以下の投稿でも述べてきましたが、中世イスラム世界を代表する歴史哲学者イブン・ハルドゥーン(1332年~1406年)のアサビーヤ(عصبية 'aṣabīyah)論(文弱化した都市住民が部族的紐帯の強固な辺境民騎兵隊に征服され、かつ新たな支配者となった彼らも次第に文弱化して都市住民に変貌していく王朝循環史観)の観点では中華王朝時代の全てが「古代」に分類されてしまいます。
そしてこのサイトは「(イブン・ハルドゥーンが生きた時代には想像し得なかった)必要にして充分なだけ火器と機動力を装備した常備軍を中央集権的官僚制が徴税によって賄う主権国家体制(Civitas sui Iuris)間の国際協調社会の登場(体制としての完成は第一次世界大戦(1914年~1918年)後で、その結果国家間の競争が全てと見做される総力戦体制時代(1910年代~1970年代)が到来)」を「近世時代(Early Modern Age)」としてきました。
- 実際、中東でオスマン帝国のイェニチェリ鉄砲隊(常備軍)がサファヴィー朝のクズルバシュ騎兵隊やマルムーク朝の戦奴騎兵隊を撃破し、インドでムガル朝の鉄砲隊や大砲隊がローディー朝を撃破して以降「部族的紐帯だけが武器の辺境騎兵隊のクーデター」に成功の目はなくなる。ただそれで平和が訪れると「主権国家の常態化」にまでは至らず、それでオスマン帝国は近代化に出遅れ、ムガル帝国に至っては大英帝国に併合されてしまう。
なので、その条件に従うなら必然的に戦国時代(15世紀後期~16世紀後期)終焉後の安土桃山時代・江戸幕藩体制下においては必要な条件を満たす様な進歩的展開は現れず、やっと版籍奉還(1869年)廃藩置県と藩債処分(1871年)秩禄処分(1876年)を一気に成功させてフランス郡県制を模した近代的中央集権国家に移行した大日本帝国時代(19世紀後半=20世紀前半)において必要充分条件が一気に満たされたなる解釈に陥ってしまう訳ですね。全体構造としては、宗教や王統問題を巡るつまらない大陸内部の内紛の連鎖から距離を置いてカリブ海に進出した「商業革命の国」大英帝国が近代最初の覇者として台頭してくる歴史的展開になっているのにも関わらず…
でも、この説明を甘んじて感受して仕舞えば、例えば「日本だけが自力近代化を達成出来た奇跡」などの説明が不可能となってしまいます。ならば「近世日本」では「不毛な氏族戦争(Barren Clan War)」の代わりに一体何が起こっていたのでしょうか? この観点、「大英帝国における他国に先駆けての産業革命導入」を分析する上でも、重要…
江戸中期くらいだと、当時の日本国家の整然とした秩序には当時のオランダ人なんかもびっくりしていますね。すべての街道が首都(江戸)を起点とし、全国津々浦々までその首都からどれだけの距離にあるかが完全に把握されているという。
— まとめ管理人 (@1059kanri) 2020年7月7日
江戸時代中期だと、ちょっとしたことですぐに刃傷沙汰になる野蛮人モードからも脱却していますしねい。
— 内田俊明 (@uchida_t) 2020年7月7日
島国だから、独自に発展したのですかね?
— まほろば (@mahorobasama) 2020年7月7日
参勤交代の功なんですかね。
— 🌻⚙🌾🐯マリー・R.E.D.mine🌺🌻 (@vitaminemine073) 2020年7月7日
でも馬車道が無かったのが興味深いです。
— boekveld (ぼえなんとか) (@boekveld01) 2020年7月7日
「馬車道」というか、当時は人間が牽引する「大八車」による輸送量が爆発的に急増して所謂「交通事故」問題が急浮上した時代だったんですね。
とりあえずメモがてらの投稿。すなわち以下続報…