過去に「戦国大名が楽市楽座を通じて選出した御用商人に丸投げする形で実現した自給自足経済が、参勤交代実現の為の交通インフラ整備を契機に登場した株仲間、すなわち富農と富商の全国規模ネットワークに元禄時代頃までに完全駆逐されてしまう話」を投稿しました。
実際にはその後、株仲間が新たな特権商人化して全国の地域経済を牛耳る様になり、これを打倒すべく「仲間外商人」なる新興富裕層が台頭してくる様です。
しかしながら天保時代(1831年~1845年)以降も体制弛緩による経済的混乱は広がる一方。そして以下の投稿では「紀元前1200年のカタストロフ」を主導した「海の民」を当時を代表する任侠の一人である国定忠治に擬えてますが…
現実は私の想像可能な範囲を遥かに凌駕していたのです。
今日の考証ブラザーズは幕末ヤクザの銃撃戦をしゃべりました。それで海洋港湾型ギャングの清水次郎長と山岳ゲリラ型の黒駒勝蔵の襲撃方法の違いなどなど。本当はもうちょっと江戸村落の四季打鉄砲の話なども喋りたかったのですが。江戸時代のガンコントロールという視点も。
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月5日
近代犯罪組織という側面で見た幕末博徒という設定の切り口は面白いと思うのだが。幕末博徒はけっこう銃をよく使いこなしので、伝統的な股旅ものや次郎長伝ではない、近世ギャングのヤクザものという企画はないのだろうか。
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月5日
ただ、国定忠治や清水次郎長がギリギリで、笹川繁蔵や大前田英五郎も馴染みがない時代になっているからなぁ。旅人というシステムに馴染みがないと、このヤクザのしきたりが戦闘員確保のインフラに繋がっているという話もしにくい。
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月5日
嘉永に甲州や駿河を荒らし回った石原村無宿幸次郎率いる21名の武装博徒グループと、伊豆駿河支配の韮山代官江川英龍が派遣した代官手代率いるドントル銃装備の捕手たちの戦いを、時代劇版「ヒート」のノリで描くとかだと面白そうではないか!思うのだが。
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月5日
木枯らし紋次郎も浪曲の清水次郎長、天保水滸伝も好きだけど、もうすこしハードなアウトロードラマとして近世ヤクザを描いてみたい!だって、旅姿で長脇差を振り回すアクションの様式美も良いが、槍と鉄砲で武装し、喧嘩兜を着込んで戦い、夜陰に小舟で敵地に潜入するヤクザものが見たいではないか!
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月5日
幕末博徒が鉄砲を使うのは、村になる鳥獣避けの四季打鉄砲(二季打もあるが)を不良子弟なんかが持ち出して遊興・博打に使用していたという側面もあるようだ。
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月5日
この村落に点在する鉄砲は幕末に農兵などにも転用されて、村役人たちがその管理に奔走していたという記録もある。水戸藩では村で治安用の鉄砲が許可されていたらしいけど、実態はどうなんだろう?天狗党とかが関係したのかな?
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月5日
寛応2年に起こった上州一揆では、関東取締出役の要請で治安維持のために作られた改革組合村の役人たちが、こうした銃による農兵の取り立てを推進したが、農民たちがすごい抵抗を繰り返して事実上その辺りの幕藩体制崩壊するなんて話もある。
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月5日
武州世直し一揆では韮山代官江川英龍の江川農兵の他、各組合村の農兵も動員されて、一揆側に発砲して鎮圧ということもあったからなぁ。
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月5日
文政の改革で、関東の治安維持のため天領や旗本領、大名に関係なく隣接する村をまとめた小組合と、それをまとめた大組合にする改革組合村ができる。組合村を指揮するものが名主のなかから任命されて、警察的な役割を担った影響は小さくない。
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月5日
でも、代官や大名の警察組織は消えていないので、改革組合村の警察権とかち合うことはなかったのだろうか?幕末ヤクザと改革組合村との戦いだと、最後に関東取締出役と組合村と盛大な銃撃戦をして自決した博徒勢力豊五郎の一件が有名か。
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月5日
天保から明治まで玉村宿改革組合村大惣代だった渡辺三右衛門陳好の「御用私用年中諸日記」が残っているけど、こういう史料がもっと発見研究されれば、幕末博徒とそれを抑え込もうとする組織の動きが分かるんだろうなぁ。
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月5日
まったく趣旨と外れるが、天保水滸伝の笹川繁蔵と飯岡助五郎のヤクザ抗争を背景にした映画「座頭市物語」は、日本映画きってのBLの傑作だと思うので見てね。座頭市の勝新と平手造酒の天知茂のカップルだよ。
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月5日
勝新は「兵隊やくざ」で田村高廣と日本映画史上最高レベルのBLをやっていると思う。私は「兵隊やくざ」でBLの面白さを多少なりとも理解するようになりました。
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月5日
あれ?幕末ヤクザと銃の話が、なぜかBL話に。いや、ヤクザものはBLと親和性も高いので、そういう視点は重要と信じる!
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月5日
文久の御触書には無宿人が手に余る場合は鉄砲で打ち払って良いという内容があるらしい。鳥獣避けのはずの村の鉄砲が村の防衛に使われた事例も多いし、逆に鉄砲を持ち出す無法者もいただろう。当然裏で鉄砲や硝石を扱う闇の流通路もあった筈。
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月6日
幕末の銃や火薬の密売の研究とかあるんだろうか?村々で暗躍する鉄砲密売人のような。
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月6日
幕末アウトロー研究の第一人者である歴史学者高橋敏氏の「国定忠治の時代」の「忠治の武器」によれば、長脇差か匕首を持ち、槍と鉄砲などを携えるとある。天保13年の三室勘助殺しでは槍で突き殺し、その後で首をかき切ったらしい。
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月6日
鉄砲に関しては、多数の子分が引き連れて歩く際に持たせて、集団示威行為に使用。発砲したかは不明。ただし、伝承だと忠治愛用の短筒があったらしく、国定忠治が当時として武装に意欲を見せていたのではないかと。
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月6日
「赤城の山も今宵限り…」のシーンでも、忠治が短筒を手にして、周囲の子分たちが鉄砲を携えていると想像すると結構印象が違って見えるような。
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月6日
国定忠治は清水次郎長や黒駒勝蔵よりも一世代くらい前の博徒だけど、こういう武装の意識だったから、その後の博徒も同じような武器の所持は考えただろう。
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月6日
ちなみに清水区の次郎長遺物館には、次郎長使用の大縄銃というものが展示されていた。でも、大縄銃とはなんだろう?火縄銃の間違いってことはないですよね。 pic.twitter.com/8ANnKFTdOj
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月6日
フィクションだと1959年映画「次郎長富士」では荒神山の喧嘩に猟師風の人物が参加していて、吉良の仁吉がこれに撃たれるという描写がある。黒駒勝蔵の生涯の小説結城昌治「斬に処す」でも敵対するヤクザが猟師を雇って屋敷を守らせているという記述が。
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月7日
幕末の広島の在村鉄砲の取引の研究があった。藩の農兵政策で農村の鉄砲保有が拡大し、鉄砲取引を生業にする村も現れたらしい。当然正規取引でない闇もあった。金が無い村ではお金を出し合って購入する「鉄砲講」も。https://t.co/bGPCQXuCTi
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月7日
広島に限らずだと思うけど、在村鉄砲の購入は農民たちが自ら購入が基本方針。当然、中古を含む鉄砲市場が形成されて拡大されるが、それなりの規制もある。鉄砲の違法取引が生まれるのに不思議はない。
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月7日
ちなみに北斎が描いた「双穴短銃」。火打式の二連発短銃。だいたい1820年ごろからフリントロック式の拳銃が輸入されて、江戸でも珍重され始めていたという話。https://t.co/wy2KitO5ut
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月7日
千葉県成田市の西ノ下遺跡から出土した拳銃の部品から、当時の和製雷管ピストル(腰差短銃)の分類をまとめた研究。文久には加賀の水銀による雷管製造を記録した資料もあるらしい。文久は1861年から1864年だけど、いつくらいから製造していたんだろうか?https://t.co/WlTaeXtuqP
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月7日
ちなみに清水の次郎長遺品館にある喧嘩頭巾、脚絆、草摺。実際にどう使用したかは分からないけど、映画の喧嘩シーンの長脇差に襷がけ、鉢巻よりもずっと装備が固いような・・・。もっとプロな感じ。 pic.twitter.com/g9oDrseFvR
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月7日
引き続き幕末の博徒ですが、掛川藩を脱藩しロシアに渡って日本語教師になった橘耕斎は、砲術と柔術に通じた人だったが、武士を辞めて一時期博徒の親分をやっていたという伝が残っている。掛川は街道筋なので博徒は溢れた場所だけど、忠治と関係のあった堂山の龍蔵という親分もいた。
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月8日
橘耕斎こと増田甲斎は結構経歴が良く分からない人だけど、博徒の親分をやっていたならば、その後に僧侶になって、ロシアに渡って辞書を作ったり、ロシア外務省で働いたりと相当に波乱万丈な人生である。
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月8日
慶応4年の千葉のこて橋村の打ちこわしは、村内で揉め事だったが、名主の家に長脇差、槍、鉄砲を持ち、鉢鉄を頭に当て、防具がわりに古襦袢を着て、たすき掛けした反対派グループが乗り込んでいる。こういうのを読むと、相当に用意周到で、当時の千葉の農村は武装の準備が整っているように見える。
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月9日
ちなみに反対派は、襲撃後に付近の山に竹矢来を回し焚き火を置いて防備を固めている。うーーーん、名主側の敵が報復攻撃してきた場合の対処だろうが、やっぱり手慣れている。
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月9日
お上に許可された在村鉄砲には、享保の頃だと用途によって用心鉄砲、二季打鉄砲、四季打鉄砲、猟師鉄砲がある。二季打はだいたい4-7月の期間だけが鳥獣駆除で撃ってよい銃で、四季打は2月―11月まで撃って良い銃。建前として御上から借りているということで、「拝借鉄砲」「拝借筒」なんて呼ばれる。
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月9日
慶応2年に綱島寄合組合で農兵(農兵40名、世話人10名)が編成されたとき、鉄砲と胴乱(火薬保管ケースですな)は貸与するけど、火薬は自弁とされたらしい。翌年には「ケイウェー御筒」というからゲベール銃が貸し出されたらしい。
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月9日
こういう農兵は武州一揆後の徒党乱妨人から自衛するためとして、月二回の教練(八王子同人が教育係)、組合の管轄区域の巡回パトロールをやっていた。彼らは優秀で薩摩藩邸焼き討ち事件の犯人二人を生け捕るなどの成果を上げている。
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月9日
ただ、教練で使う弾薬代が多額で寄合組合の名主など裕福な5人が金を出し合っていたらしい。綱島ではなく日野の農兵は鳥羽伏見の戦い後に、危機感をもったのか横浜で先込銃(詳細不明)20丁を独自購入している。具体的には分からないが、幕府を経由せず銃や火薬を売り買いできるルートは確実にあった。
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月9日
幕末の農兵は戊辰戦争に投入された話が良く語られるが、基本は天保以降の世情の不穏から寄合組合などが関与して農村の治安対策のため、農村を銃で武装させた感じだろう。代官もそれを推奨してるし。
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月9日
そういえば、武州世直し一揆では一揆側が米屋や質屋だけでなく、八王子同心や高崎藩陣屋も襲撃対象で、これらを襲って完全に侍を駆逐している。逆に江川代官配下の農兵が最初に空砲を威嚇したが、一揆側が抵抗したので実弾を発砲したらしい。
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月9日
この時に江川代官側に小川宿無宿人幸蔵という博徒が40-50人の子分を連れて参戦し、一揆側の五、六人を斬捨てて十人を絡めったらしい。一揆側にも無宿人が参加していたが、双方にヤクザが参加して入り乱れていたのだろう。
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月9日
武州一揆の際、所沢の防衛では寄合組合村と田無農兵に他に、有名な博徒である小金井小次郎率いる博徒たちが参加し、一揆に切り込んで壊滅させたとある。本当にいたかは分からないが。小金井小次郎は新門辰五郎の弟分で、関東一円に数千の子分がいたという大親分。幕末ヤクザのビッグネームの一人。
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月9日
幕末ヤクザと銃を調べるうちに、幕末の一揆はやたらに博徒や無宿人、農兵が入り乱れているカオス感がスゴイ。そりゃあ、幕府の体制が揺らいでいるわけだ。
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月9日
しまった!本当に忙しいのに、幕末ヤクザと農村の銃のことをつぶやきまくってしまった。いえ、ちゃんと仕事はしてるので許してね。需要があるのか分からないけど、またつぶやくかも。
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月9日
あ!唐突に思い出した!博徒・小川の幸蔵は「小川のどろぼう宿」の親分だ。明治にも生き残っていたのか。https://t.co/FecGesr6p5
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月9日
こうしてみると黒澤明の「用心棒」の殺伐たる感じは、幕末関東の博徒溢れる状況に近いのかも。
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月9日
江戸末期の山論や水争いの資料を読むと、普通の農村同士でも相当に血なまぐさい戦闘をしている。村の若者組が自衛団として機能してたりするが、その若者組が村の名主などに反抗して、村役人がそれを抑えるのに四苦八苦だったり。
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月9日
幕末博徒の痕跡の一つ、小金井神社の狛犬。願主の名前が「関小治郎」だが、前ツィートで書いた新門辰五郎の弟分で多摩一帯に縄張りを持った大侠客小金井小次郎の本名。 pic.twitter.com/2bLWcjPXrm
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月10日
この周辺は小金井小次郎の痕跡がいろいろあって、地域の名士だった感じが分かる。
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月10日
幕末博徒の続き。戊辰戦争には多くのヤクザが参加し、「農兵」のような「博徒兵」という分類があっていいほど。会津藩側の博徒兵だと、越後の侠客観音寺久左衛門こと 松宮雄次郎は子分40ー50人の子分と聚義隊を結成して戦闘を行なっている。
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月11日
こういう博徒兵は戊辰戦争の一側面で、どっちの陣営もこれを取り込もうとしている。逃亡する志士がヤクザの逃亡インフラで匿われて例も多く、ヤクザの明治維新という視点はけっこう重要だと思う。
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月11日
秦達之さんが「尾張藩草莽隊―戊辰戦争と尾張藩の明治維新」の中で、幕末と明治初期は「博徒の季節」という言い方をされていて、「それはそうかも」という気に。確かにヤクザがもっとも生き生きした時代といわれれば、確かにそういう面はあるね。https://t.co/KjV7itBmvm
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月11日
幕末博徒の痕跡。山梨県笛吹市一宮町国分にある「三蔵屋敷跡」。甲府のゴッドファーザー三井卯吉の子分で甲府盆地東部を縄張りにした博徒である国分三蔵の屋敷跡。卯吉が暗殺後も清水次郎長とも連携し、吃安こと竹居安五郎や黒駒勝蔵と敵対した。 pic.twitter.com/PQJpuQk5i5
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月13日
国分三蔵は関東取締出役の手先も務める二足の草鞋の博打で、文久2年に勝沼の祐天仙之助、上野国の浪人犬上郡次郎らと吃安捕縛を仕掛けたが、その子分であった黒駒勝蔵一派から自分の屋敷襲撃を受けたとされたがこの屋敷だったのだろうか? pic.twitter.com/Mfhuphm0GM
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月13日
石垣は意外と立派。場所は果樹園の広がる集落の中心という感じで、石和に向かい道に家が続く。ここから竹居村や黒駒村まで歩くと、甲州博徒の縄張りの距離感が分かる。確かにけっこう近いところで争っている感じ。 pic.twitter.com/KuxJWAqKBk
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月13日
小金井小次郎や国分三蔵の幕末博徒の痕跡を見て回ると、明らかに在郷でその地域にちゃんと根付いている感じはする。半端者が村でノラクラしているのではなく、ちゃんと認められて、地域への貢献度もあるという感じ。
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月13日
江戸時代の在村鉄砲に関しては、武井弘「鉄砲を手放さなかった百姓たち」が。幕府は関八州の村々の鉄砲所持規制をかけようとするが、村では鳥や獣から農作物を守るために鉄砲を欲した。
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月21日
幕府もそういう用途は認めていたので、弾を込めずに空砲音で鳥獣を脅す「威し鉄砲」は結構認めていた。もちろん猟師鉄砲も認可されていたが、「紙玉でも撃っておけ」と命じらることもあったらしい。
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月21日
銃はもちろん弾が発射されて目標に命中させるのが一番の用途だけど、歴史的に見てすごい音がして、その音が威嚇になるという側面は無視しちゃダメだろう。「ドリフターズ」でノブノブが言っている銃の音のセリフは実に的を射ていると思う。
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月21日
突進してくる相手に何であれその勢いを威嚇で削ぐのは重要。ヤクザの出入りで景気良くバンバン音を立てるのは、なんらの効果があると思う。
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月21日
鉄砲ではないが、武州一揆では一揆の襲撃に備えた古凍村(今の埼玉県東松山市)の村役人は、花火筒に石を詰めそれを横に並べて、簡易的な大砲がわりにしたという記録がある。
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月21日
詰めた石の効果がそれほどあったとも思えないけど、一揆などで花火を上げて鯨波を作るみたいな表現はあるので、号令代わりにに使用させるのはあると思う。鉄砲の音も同じではないかと。
— 白土晴一 (@manetoke) 2019年1月21日
正直「Ghost of Tusima」にはやられたと凹んでいたのですが…
まだまだ色々とあるではありませんか、日本史への切り口!!