諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】実存不安の高まりこそが中華王朝に神仙思想を生んだ?

コンピュータープログラムでは、ライブラリを一つ書き換える都度Depend関係をチェックし、変更の内容が引き渡すパラメーターにまで及んでいる場合には相応の更新を必要とします。

f:id:ochimusha01:20200809112055p:plain
私がこれまで積み重ねてきた歴史関連投稿もそうで、だから最近自分の中に起こった幾つかのパラダイムシフトを全体像に反映するのに躍起となっているのです。で、その最新例が以下。

2016年には、はからずしも(ヒットしなかった映画「エヴェレスト 神々の山嶺(原作1994年〜1997年、漫画化2000年〜2003年、映画化2016年)」も含め)「この世界の片隅に」「君の名は。」「聲の形」「シンゴジラ」「リップヴァンビンクルの花嫁」と「何かを契機に日常が不意にその裂け目を覗かせる」作品の目白押しとなりました。それで当時はしばらくはこのトレンドが続くかと思ってしまった訳ですが…実際には違ったのです。しかも2017年には「新たな方向性」をまとめる事すら出来ませんでした。

今から振り返ると「2010年代の終焉」が見え始めた 時期だったのかも。


映画「ローガン(Rogan)」でヒュー・ジャックマンウルヴァリン・シリーズが終わり…

映画「猿の惑星:聖戦記グレート・ウォー, War for the Planet of the Apes)」で「猿の王」シーザーの物語が終わり… 

映画「エイリアン・コヴェナント(Alien: Covenant)」で自分の中の「エイリアン」シリーズが、映画「 ブレードランナー 2049(Blade Runner 2049)」で自分の中の「ブレードランナー」シリーズが、それぞれ終わり…(再会を期待してたヒロインが、白骨化してたり、グチャグチャの箱詰め肉片に変貌してたり、蘇ってすぐ射殺されたりと実に粗末な扱い…

映画「パイレーツ・オブ・カリビアン:最後の海賊(Pirates of the Caribbean: Dead Men Tell No Tales)」では、ラストシーンで初代ヒロインの「地母神昇格」を目の当たりに…

f:id:ochimusha01:20171105060431g:plain

f:id:ochimusha01:20171105055633g:plain

  • 国際SNS上の関心空間に集った匿名女子アカウントが口々に人生談義を。「1作目( 2003年)で自分を投影した小娘ヒロインが、今やキャプテンジャックスパローと一緒に冒険するほど成長した息子の母親として登場し、それでも彼女に自分を重ねてしまう」「美少女戦士セーラームーン(1992年~1997年)放映当時自分を重ねてたのはちびうさだったのに、今や母親の月野うさぎの方」「下手に期待して裏切られるのが怖くて美少女戦士セーラームーンCrystal(2014年~2015年)が観れなかった」等々…

  • 気付けばジャスティン・ビーバーの親衛隊ビリーバー(Belieber)のあまりの暴虐ぶりに対抗すべくNARUTO(1999年~2014年)とThe Legend of Korra(2012年~2014年)をこよなく愛するニンフェットnymphet=男子より先に成長期に入る小学校高学年位から、男子に抜き返される中学生時代にかけての「最も凶暴な時代の」少女達)軍団(ビリーバー側もそうだったが、それなりの旗印さえ掲げたらたちまち1万~10万のアカウントが召集出来た)も、ジャスティン・ビーバーの人気失墜でビリーバーが大人しくなるとすると対抗馬を失って併せて鎮静化。そうこの頃にはもう既に高齢化と卒業組のせいで「国際SNS関心空間のフロントエンドTUMBLRの緩やかな衰退が始まっていたのである。

    f:id:ochimusha01:20200911053230p:plain

今から思えば、この曲がこの年にリリースされたのも随分と象徴的でした。実は上掲のNARUTO&Korraチーム初音ミクを旗印に使っていたのです。

で、こうした状況がもたらす実存不安の高まりこそが中国神仙思想を読み解く鍵なんじゃないかと気付いたのが最近の事…

とりあえず中国神仙思想には以下の2系列があるという想定に到達。

  • 黄老系…古代多民族帝国の「クレメンツァClemenza=寛容)」概念の二面性(逆らわない限り高度の自治を許して放置する一方、叛逆を起こしたり運用資金が不足すると容赦無く殲滅)より出発しながら(全てを画一的律令の適用下に置こうとする)法家思想の大源流となり秦代と前漢代を主導した。儒家が台頭して以降は衰え(本土では抹殺され尽くし、日本にしか残らなかった文献も沢山ある)、一応は儒家出身の「性悪論」の荀子の牧民論が代替概念として広まる。

  • 老荘…「神仙の世界=消極的で現実逃避的な理想郷に感情を投影する文学的理想主義」と、グラックス兄弟の改革(紀元前133年~紀元前121年)やバブーフの陰謀(1795年~1796年)を彷彿とさせる平等至上主義が特徴の大同主義(Datongism)が表裏一体の関係を織り成してきた。共産主義体制への移行後は「少数民族は支配階級をもたないため反動的に機能する。少数民族は支配民族に同化するべきである」とするエンゲルスのテーゼや「あらゆる民族は強制移住による居住環境の変化、国家共用語による正しい教育に基づく因循姑息で視野狭窄的な伝統的民族固有言語・歴史観・文化教養の放棄、国民全てが享受する最新の経済生活への移行といった進歩的政策によって最終的には跡形もなく完全に解消されるべきである」とするスターリン論文の援用を受け、チベットウイグルで粛々と遂行され続けている民族浄化政策を正当化するイデオロギーに昇格した。「レーニンの愛弟子ムッソリーニファシズムとの共通項が少なくないが、ナチズムの粗雑な民族生物学Ethnobiology)とは原則的に無関係と主張している。

それに対して日式仙郷陰陽道修験道の伝統を背景に、老荘系のうち「神仙の世界=消極的で現実逃避的な理想郷に感情を投影する文学的理想主義」概念のみを継承。国際的に「認識可能範囲外を跋扈する絶対他者」との接点を探るアプローチの一つとして普通に受容されている。

 最近「開放的だったミノア文明に対し、巨石を使った城壁で囲まれたミケーネ文明は閉鎖的だった」なる定説について、色々と調べ直していたのですが…

古代地中海世界の文化は、エーゲ海に発達した初期青銅器時代が終了し、クレタ島に宮殿文化として知られるミノア文明が誕生したときに始まるとされる。

f:id:ochimusha01:20200911155415p:plain

  • ミノア文明の中心都市クノッソスは城塞都市でもあり、またその当時は相当栄えた商業都市でもあった。

  • 最盛期は紀元前16世紀で、エジプトはヒクソスが支配していた第2中間期(紀元前1782年頃~紀元前1570年頃)に該当する。第15王朝3代目キアン王のカルトゥーシュが刻まれたアラバスター製容器のふたがクノッソス宮殿遺跡で見つかっているが、その当時からエジプトとクレタ島は密接な関係にあったことがうかがえる。

  • アムル 人王朝が乱立したイシン・ラルサ時代紀元前2004年頃~紀元前1750年頃)に再建されたアッカド南部の元シュメール都市のマリ(紀元前1900年頃~紀元前1759年頃)とも交易があり、現地にはバビロニア文明やクレタ島のミノア文明の影響を受けた巨大宮殿が建造されてアレッポヤムハド)やウガリットといった近隣の都市国家や王国で評判となった。

ところがミノア文明は、エーゲ海において永続的な文化としての地位を確立することはできなかった。クノッソス宮殿をはじめとする多くの都市が突如として破壊され、文明そのものも崩壊していったのである。

  • 紀元前17世紀クレタ島の北にあったサントリーニ島が大噴火を起こしたことによって島の大半が成層圏にまで吹き飛ばされ、有力な都市であった島南部のアクロティリが火山灰に埋まるという事件はあったが、これは単なる危機でしかなかった。一時はこの噴火がミノア文明を崩壊に追い込んだのではないかと真剣に議論されたことがあったが、ミノア文明の崩壊は紀元前15世紀初頭の事であり、サントリーニ島の大爆発はその時点より150年も早い。現在ではこの説は否定されている。

    紀元前1628年頃、海底火山の爆発的噴火(ミノア噴火)により、地中のマグマが噴き出してできた空洞状の陸地が陥没してカルデラを形成し、現在のような形状になった。 この爆発的噴火は、エーゲ海一帯に惨禍をもたらし、幻の洋上の理想郷アトランティス大陸伝説を生んだとされている。

    サントリーニ島内の南部に、ミノア文明下の大規模な港湾都市遺跡・アクロティリ遺跡がある。 1956年ギリシャ地震学者アンデロス・ガラノパウロスが、サントリーニ島こそアトランティスだとの新説をたてた。

  • 紀元前1600年頃~紀元前1450年頃ギリシャ本土のミケーネ文明における芸術・建築・兵器などはミノス文明のそれと似通っていたが、線文字βを解読した結果、ギリシャ本土のミノス文明の担い手達は自らをギリシャ人と考えており、クレタ島のミノス文明の担い手と区別して考えていた事が明らかとなっている。

ミノア文明の崩壊と前後して繁栄を迎えたミケーネ文明は、アルゴス平野の山手に誕生した都市ミケーネから始まった。ミケーネは地中海を渡ってくるメソポタミアやエジプトなどからの豊富な物産で財を成し、またたく間に強大な中央集権国家を築き上げたのである。

f:id:ochimusha01:20200911155303p:plain

  • 彼らはミケーネのほかにもアルゴスティリンスなどに強固な城塞都市を建造し、ペロポネソス半島を中心とする農耕と交易権を掌握していたものと思われるが、ミケーネで発掘された円形に石組みされた竪穴墓(円形墓域Aと呼ばれる)からは金・銀アメジスト琥珀などの宝石や象牙アラバスター、そしてダチョウの卵など、外国でしか産出されないような素材から作られた副葬品が見つかっていることがその裕福さを如実に示している。

エジプトではハトシェプスト女王が統治していた紀元前1450年頃、ミケーネではミノア文明から宮殿建築の技法を取り入れて城塞を建造したり、都市から放射状に伸びる軍道を整備したりなど、急速に武装化を進めていた。

  • その時代はミケーネ文明が商業の発達にともなって地中海に海運網をめぐらし、その文化が周辺地域に影響を与え始めた時期に当たっており、ペロポネソス半島一帯を中心としたエーゲ海周辺ではかなり人の出入りが激しくなってきたと思われる。それにともなって外敵に対する警戒心が増大したのだろう。この時代には馬二頭立ての戦車がミケーネにも導入されている形跡もあり、舶来の最新兵器である戦車にも当然のごとく注目してさっそく配備したのだろう。

その一方で、地中海周辺諸国にもミケーネの物産が多量にもたらされていた。そうした輸出品の大半は土器である。

  • ミケーネ土器は優美な曲線と精緻な線形文様を特徴とする土器で、甕、壺、容器など数多くの意匠が生まれて地中海世界に広まった。それらは当時としても非常に高価で、その多くは副葬品として使われている。

  • ミケーネ土器の出土地は広範囲に及んでおり、これらはキプロス島イタリア半島小アジア西岸地方フェニキア地方シリア・パレスティナ地方ヒッタイト、そしてもちろんエジプトでも出土している。

  • エジプトにおいてミケーネ土器の大量輸入を奨励したのはどうやらアクエンアテンアメンホテプ4世, 在位紀元前1353年?~紀元前1336年頃?)のようで、彼が造営した首都アケトアテン跡のテル・エル・アマルナ遺跡からは多数のミケーネ土器の破片が見つかっている。

そればかりでなく、ミケーネ文化圏の人々は積極的に外部へ移住していった。彼らは海運網の発達に合わせるようにして海を渡り、その土地に定住して独自の文化を成立させていたのである。

  • シリア・パレスティナ方面で見つかる壺や鐙壺などは特産品のオリーブを詰めるための容器として使われていたため、主として商人がギリシアから一方的に運び込んでいたことがわかる。
  • 小アジアトロイタプソスなどでは甕、コップ、水差しやフラスコ型など多様なミケーネ土器が出土していることから、ミケーネ人がそこに定住しており、生活スタイルに合わせた土器を必要に応じて生み出していったと考えられるのである。

その逆に海運を利用して多くの文化を取り入れることにも熱心だった。

  • ペロポネソス半島東部,アルゴス平野をのぞむ丘陵地に位置するミケーネ遺跡が,現在認められるような防衛機能を整え始めたのは紀元前14世紀後半のこと。支配者の居所に相当する宮殿部分はその上に建てられている。

  • ミケーネティリンスなどの城塞建築はクレタ島エジプトから、そしてボイオティア地方のグラという都市にあった大規模な城壁などはヒッタイトからその工法を輸入したものであろうといわれている。

  • その証拠に、後世のギリシア人たちはそれほど大規模な土木工事を行う習慣がなかったのに対して、ミケーネの人々は沼沢地帯に排水路を設けて干拓事業を行ったり、都市全体を囲む大周壁を建造したりすることもできたのである。

エジプトとミケーネの関係も深く、当時の超大国であったエジプトには数多くのミケーネ人が移り住み、商業活動や開拓事業などに従事して定住地を広げていき、神王国時代第18王朝時代紀元前1570年頃~紀元前1293年頃)までにはある一定のグループを形成していた可能性がある。それを示す遺物として、テル・エル・アマルナで見つかったパピルス片に行軍する兵士の絵が描かれているのを近年大英博物館が獲得したが、その兵士はミケーネ人兵士の特徴である、イノシシの牙を並べて作った兜をかぶっていたのである。もしそれがミケーネ人兵士を描いたものであるとすれば、すでにその当時から、ギリシア人兵士が陸軍国エジプトの国防を担っていたということになる。

  • また逆にミケーネ人側もエジプト人(リヴィア人?) やヌビア人を傭兵にしていたという話もある。ミノア文明では決して考えられない事だった。

そして紀元前1200年頃、突如として海から見たこともない武装集団が現れてペロポネソス半島全域に上陸し、ミケーネ文明における中心都市として君臨していたミケーネティリンスなどの宮殿と城塞の多くを攻撃してこれを破壊し、火を放ってこれを完全に無力化して回ったのである(紀元前1200年のカタストロフ)。

  • 被害をこうむったのはミケーネティリンスなどの中核都市だけではなくペロポネソス半島ではミデアメネライオンピュロスニホリアなど多くの都市や定住地が襲われて破壊され、ほぼ例外なく放火されて炎上したのである。
  • また彼ら武装集団は海を渡り、クレタ島ハニアやエウボイア島のレフカンディ、ボイオティアのテーベ、そして小アジアイオニア地方のトロイミレトスなどにも攻め入ってこれを破壊した。ミケーネ文明の諸都市は発達した交易路を利用して相互依存の関係にあったので、中心都市が破壊されて無力化すると将棋倒しのように経済的危機に陥ってしまい、たとえ破壊を免れたとしてもその命運を長らえることはできなかった。

  • 彼ら武装集団はミケーネ文明世界を片端から葬り去り、その矛先を逐次、東に向けていった。キプロス島では中心都市エンコミサラミスパフォスなどほとんどの都市が被害をこうむり、海を渡った対岸のフェニキア人都市ビブロスアシュドッド、シリア人都市ガリハマトカデシュヒッタイト人都市タルソスなども破壊されて火を放たれた。後に再建されたものが多いが、ウガリトはほぼ完全に消滅してしまい、ずっと後の時代になるまで再建されなかった。

    キリキア地方にあったヒッタイト都市タルソス/タルススTarsos)は後のパウロ の聖地。キリキア・アルメニア王国の首都(1198年~1375年)。

この大移動によってすでに弱体化して崩壊寸前だったヒッタイト王国は甚大な被害を被ったが、遂にエジプトで撃退される。

日本の環境考古学者安田喜憲氏<前京大教授>がギリシャの文明発祥地ミケーネでボーリング調査を行い、花粉分析という手法で「森の破壊が滅亡の原因」とする新説を証明した。

 

ペロポネソス半島東部,アルゴス平野をのぞむ丘陵地に位置するミケーネ遺跡が,現在認められるような防衛機能を整え始めたのは紀元前14世紀後半のこと。
*要するにクレタ島のミノス文明が滅されて随分経ってからという事になる。

支配者の居所に相当する宮殿部分は,この城壁の南側中央部に乗りかかるように建設されている。宮殿部東南端にあるほぼ正方形の部屋に,聖なる炉を備えたメガロン=王の座所があった。城壁の上にかかって建設されていることから,建設年代は城壁が建設されて以降のこと,すなわち紀元前14世紀後半以降ということになるだろう。支配者の居所と立派な城壁=防衛機能が揃い,これなら「城」と言っても差し支えあるまい。

丘の上に聳えるミケーネ「城」に限らず,ミュケーナイの「城」はいずれも巨石を積み上げた城壁を備え,見る者に強い印象を与えたに相違ない。しかしミュケーナイ人が景観に与えたインパクトは「城」だけに留まらない。「城」からは道路が各地に伸び,川にはキクロペス様式の石橋が架けられ,馬に引かれた荷車もスムーズに通行できた。さらにミケーネからほど近く,ティリンス遺跡近郊には「ダム」が建設された。ティリンスの城砦に向かうはずだった流路を変えるための,堤防のような石造構築物である。これらもおよそ紀元前13世紀に整備されたとされる。

こうした「城」を核とする建設事業が,ミュケーナイ文明理解に不可欠の要素であることは言を俟たない。しかし同じくミュケーナイ文明を代表する印象的なトロス墓などは,これより早くから発達していた。ミケーネに上述のような「城」が姿を見せる以前,すでに数百年にわたってミュケーナイ人たちは豊かな文明を生み出していた。現在知られているような「城」が景観や文化,社会の中核的役割を担ったのは,ミュケーナイ文明においても限られた時期のことだったのである。

こうして全体像を俯瞰してみると、実は「巨大な常備軍を備えたり、自らの宗教的支配に絶大の自信を持ってたりすると思考停止して状況変化への即応能力を失う。それが後世の人間の目には楽観的だったり開放的だったりした様に映ってるだけ」という可能性もあるのかもしれません。

  • アッシリア帝国(紀元前744年~紀元前609年)の場合…「世界最終戦」概念の提唱者石原莞爾は、ナポレオン兵法を参照して「戦争で戦争を養う」を持論にしていたらしい。困ったことにこの強力な常備軍を備えた軍事強国もまた、その程度の生存戦略しか備えていなかった雰囲気が濃厚だったりする。実際(内紛でそれどころじゃない場合を除いて)国庫の蓄えが乏しくなる都度「そろそろ略奪遠征隊を出して宝物と戦争奴隷を補充する」と決断するだけで済んでしまうのなら、外交や経済対応や政略結婚などに気を回す必要性自体が生じないにである。特に名君と名高いアッシュールパルパルに至っては、明らかに連戦を重ねる回転資金を確保し続ける為、例え友好国でも宝物庫に財宝を蓄えてるなら、濡れ衣まで着せて容赦無く滅ぼしている。

  • アステカ帝国(1428年頃~1521年,約95年間)の場合…北米のメキシコ中央部に栄えたメソアメリカ文明の国家。メシカ古典ナワトル語: mēxihcah メーシッカッ)、アコルワテパネカの3集団の同盟によって支配され、時とともにメシカがその中心となった。歴史的にはアステカ人の移動と定住は12世紀頃より続いた北部からのチチメカ人の南下・侵入の最終章に該当する。テスココ湖南部のソチミルコ地域(チナンパ畑の広がる非常に肥沃な穀倉地帯)を掌握しテノチティトランとテスココ湖南部のイツタパラパンとを結ぶ土手道を築いてテノチティトランから帝国南部への交通が大幅に改善し、淡水のテスココ湖南部と塩水のテスココ湖北部の水が交わるのを防いで南部の農業生産に劇的改善をもたらした事が大躍進の契機となった。終末古典期以降のメソアメリカの諸国家が共通してそうだった様に強大な軍事国家であり、ジャガーの戦士や鷲の戦士を中核とする強力な軍隊が征服戦争をくり返して諸国民に恐れられ、服属する国家から朝貢を受ける見返りに自治を与えて人民を間接統治した(諸国を旅する商人が時に偵察部隊としての役割も果たし、敵情視察や反乱情報の収集に従事した)。その一方でメソアメリカには太陽は消滅するという終末信仰が普及しており、人間の新鮮な心臓を神に奉げる事でそれを先延ばし出来ると信じ、日常的に人身御供を行い生贄になった者の心臓を神に捧げ続けた。また神々に雨乞いや豊穣を祈願する際にも人身御供の神事を行っている。大国化によってこれまで以上の生贄が必要となったアステカでは、生贄を確保し続ける為の儀礼戦争まで開発されている(花戦争, 1450年代~1519年)。

何このアノマロカリス感?

とりあえず「ミケーネ文明の閉鎖性」自体については、以下で論駁可能な様です。

f:id:ochimusha01:20200911175302p:plain

  • ミノア文明の限界は、恐らく「特定の交易拠点に留まり、ミケーネ文明の担い手の様に積極的に支店拡大に乗り出さなかった事」。紀元前15世紀初頭ミノア文明からミケーネ文明への推移が起こったのは、おそらくこの辺りが原因。

    ミノス文明は如何なる軍事力の庇護下にもなかった」というのは恐らく間違いでエジプト異民族王朝ヒクソスに代表される様な「恐らくカナン地方辺りに集まった戦車や合成弓や精巧な鎧兜で身を固めた武装集団」辺りが後ろ盾になっていたので襲撃される心配が不要だったのである。

  • 紀元前1600年頃~紀元前1450年頃ミケーネ文明は事実上ミノア文明のコピー(城壁なし、王宮なし)だった。

  • 紀元前1450年頃より戦車の導入を筆頭に軍備増強が始まる。これは(略奪遠征を控えた)ハトシェプト女王代におけるオリエント世界の経済規模拡大に関係すると見られる(当時のエジプトは恐らく略奪遠征を控えただけでなく、治安活動全体を控えたので商人が中世的自力救済手段を必要としたとも)。で、さらに軍事力行使に弱気なアメンホテプ4世時代に「傭兵として雇い雇われる」関係に進んでいく。

    実際、フェニキア都市ビブロス が一切武装に気を払わないで済んだのは「エジプトの軍事サービスを当てに出来た」からとしか思えないのである。

  • ミケーネの宮殿に城壁と王宮が建築されたのは紀元前14世紀後半。この頃までに相応の蓄財と中央集権化が実現した証であろう。しかしそれは同時に(ミケーネ文化圏内ですら)貧富格差が拡大したという事あり、おそらくこれにまつわる(特に辺境での)不満の鬱積が「紀元前1200年のカタストロフ」を準備した(経済が回っているうちは何とか不満を押さえ込めていたが、それが停滞した時、打つ手がなかった? あからさまなまでに「金がないのは首がないのと同じ」?)。

なるほど、こう考えるとさらに既存歴史観を色々変更しなくちゃならなくなりますね。とりあえず、以下続報…