諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【サヨナラ1970年代】「現実の限界」を想像力が軽々と凌駕していく時代?

最近の若者はフランシス・フォード・コッポラ監督映画「地獄の黙示録Apocalypse Now, 1979年)」のヘリコプター空襲シーンを鑑賞すると「しょぼいCG」とか思うそうですが…

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同様にCGのなかった時代の大規模動員の凄さが現代の若者に伝わらないのがスタンリー・キューブリック監督映画「スパルタカスSpartacus, 1960年)」だったりします。

そして日本映画だと…

まぁ「冗長」と言われれば確かに「冗長」なんですが、それは歴史的にはそれなりに現実に沿った設定だった訳で、むしろそれが「ショボい」と切り離されていく時代について新たな考察が必要となる話かと…そしてそうした時代に流れの中で黒澤明監督映画「(1985年, 製作費26億円)」や角川春樹監督映画「天と地と(1990年, 製作費50億円)」はいつしか時代遅れのレッテルを貼られていったのです。

 

この流れにギネス・ワールド・レコーズに「最も興行赤字が大きい映画」と記載される「カットスロート・アイランドCutthroat Island, 1995年, 製作費・宣伝費合わせて1億ドル以上。その1割強ほどしか回収出来なかった)」を加えてもいいかもしれません。


当時の「発想の飛躍」の端緒は「 バリー・リンドン(Barry Lyndon, 1975年)」で思った様な評価を得られなかったキューブリック監督が「シャイニング(The Shining, 1980年)」撮影に邁進していった流れに見出せるのかもしれません。

それは同時にピエル・パオロ・パゾリーニ監督の遺作映画「ソドムの市(Salò o le 120 giornate di Sodoma, 1975年)」や「フェデリコ・フェリー二のカサノヴァ(Il Casanova di Federico Fellini, 1976年)」といったイタリア芸術路線がメインストリームから切り離されていく過程でもありました。

そう、当時の観客が観たかったのはむしろ「2001年宇宙の旅(2001:A Space Odyssey, 1968年)」であり、さらにいうなら「ロッキー(Rocky, 1976年)」であり「スターウォーズ(Star Wars, 1977年)」だったのです…

そして合戦物なら「ロード・オブ・リング(The Lord of the Rings)シリーズ(2001年~2003年)」や「ホビットの冒険(Hobbit)シリーズ(2012年~2014年)」、海賊物なら「パイレーツ・オブ・カリビアンPirates of the Caribbeanシリーズ(2003年~)だったのです。

そういえば「指輪物語」「ホビットの冒険」を映像化しようという試み自体も1970年代からありましたが、やはり当時の発想では扱い切れず、その夢の残滓がトップクラフトを経てスタジオ・ジブリに継承されています。そこに浮かび上がってくる「風の谷のナウシカ」の劇場アニメ版(1994年)とそのマーチャンダイズ商品(何故かただひたすら王蟲を殺戮し続けるシューティングゲームや、手足を切り飛ばすボードゲームなど残虐な内容が多く宮崎駿監督をゲンナリさせた)と原作漫画版(1982年~1994年)の差分…

どうやらここにも「我々の認識可能範囲外を跋扈する絶対他者」が可視化された瞬間があった様だ?