諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

真・ロドス島戦記③そもそも「ミケーネ文明」とは何だったのか?

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これまでの和製コンテンツにおける「ロードス島」への触れ方は遠慮に満ちたものでした。実際、それが歴史上どんな役割を演じてきたかあまりにも知られてなさ過ぎるので仕方がありません。

しかし今日なら、インターネットを使って相応のところまで調べ込む事が出来ます。これを創作の下敷きにしたら、何が何処までやれるでしょうか。これはそんな思考実験…

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最初に突き当たった壁が「そもそも日本ではネット社会に移行した今日なお、ミケーネ文明についてのちゃんとした通史が広まってない」という事でした。何せ永井豪マジンガーZ(1972年~1973年)」の時代ならいざ知らず、今日なお「ドーリア人がミケーネ文明を滅した」説が出てくる、出てくる…さらには「海の民の正体はフェニキア」なる新説にまで邂逅する始末。で、とりあえず現時点における自分なりの見解をまとめたのが以下となります。

とりあえず、ネット検索の結果をざっとまとめてみた「可能な限りそれっぽいミケーネ文明通史」。あれ、既存知識と随分な齟齬が…

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  • ミノア文明の限界は、恐らく「特定の交易拠点に留まり、ミケーネ文明の担い手の様に積極的に支店拡大に乗り出さなかった事」。紀元前15世紀初頭ミノア文明からミケーネ文明への推移が起こったのは、おそらくこの辺りが原因。

    ミノス文明(紀元前2000年頃~紀元前1600年頃/紀元前1400年頃)は如何なる軍事力の庇護下にもなかった」というのは恐らく間違いでエジプト異民族王朝ヒクソス(第15王朝:紀元前1663年頃~紀元前1555年頃)に代表される様な「おそらくカナン地方に集まって東地中海に繰り出す、辺りに集まった戦車や合成弓や精巧な鎧兜で身を固めた武装集団」辺りが後ろ盾になっていた。特に派兵や駐屯の痕跡は残っていないが(スパルタの精強さを宣伝するだけで、自らは特に軍事力を備えなかったコリントゥスの様に)、この時代には「報復が怖い」印象が広まるだけで十分だったのかもしれない。

  • 紀元前1600年頃~紀元前1450年頃ミケーネ文明は事実上ミノア文明のコピー(城壁なし、王宮なし)だった。

  • 紀元前1450年頃より戦車の導入を筆頭に軍備増強が始まる。これは(略奪遠征を控えた)ハトシェプト女王代におけるオリエント世界の経済規模拡大に関係すると見られる(当時のエジプトは恐らく略奪遠征を控えただけでなく、治安活動全体を控えたので商人が中世的自力救済手段を必要としたとも)。で、さらに軍事力行使に弱気なアメンホテプ4世(イクナトン, 在位紀元前1353年? - 紀元前1336年頃?)時代には「傭兵として雇い雇われる」関係に進んでいく。

    実際、フェニキア都市のビブロスが一切武装に気を払わないで済んだのは「エジプトの軍事サービスを当てに出来た」からとしか思えないのである。

    一方、アモリ人都市のウガリットハダトカデシュヒッタイトが軍事的に庇護下に置いていた。

    これらの都市が「紀元前1200年のカタストロフ」でこぞって焼かれたのは、「海の民」がエジプトもヒッタイトも迎撃に打って出られない苦境にあった事を知ってたからではあるまいか?

  • ミケーネの宮殿に城壁と王宮が建築されたのは紀元前14世紀後半。恐らくこの頃までに相応の蓄財と中央集権化が実現した証。そして紀元前1300年頃から人口が急激に増加、村落も増えミケーネ/ティリンクスだけで人口が10万人を数える様になる。そして紀元前13世紀にはティリンス遺跡近郊に「ダム」が建設された。ティリンスの城砦に向かうはずだった流路を変える堤防のような石造構築物…

    それは同時に(ミケーネ文化圏内ですら)貧富格差が拡大したという事でもあり、おそらくこれにまつわる(特に辺境での)不満の鬱積が「紀元前1200年のカタストロフ」の遠因の一つとなった(経済が回っているうちは何とか不満を押さえ込めていたが、それが停滞した時、打つ手がなかった? あからさまなまでに「金がないのは首がないのと同じ」という事らしい)。

こう考えると既存歴史観も色々変更しなくちゃならなくなりますね。

個人的にパラダイムシフトだったのが以下。

  • 軍事動員に消極的だったハトシェプト女王やイクナトン王の時代、むしろミケーネ人みたいな辺境までどんどん出向く末端冒険商人は中世的自力救済原理に従って軍事化を強めていった」 なる考え方との邂逅。
  • とはいえ、考えてみれば「アッシリア人は当初、先史時代まで遡る平和主義の非武装商人集団だったが、(後にミタンニを建国する)フルリ人(どうやら鉄製造技術も戦車も合成弓の射撃に耐える精巧な鎧もポケットから出したらしい「古代オリエント世界のドラえもん)に殴られた途端に(錫も鉄も産するアナトリア半島を盗られた)軍事強国へと変貌した」なるパラダイムシフトの延長線に過ぎないとも。
  • そんで、かかる時代変化についていけなかった軍事大国依存型非武装交易都市が「紀元前1200年のカタストロフ」でまとめて焼かれた。

それでもこう考えると、色々スッキリする次第。とりあえず、そんな感じで以下続報。