諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】ギリシャ人は何処から来たの?

とりあえず私は原ギリシャ民族形成過程について概ねこう考えてきました。

f:id:ochimusha01:20200802061318p:plain

  • 紀元前2000年期~紀元前1000年期ユーラシア大陸中央部で進行した乾燥化が現地の半農半牧の定住民に遊牧民化か南下を強いた。
  • 彼ら自身が「紀元前1200年のカタストロフ」を引き起こした訳ではないが、ギリシャ住人が漸進的に諸勢力がそれぞれ自立した半農半牧を営む様になる過程で大きな役割を果たし、その結果ドーリアアイオリス人といった集団概念が形成される。
  • そして詳細は不明だが紀元前8世紀以降人口爆発が起ってアナトリア半島沿岸部や黒海沿岸などへの植民市建設ラッシュが起り、地中海東部においてフェニキア商人から制海権イニチアシブを奪取する。

あまりに多様で多態過ぎた彼らは、おそらく集団アイデンティ形成の基盤をむしろ自分達のルーツでなく(ミノス/ミケーネ文明に由来する)現地伝統に求めたのです。かくして共通の先祖を英雄ヘレネスとしたり、ホメロスイーリアス」「オデッセイヤ」ヘシオドス「神統記」「労働と日」が編纂されたりするうちに故郷をアナトリア半島ペロポネソス半島内陸部のアルカディアとする壮大なフィクションが…

むしろ黒海沿岸からアナトリア半島バルカン半島ペロポネソス半島シチリア島やイタリアに広がり、そのうち「キプロス島クレタ島→エイボイア島」といったミノス/ミケーネ文明系のラインを自らのオリジンに選んだ集団がギリシャ人になった?

*そして「ドーリア人商圏」を継承する形でレヴァンと貿易が…

さらに古代メソポタミア文明形成期には別途「交易拠点を欲しがる遊牧民や狩漁民のニーズを鋭く察知して定住した遊牧民や狩漁民」なんてややこしい存在も存在するので注意が必要なのです。

ケイト・フィールデンKate Fielden)は、次のように報告している。

  • 紀元前5000年頃最初期の村落が形成され、紀元前2900年までには、広さ8~10ヘクタール(20~25エーカー)の都市に成長した。その頃の都市の建物は、壁がレンガ造りで屋根は萱葺きとなっていた。 そして紀元前2050年までには、都市は衰退した(外部から侵略された形跡がないため、「衰退」と考えられえる。)。

グウェンドリン・レイクGwendolyn Leick)によれば、もともとは3つの異なる生活様式をもった集団が相互に交流し、合流することによって形成されていったという。

  • 第一の集団は農村集落であり、起源は最も古い。これらの集落は北方からきたサーマッラー文化に由来する灌漑農業が基盤になっていると考えられる。彼らは運河を建設し、日干し煉瓦による建築を行った。

  • 第二の集団はペルシア湾沿岸の漁労・狩猟文化に立脚していた。これら集団の存在は、海岸沿いに貝塚が広く分布していることに裏付けられている。彼らは葦の小屋に居住していたとみられる。
  • 第三の集団は羊・山羊を放牧していた遊牧民の一群であり、エリドゥの建設に貢献した。彼らは半砂漠地域にテントを張って居住していた。

これら3つの集団は、エリドゥ市建設の最初期において、相互に交流関係が見られた。また、市の郊外においては、導水設備を伴った小さな窪地の中に日干し煉瓦で建設された大寺院を中心に、上記三者とは別に宗教的な集団が拠点を持っていた。

 この時期から既に存在していた「郊外の宗教的集団」って一体何者?