諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【サヨナラ2010年代】まるで変わってしまった既存マスコミとSNSの関係。

古投稿を読み返すうち、引用元の一つとして発見。

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 過去からのメディア論 Facebookは大統領選を左右してもよいか:情報倫理学からの視点(2016年)

まず,表現・言論の自由はなぜ必要か考えよう。

  • John Stuart Millは,言論の自由における社会的利益を挙げる。彼は,『自由論』で,私たちは絶対的に無謬(むびゅう)ではありえないから,多様な意見に耳を傾けなければ,真理に到達しえないと議論し,この観点から,言論の自由を擁護する。これが,言論・表現の自由の社会的利益の一つである(第2章)。

  • 米国においては,「言論の自由」を擁護するに当たって,「言論の自由市場/思想の自由市場market of ideas)」の比喩が使われることがあるが,このアイデアの基は,Millの議論だともいわれる。

  • Millの主張の根拠は,およそ他者に危害を加えない限りは,判断能力のある大人の行為や生活に,政府や社会は干渉すべきではないという「他者危害原則危害原則)」である。

ところで,世論に関する詳細な検討を加えたジャーナリスト・社会学者のWalter Lippmannによれば,マスメディアの機能は,私たちが環境に反応するために必要となる情報・知識を提供することである。

  • ただし,私たちは,複雑な環境そのものを知ることはできない。現代風にいえば,認知限界認知心理学者Herbert A. Simonの用語でいえば「限定的合理性」)があるゆえに,複雑すぎる環境を認識できないので,環境を単純化するため,現実を抽象化したり一部切り取ったりする認知図式を活用せざるをえない。

  • Lippmannが指摘した「ステレオタイプ」も粗い認知図式の一種である。この認知図式を通して得られた疑似環境に対して,私たちは反応して行為する。

  • マスメディアは,私たちが直接経験できるわけではない時間的・空間的に離れた場所で起こった出来事について,その解釈も含めて環境に関する情報・知識を提供する。

  • マスメディアが提供する疑似環境に応じて私たちは自分の意見をつくる。そして,集合的な公衆の意見,すなわち世論public opinion)を形成するに当たっても,マスメディアが提供する疑似環境の情報・知識はとても重要である。そして,世論は民主主義社会を動かすものであるから,世論もとても重要である。

  • ただし,Lippmannによれば,私たちは,皆が皆,自発的に政治上の全問題について健全な意見をもつようにはならないだろう。自分たちに影響ある,あらゆる社会的出来事について意見をもとうとすれば,苦労も時間も必要である。ところが,皆自分の仕事で忙しいのだから,誰も自分からあらゆる社会的出来事について意見をもちたいと思うとは考えられない。むしろ「誰かが,皆が直接見聞できない世界の現実に基づいて,理解が容易な図面をつくり,そして,自余の人々はそれに従うこととなるだろう。そして,社会が複雑になればなるほど,この図面づくりを行う専門家が多く必要とされるだろう」とLippmannはいう。

  • 当然新聞などのマスメディアの記者・編集者がその図面づくりの専門家として期待されるわけだが,新聞のニュースは現実の出来事すべてを取り上げて,鏡のように正確に反映したものだというわけではない。何か現実の中から突出してきた事実の兆しのようなものを取り上げ,それを認知図式に従ってわかりやすく書いたものにすぎない。

  • ニュースは一つの事件の存在を合図し,その合図の中に隠されている事実に光を当て,相互に関連付ける。そして,人々がそれをよりどころとして行動できるような現実の姿を(一定のゆがみをもつものとして)浮かび上がらせる。社会的諸条件が認知・測定可能な形を取るようなところ以外では,ニュースと真実は同一物ではない。

Lippmannは,読者の意見や好みの偏りによって,新聞の論調が決められる危険性があると述べている。ところが,個別の新聞の政治的見解やその他意見の偏りを正すべきだとは,主張していない点に注意しよう。

  • Lippmannの議論を補うならば,不完全かつ歪曲(わいきょく)を伴っても現実の環境を推定させる疑似環境を提供する機能は,個別の新聞やメディアが提供するわけではなく,多様な政治的立場や読者の好み・偏りを反映する多数のメディアが全体としてつくりあげている一種のエコシステムが担うものだと考えられる。このエコシステムを健全に維持するため,言論・表現の自由が必要なのである(ただし,言論・表現の自由さえあれば,言論のエコシステムが健全になるとは限らない)。

  • Millが指摘するように,私たちは可謬的(かびゅうてき)存在であるから,社会には多様な言論が存在する方が,さまざまな対立する意見を比較検討して,真理へと至ることができるようになる。その多様な意見や解釈を提示する多様なメディアがあってこそ,私たちの直接見聞が届かない領域を含む現実へと至ることができる。ここに言論・表現の自由の必要性がある。

  • すなわち,LippmannMillの議論に従えば,多種多様な政治的立場やその他の意見・解釈が存在し,同時に,それらが自由に表現・出版できるという社会であれば,個別の一つの記事や番組,あるいは個別のメディアの政治的立場やその他の意見・解釈が偏向していても構わない。言論・表現の自由の下で,私たちはさまざまな意見や解釈を戦わせることで,やがてはそれらの不完全な点や誤りなどを認識し,より真理へと近づいていくことができるはずだからである。そして,社会的意思決定に役立つように,私たちを取り囲む環境をよりよく認識できるようになる。

翻って,現在のインターネットはどうだろうか。

  • SNSは,多数の知り合いやフォローする有名人のシェアするニュースや意見,解釈などに満ちていて,私たちにとっては,まるごと一つの世界や現実の反映のようにみえるものである。

  • 一見したところ,従来のメディアの世界のような多様性があるようにみえるものの,自分自身が選択した,あるいはSNS側が気を利かせて()私好みに調整してくれたニュースや意見,解釈が提示されているにすぎない。したがって,現実を反映する疑似環境としては極めて限定的であるとともに,私個人の好み・関心が影を落とす認知図式によってゆがんでいると考えられる。

  • そのうえ,SNS側で,それと知らせずにそのSNSのよしとするニュースを提示し,SNSが好ましくないとするニュースをブロックするならば,当然のことながら,現実に対する見方はさらに偏ったものとなる。

ただし,マスメディアなどのメディアが人間に及ぼす影響はそれほど単純ではない。人間は自分自身の必要や興味・利害によってマスメディアの情報の取捨選択や解釈を行うという理論は,すでに60年代には,「利用と満足」の理論として,マスコミュニケーション効果研究にはあった。さらに,近年においては,情報の受け手が所属するサブカルチャーの影響を受けると指摘する研究もある。

  • SNSがやっかいなのは,おそらくマスメディアよりも強く人々の意見を左右するのではないかと推測できる点である。なぜならば,サブカルチャーの影響を人々が強く受けるとしたら,SNSでは,自分が所属するネットワークの人々の意見や解釈と,SNSの取捨選択したニュース,意見・解釈などが混在して提供されることから,後者を前者と混同して,私たちはSNSが取捨選択して提示した情報・意見・解釈をより強く受容しやすくなるかもしれない。この仮説に関しては,経験的研究を待つほかない。

私たちはメディアによる影響を受ける一方,人的ネットワークにおけるおしゃべりや意見・解釈の交換によって,サブカルチャーや社会全体の「世論」づくりに参加することもできる。この点で,SNSボトムアップでの世論づくりの重要なツールとして期待しうる。しかし同時に世論調査の道具として利用される危険もある。SNS側の自主的なルールづくりや,社会に対する「こうしたことはしない」という宣言(いわば,学協会の倫理綱領のようなもの)が必要と思われる。

全ての大源流は、所謂「1859年革命」 。

  • フランス革命当時粛清されたジロンド派数学者コンドルセ伯爵Marie Jean Antoine Nicolas de Caritat, marquis de Condorcet, 1743年~1794年)が辞世の句として残した大数の法則に立脚した確率論的進化論

  • それを継承して古典的自由主義女性解放論近代的人種平等論に数理的裏付けを与えた英国人数学者ジョン・スチュアート・ミルJohn Stuart Mill、1806年~1873年)の「 自由論(On Liberty, 1859年)」における「文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならないが、他人に実害を与える場合には国家権力が諸個人の自由を妨げる権利が生じる」なる提言。

  • これに対して我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものは、実際には社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎないと疑ってかかれ」なる懐疑精神を突き付けたカール=マルクスの「経済学批判Kritik der Politischen Ökonomie、1859年)」の刊行。ちなみにこのサイトはマルクス当人の階級闘争史観そのものというより、むしろその出版をパトロネージュしたフェルディナント・ラッサールFerdinand Johann Gottlieb Lassalle、1825年〜1864年)の社会民主主義的発想の大源流に注目。

  • こうした時間経過を伴う変遷について「(Species)の合目的(Purpose)な系統進化(Systematic Evolution)」なる時間単位フォーマット概念を提供したチャールズ・ダーウィンCharles Robert Darwin, 1809年~1882年)「種の起源On the Origin of Species、初版1859年)」刊行。ただしその展開はあくまでラマルク的形質獲得論ではなく、確率論的生存バイアスに基づくとした。

     

    増補に際してはさらに性淘汰/性選択(Sexual Selection)概念に言及し「格好いい/可愛い」尺度だけで生き延びる生存戦略を肯定している。

このサイトの重要な主題の一つである「認識可能範囲外を跋扈する絶対他者」とも関係してくるので、とりあえずピックアップ。それにつけても「SNS上を流れる情報は、誰かの価値観に基づいて編集されている可能性が高く、全く信用ならない」「その点既存マスメディアは歴史も長いし比較的信用が置ける」なんて、今宣言したら間違いなく炎上物ですね。どうしてこうなってしまったのか…