諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】「実存不安との二つの戦い方」について。

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この人の人生については、正直それまであまり深く考えて来ませんでした。

そうか…やはり出発点はコリン・ウィルソンアウトサイダー(The Outsider, 1956年)」…

1970年代コリン・ウィルソンの「アウトサイダー(The Outsider, 1956年)」や、ヒッピームーブメントに衝撃を受け、酒、たばこ、そして薬物にも手を出し始める。これらの「悪さ」のために、成績が急降下。授業もテストも受けずに「番外地」で灘高校を卒業することになった。

「訳者あとがき」で福田恆存はこんなふうに書いている。
 「自分の病気に苦しむのと、それを苦しまずに冷静に語れるのと、そのどちらが病的か。誤解されるのと、誤解が消滅するのと、そのどちらにより強い人間的紐帯を信じることができるか。一口にいってしまえば、アウトサイダーの真実は敗北することによってしか、残らぬのではないか」。
 犯罪者にもならず、告白者にもならず、ひたすらアウトサイダーであろうとすること。それは本書に登場するすべての異才や奇才たちにとっても容易ではなかった。むしろ、今日の社会はこのようなアウトサイダーの失敗を少なめにして、かえって小さな犯罪と小さな告白をふやしすぎたようにおもわれる。

神戸YMCA予備校の受講生となるも、同校に顔を出したのは数回で、同校が所在する神戸市の繁華街・三宮のパチンコ店やジャズ喫茶へと足繁く通うようになり、ジャズ喫茶にたむろする「フーテン」と共にアルコール、有機溶剤、鎮静薬・睡眠薬大麻に耽溺。文学論、思想について雑談するなどして過ごす。らもはこの頃のことを、「ずいぶんいろんな面白い体験をしてるはずなのだが」、将来に対する不安から「あまり覚えていない」「あまりに憂うつだったので、無意識に記憶を消し去ろうとしている」と述べている。

公認会計士の叔父の紹介により、1976年4月、印刷会社の株式会社大津屋にコネ就職。同社で5年間勤める。1977年宝塚市に月2万7千円の30年ローンで一戸建ての邸宅を購入。1980年5月フリーのコピーライターで食っていく覚悟をきめ」大津屋を退職。その後、この宝塚の自宅は「中島が暇らしい」と押しかけた友人知人の他に、「自称ミュージシャン、パンクス、スキゾ、フーテン、ジャンキー、山師、グルーピー、不良外国人」のたまり場となり、学生時代の薬物遊びが再燃。知り合いの医師から処方箋を入手してハイミナールを集めたり、酒やコデインを飲んでヨタ話をしギターを弾いたり、夫婦で居候達と性交渉をしたりして過ごすうちに、この家は外国人バックパッカーらの間で「ドラッグが回ってくる家」として口コミで広がるなどし、やがて「ヘルハウス」と呼ばれる。ただ、この頃のらもはマリファナなどの違法薬物の持ち込みには厳しく、持ち込んだ者に対して「家族を巻き込むな!」と叱責してもいる。

ヘルハウス」の1ヶ月の累計宿泊者は、100人を超えた時もあり、汲み取り式便所の汲み取り口から排泄物が溢れそうになったという。このほか、顔にドーランを塗って夜の道路を徘徊したとか、猫に睡眠薬を飲ませたら翌朝、飼っていたウサギが首だけになっていた、といったエピソードが残っている。このころの生活は後に出版された自伝的小説『バンド・オブ・ザ・ナイト(2000年)』の元になった。また「パンクで一発、当てるつもりで」ロックバンド・PISSを結成。仲間からレコーディング費用を集めるも、レコーディング直前に費用を女に騙し取られたため頓挫した。

1981年3月、藤島克彦の紹介で前年設立されたばかりの広告代理店の株式会社日広エージェンシーに再就職。社長の宮前賢一は、藤島の関西学院大学時代の1年先輩に当たる人物で、卒業後も親交があった。あまりにも仕事が暇だった(自分で営業をかけない限り仕事がなかった)ため、電柱から次の電柱まで歩く気力が無くなり「これはうつ病」と直感、最寄の精神科に飛び込み、渋る医師を説得してリタリンを処方してもらうことで一旦寛解したものの、依存を断ち切るために断薬し、症状を再発させている。また、在籍末期には離人症気味になり、東京・月島にあった支所(アパートの一室)にこもって仕事をおこなった。

1987年宮前に独立を申し出て快諾を受け、日広エージェンシーを退社(宮前の回想では、宮前の側から独立を促したとしている)。同年7月、「有限会社中島らも事務所」を設立し作家活動を本格化させる。

多忙な人気作家となるも、飲酒や薬物の摂取がもたらす酩酊から着想を得ていたらもは、やがて連続飲酒を繰り返すようになる。アルコール依存を自覚していたらもは極度の疲労感、食欲の減退、体重減少、嘔吐、失禁、異常な尿の色、黄疸を自覚するようになり、1988年秋、アルコール性肝炎と診断され、大阪府池田市内の病院に50日間入院。後にこの体験を基に、小説『今夜、すべてのバーで』を書いている。

2003年2月に「オランダで尻から煙が出るほど大麻を吸ってきた」と大阪のラジオ番組で公言。この数日後、2月4日麻薬及び向精神薬取締法違反、大麻取締法違反で逮捕。この時の家宅捜索で、大麻のほか、冷蔵庫から干からびたマジックマッシュルームが見つかる。大阪地方裁判所での初公判では弁護士から自重するよう求められていたにも関わらず持論の「大麻開放論」を展開。同年5月26日に懲役10ヶ月、執行猶予3年の判決を受ける。同年夏、自らの獄中体験をつづったエッセイ『牢屋でやせるダイエット』を出版、手錠姿でサイン会を開くなど精力的に活動を再開した。

2004年7月15日、神戸市内で行われた三上寛あふりらんぽのライブに飛び入り参加。終演後に三上寛と酒を酌み交わし別れた後、翌16日未明、飲食店の階段から転落して全身と頭部を強打。脳挫傷による外傷性脳内血腫のため神戸市内の病院に入院、15時間に及ぶ手術を行うも、脳への重篤なダメージにより深刻な状態が続き、自発呼吸さえ出来ない状態に陥る。

入院時から意識が戻ることはなく、事前の本人の希望に基づき、人工呼吸器を停止。同月26日8時16分死去。52歳没。

 

まさしく、この投稿でいう「外向性ドラッグ耽溺者」 …

先人としての坂口安吾(1906年~1955年, 享年48才)の立場も視野に入れないといけません。「肉体に思考させよ。肉体にとっては行動が言葉。それだけが新たな知性と倫理を紡ぎ出す」なるフランス式急進派行動主義

ここで対抗馬として立ち現れるのが英国式保守派教養主義エドマンド・バークが「時効の憲法prescriptive Constitution)」について語った様に「ゆっくりと時代遅れになったアトラクションが更新されていくディズニーランドの様な存在として生きる」事を指します。中島らもが到達を目指し、到達し切れなかった境地?

その観点から、以下の投稿とも突き合わせてみないと…

 

 とりあえず、以下続報…