諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】人類が曲がりなりにも自らの多要性や多態性を尊重しようと考える様になったのは何時から?

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以下の投稿、思いっ切り毒を吐いたつもりだったのに、意外と良い人アピールみたいな文章になってしまいました。一体何処で間違ったやら…

 気分的には以下の投稿と連続性があったりします。

この問題についてのヒューリスティクス英heuristic, 独Heuristik)な解法として「この世界の評価軸が多元的で、かつどれだけの距離を進んでも無限遠点自体には到達し得ない事実をあえて完全に黙殺する」なる荒技が存在する。

  • 例えば聖地アッシュールに地上の全ての土地を帰属させるべく死力の限りを尽くした新アッシリア帝国は、その一方でその大義名分がアッシリア人意外に理解不能である事を恐らく察知しており、その是非自体について一切論じてない。
  • 太陽に少しでも多く生贄の心臓を捧げ続ける為に戦線拡大を続けたアステカ人についてもそうだった。
  • 「サンプル数が無限に増大し続ける状況下では正規分布のみが残る」という理由から他の分布の有効性を一切認めなかった正規分布原理主義者もそうだった。

当時はあくまで最強の立場で「他者の評価など一切気にならないほど、自らの生きる世界を疑わない態度」を貫いたからこそ、ほとんど弁明も残さなかったパターン…

共通項は「人類が曲がりなりにも自らの多要性や多態性を尊重しようと考える様になったのなんてごく最近の事」という感慨…