の与党であったキリスト教民主党との提携によって政権を獲得しようと試みた。
それは、イタリア共産党がそれまで掲げていた、北大西洋条約機構(NATO)体制からの離脱という方針を放棄するものでもあった。1976年の総選挙で得票率34%を獲得したが、政権入りはならず、1977年にキリスト教民主党との協定も成立したが、やはり政権には加われなかった。
1991年2月、党名を〈左翼民主党〉と改め、社会民主主義の潮流に加わることになった。このとき、その方針に従わないグループは共産主義再建党を結成した。
ネグリは青年期には筋金入りの組織労働運動の活動家になっていた。とくに1956年のハンガリー動乱(マルクス主義陣営ではしばしばハンガリー革命とよぶ)のさなかに創刊された「クァデルニ・ロッシ(赤い手帖)」に参画したのが大きく、そのときからは公然と政治活動と表現活動にとりくんだ。
その第一弾がマッシモ・カッチャリらと携わった「クラッセ・オペライア(労働者階級)」創刊と「オペライア主義(労働者主義)」や「オペライスム・イタリアン(イタリア労働者主義)」の計画である。このときネグリはすでに「労働の拒否」というラディカルなスローガンを出している。
この「労働の拒否」を行動メッセージとした活動は、のちにネグリが「ビオス」という言葉でまとめたスタイルになっていく。ビオスは「生のスタイルをともなった活動あれこれのアクチュアリティ」といった意味だと思うのだが、そこにネグリは「知識と行動はともにビオスでなければならない」という付加価値をこめていた。これが「生政治性(ビオポリティーク)」の発芽になった。
フランスでも日本でもアメリカでもそうだったのだが、イタリアの学生運動が頂点で火を噴いたのは1968年である。翌年、トリノのフィアットの自動車工場で大争議がおこって労働者も大きく動き、これが連鎖してヴェネチアのそばのマルゲラ化学工場のペトロシミコ運動などとなって、大衆的な反乱状況を現出させた。
このなかでイタリア共産党も四分五裂して、多様な運動主体を演じる。平等賃金運動や代議制批判などの異質な動きも出てきた。この活動は日本でいえばさしずめ"反代々木"にあたる。ではそのころのイタリアの"代々木"はどういう状態にあったかというと、おぞましいことに共産党とキリスト教民主党が手を組んだのである。ネグリはそれを深層心理に戻してアブジェクシオンと言わないかわりに「スターリニズムとカトリシズムの異常な同盟」とよんだ。
"反代々木"の一角にいたネグリはただちに次のステップに踏み出した。1969年創設の「ポテーレ・オペラティオ(労働者の権力)」に参加し、その指導的役割をはたしていったのだ。これは当初はレーニン主義的な立場から労働者の組織化と武装蜂起を主張していたグループなのだが、大衆反乱の状況が出てきたことをたちまち反映して、スターリニズムとカトリシズムを野合させた代々木的な党中央を批判する急先鋒に変化していった。
けれども、ここがユニークなのだが、"反スタ・反カト"ではセクトに堕していくと判断し、「ポテーレ・オペラティオ」は1975年には自発的に組織(セクト)を解体し、労働者の自発性を重視する大衆的運動体をめざすようになったのである。ネグリはつねに新左翼セクトの党派性を求めるタイプではなかったのだ。これが「アウトノミア(労働者自治)」運動の出発となる。
アウトノミア運動のコンセプトはただひとつ、自治である。運動は一挙に高揚し、拡張していった。硬直体制化してしまった共産党の外部に多彩な活動を展開した。フランスでもそうだったのだが、イタリアでも自由ラジオを駆使し、工場や住宅を占拠し、まさにカルチャー路線から武断派までが入り乱れた。ネグリはすぐさまアウトノミアの理論的指導者ともくされて、『支配とサボタージュ』などの一連の政治文書を書きまくる。
どうやら提唱者当人が、自らの理論における無政府主義性を否定してるらしいのです。
柄谷行人さんは『世界共和国へ(岩波新書、2006年)』でネグリとハートのマルチチュード論を批判していた。
今回、読み直してみると、柄谷さんの批判は、ネグリとハートの「マルチチュード」論は、プロレタリア革命論のプロレタリアートを「マルチチュード」に置き換えたに過ぎないもので、その国家廃棄論はプルードンのアナーキズム(柄谷さんは「アナキズム」と書く)の過ちを繰り返すものに過ぎない、ということだ。
これがアナキズム(英:Anarchism、仏:Anarchisme、露:Анархизм) でないなら、それは恐らく世界市民主義(CosmopolitanIism)なのです。
全世界の人々を自分の同胞ととらえる思想。世界市民主義・世界主義とも呼ばれる。コスモポリタニズムに賛同する人々をコスモポリタン(訳語は地球市民)と呼ぶ。
- 古代ギリシャのディオゲネスが初めて唱えた。その背景にはポリスの衰退により「ポリス中心主義」が廃れたこととアレクサンドロス3世(大王)の世界帝国構想があった。
- 紀元前3世紀初頭にストア派のゼノンが「破壊的な衝動は判断の誤りから生まれるが、知者すなわち「道徳的・知的に完全」な人はこの種の衝動に苛まされることはない」とし自らに降りかかる苦難などの運命をいかに克服してゆくかを説いた事に由来し、しばしば「禁欲主義」と呼ばれるストア哲学では禁欲とともにコスモポリタニズムを挙げて人間の理性に沿った生き方を説いた。
世界市民主義 コスモポリタニズム Kosmopolitismo
アレクサンドリアの世界帝国によってギリシャ都市文化は中央アジアまで広まり、共通ギリシャ語(コイネー)が東地中海の広い地域で使用さ れ、 ギリシャとオリエントという当時の西洋の二大文明が融合してヘレニズム文化が生まれた。この文化的土壌の中でスパルタ人やアテネ人、ペルシャ人、テーバイ人などと別れていた人類はだんだんと混淆し始める。こうして東地中海・オリエントにおいてコスモポリタンな世界ができあがってくる。「コスモ ポリタン」と言ってしまえば聞こえはいいが、実際は混沌と混乱の世界である。そこでストア派のゼノンらは、ポリス(都市国家)のそれぞれのノモス(慣習法)に従うよ りも、世界的な自然法であるロゴス(理性)によって定められた世界共通の法に従って生きるのた方が良い、という思想を唱えた。これが系統立て られた世界市民(コスモポリテース)の思想の端緒である。自分 の国に他者である異国人が増えてきた。そして彼らが自分の国の慣習法に従わない。そこで「ならば彼らを追い出そう、迫害しよう」と発想になるのではな く、今までのその国だけで通用してきた慣習法をやめて、普遍的な自然法に解決の道を 見出す、という発想だ。ストア派のロゴスの考えはこの世界が一体化しつつあったヘレニズム時代 が求めていた思想であるといえよう。
西欧の人間平等思想の源は古代民主制の影響もあるが、思想的にはストア哲学の理性重視の思想がある。すなわちいかなる人間にも(障害者を別にして)理性があって、適切な教育を行えばだれでも理性を発揮できるので、人間には本質的に区別はないという考え。
— kitagawa_a (@sawayakamihaeru) 2015年4月30日*「障害者を別にして」なる発想が、この観点に恐るべき優勢主義を吹き込んでしまうのである。
ちなみにほぼ同時期(紀元前4世紀末~紀元前3世紀)に発祥し、「感覚に基づいた穏やかな快楽(アタラクシア)を求めることは正しく、必要以上に死を恐れたり不安に思ったりする事は無意味」と説き、しばしば「快楽主義」と呼ばれるエピクロス派もまた「過剰な快楽への耽溺は苦痛に転嫁する」と説明している。- 近代ではカントが穏健なコスモポリタニズム的思想を打ち出した。
世界市民主義 コスモポリタニズム Kosmopolitismo
ここからジョン・スチュアート・ミルが「自由論(1859年)」で展開した「文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならないが、他人に実害を与える場合には国家権力が諸個人の自由を妨げる権利が生じる」までは割と一直線とも。カントは「永遠平和のために」の中で「自然の意図のようなものがないか、 を調べるしかなくなるのである。人間という被造物が、固有の計画を推進していないとしても、ある自然の意図にしたがった歴史というものを考えることはできないだろうか」と問題提起している。そして自然の意図に従うならば、人類の理性は永遠平和を希求している。その永遠平和を達成するために国際的な平和連合を設立しなければならないと主張している。なぜなら人間の素質を人間が発展させて利用するには、発展のための仕事を人間ひとりひとりの個人では なく、人類という世界的な次元で行う他はない。というのは人間という生物の寿命が自分の素質を理解するには短か過ぎるので、個人が途中まで行った理性の仕事を人類が共有して何世代にも渡って継承し、完成させていかなければ理性は発展してはいかないと考えたからだ。ストア派のように世界的で普遍的な理性があるから全人類はそれに従わなければならない、とするのではなく、人間の中にある素質をお互いに発展させ合うために国際的な国家の連合体を作ろうとしたのだった。これはカントの、人間が互いを人格としてとらえて扱うことで互いの人格を目的として高めあっていくという「目的の王国」と近い思想なのかもしれない。
- コスモポリタニズムの発展的・急進的形態として世界国家構想が挙げられる。これは「人種・言語の差を乗り越えた世界平和には全ての国家を統合した世界国家を建設すべきである」という考え方に立って主張されたものである。現在においてこの構想に似た理想を掲げている組織はEUだが、EUはあくまでヨーロッパ圏内の統合を目指すものとされており、世界国家或いは世界政府を志向するものではない。
世界市民主義 コスモポリタニズム Kosmopolitismo
「歴史上の世界市民(コスモポリタン)は「ディアスポラ(Diaspora, 郷土を喪失した人間)」であった。中には望んでそうなった者もいるが、多くのコスモポリタンは自分の望まぬ理由や、やむにやまれぬ事情によりコスモポリタンとなっている。なるほど「私は世界市民です」という言葉に人は何かしら憧れを抱かざるをえない。その憧れはその人が負っているだろう世界と言うものの広大さとその自由さ、そして自足できる逞しさに由来する。しかし実際はコス モポリタンとは祖国や都市、共同体、暖かい囲炉裏を失った悲しさや寂しさを胸内に秘めた人間のことであった。国家や共同体、家族の中でぬくぬくと育った人 間が望んでなるような生き方ではなかったのだ。
シェイクスピアは史劇の世界では思いっ切り当時のイングランド人の愛国史観に迎合したので、心を自由に遊ばせるには国外を舞台に選ばざるを得なかったとも。そして最終的には土着的な田園喜劇の世界に到着する。
世界市民主義 コスモポリタニズム Kosmopolitismo(逆に)シェイクスピアの劇の舞台はどこであったのだろうか? デンマーク、ヴェニス、ヴェローナ、スコットランド、アテネ、ローマ…そのほとんどがイングランドでは無かった。それでも彼は 英文学 を代表する作家である。小説や物語 の題材がたとえコスモポリタンなものや外国のものであってもその作家が優れた作家であれば、小説はその記述言語の共同体の特徴を出す、というのがボルヘスの主張である。村上春樹の小説は日本が主な 舞台だが、日本を際立たせるもの(寿司、富士山、桜、芸者、着物)はほとんど出てこない。彼が題材にするのはアメリカ連合州の音楽や文化、小説であり、彼の本は世界の多くの国で読まれている。しかしだからといって村上春樹はコスモポリタンな作家とは思えない。彼はあくまでも日本的過ぎるくらいに日本的な作家である。コスモポリ タンな小説というのは真に土着的な文学なのである。
日本文学についてはむしろ「瓶詰地獄(1928年)」「死後の恋(1928年)」といった夢野久作の幻想小説、「聖アレキセイ寺院の惨劇(1933年)」「失楽園殺人事件(1934年)」「黒死館殺人事件(1934年〜1935)」といった小栗虫太郎(1901年〜1946年)の衒学的推理小説や秘境での冒険を描いた「人外魔境シリーズ」を異国情緒あふれる日本的コスモポリタニズム小説として挙げるべきなのかもしれない。
軍国主義台頭を背景に当時の日本文学青年達は「自分たちの見知った日本の消失」にある種のメランコリズムを覚えていたとも。当時の幻想範囲は大日本帝国の帝国主義的展開の拘束下にあったが、その反動か戦後は中東や中央アジアや南米などに向かう。宮崎駿「風の谷のナウシカ(1982年〜1994年)」。五十嵐大介「魔女(2003年〜2005年)」「海獣の子供(2006年〜2011年)」。そういえば「海外脱出した新左翼運動家が国際謀略の世界において日本人を代表して戦う」船戸与一のハードボイルド小説の主舞台もまた南米・中東・アフリカなどだった。
- 第二次世界大戦後のアメリカ合衆国はグローバリズムを掲げて世界各国に政治的・軍事的に介入をしており、事実上世界政治に最も実行力を持つ政府である。しかし伝統的にはモンロー主義に代表される内向き・地域主義志向が強く、第一次世界大戦でモンロー主義から脱却した後も孤立主義的行動をしばしば採っている。
それに対し、過去最もコスモポリタニズムを指向した国家はソビエト連邦といわれる。ロシア革命を起こしたボリシェヴィキは、ロシア革命を世界革命の発端として考えていた。しかし、ソ連が期待していた西欧諸国での革命は起こらず、ソ連もスターリンが実権を握った後は一国社会主義に傾き、コスモポリタニズム的な世界革命論を唱えたトロツキーは追放された。
トロッキズムは1930年代にアメリカ共産党に加盟した「ニューヨーク知識人」経由でネオコン(Neoconservatism、新保守主義)に継承され、1970年代から独自の発展をして主に共和党政権時のタカ派外交政策姿勢に非常に大きな影響を与えたとも考えられている。
- 帝国主義もある意味では世界国家を目指す動きであるともいえる。帝国主義はしばしば普遍的理想を掲げるが、その統合のやり方が「世界の人々を同胞として捉える」のではなく、特定(当該国)の国家や民族が絶対的優位に立ち、自国は他国をも膝下に統べる資格があると唱える統合であるため、通常コスモポリタニズムとは呼ばない。
「中華王朝の文明観」や「フランス中心主義」も同上?しばしば誤解されるがアナキズムと同一ではない。アナキズムが政府を否定する考え方なのに対しコスモポリタニズムは国家や政府の存在を肯定しているのである。
それほど状況に改善は見られません。とりあえず以下続報…