諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】「世界の裏側」が見たい人達と、実際に見てしまう人達の超えられない壁について。

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結城浩数学ガール』シリーズ(2007年~)も悪くはないのですが、そこには決定的に欠けているものがあります。グスタス・ハスフォード が「フルメタル・ジャケット(The Short-Timers, 1979年)」の中で述べたジャングル不等式すなわち「ジャングルとは常に(恐る恐る)足を踏み入れる人数より無事そこから出られる人数が少ない場所の事であり、その数が一致するのはそこがジャングルでない場合に限られる」。

まぁ世の中にはドン・キホーテの売り場とか、ディズニーランド・アトラクションの「ジャングル・クルーズ」みたいにジャングルの雰囲気だけ味わいたいニーズも確実に存在し、そんな空間でジャングル不等式なんぞ成立したら阿鼻叫喚の騒ぎになってしまいます。

 ホラー映画で有りがちな展開。そういえば「ソードアート・オンライン(Sword Art Online, Web小説版2002年~2008年, 刊行2009年)」も「マーダー・ライド・ショー(House of 1000 Corpses, 2003年)」もそういう話でした。

一方「数学ガール」シリーズはある意味「人が死なない日常ミステリー」つまり北村薫円紫さんシリーズ(1989年~)」や米澤穂信古典部シリーズ(2001年~)」の系譜。

  • 一時期中国推理業界における「古典部シリーズ」の評価の高さに驚いて調べたら、どうやら先行する欧米推理小説を必死に研究した北村薫米澤穂信の業績自体はあまり知られておりず、あたかもこの作品から「日常ミステリー」なる日本初のジャンルが始まったかの様に思われているのが原因らしい。

    つまり例えば「ディー判事シリーズ」からの出発ではなく「白川静詩経解釈→巫女さん百合」なんて流れ…

    なんと「氷菓」ばかりか「らき☆すた」への言及まであったよ。しかも父性愛の立場から…どうする、これ? まさしくジャングル不等式とは「読者からの要請に答え切れなくなった作家は脱落し忘れ去られいく過酷な生存バイアスが支配するエンタメ業界」そのものを概念化(Conceptualization)した方程式でもあるという話…

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 確かに「古典部シリーズ」には評論的側面もあり「日常ミステリーとはどうあるべきか」みたいな規定も作品内にある親切設計。特に高見広春バトル・ロワイアル(Battle Royale, 1999年)」の国際的ヒットをを背景とする当時の安易なデスゲーム物の流行に警鐘を鳴らした「愚者のエンドロール(2002年)」では「人が死ぬ推理物と人が死なない推理物の峻別点」概念をそのものを推理内容に含んだメタ推理物という趣で、しかも探偵役の主人公が既存概念に引っ張られ「ヒロインに悲しい思いをさせたくない」なるこのシリーズに共通する主題達成に失敗するという「残酷な結末」を迎える(日常ミステリーにおいては最早「事件の解決そのもの」が最優先課題ではない事自体がトラップとして機能する構成が見事)。

あまりに残酷過ぎて、アニメ版では主人公を慰めるオリジナルの「水着回11.5話が追加されたのは有名な話…まぁ同時に「邪悪な黒幕」の初登場回でもあるという親切設計だった訳ですが…ちなみに海外の女子ファンは「おれきー、後ろ後ろ!!」と、カトちゃんギャグみたいなツッコミを入れてました。

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  • かかる共通主題、もしかしたら本来は次回作となる予定だった「さよなら妖精(2004年)」準備稿において「それなら本当に人が死んでたらどうなるか」なる方向に発展していたのかもしれないのだが、当時の複雑な背景事情から別方向への発展が模索される様になって今日に至り、結果として「日常ミステリーでは人は死なない」狭義ルールが「古典部シリーズ」の枠内でも厳守される展開を迎えた。ちなみに別出版社から別シリーズとして刊行される事になった「さよなら妖精」は「古典部シリーズ」に再注目が当たる契機ともった作品。トリミングされてしまった(デスゲーム全盛期に迎合し、祖国の市街戦に巻き込まれてヘッドショット狙撃で即死する)留学生マーヤさんは真の意味で犠牲になったのだ!!。(逆定理「この世には生還率が100%を切る遊園地のアトラクションなど存在してはならない!!」)。

要するに実際にはそれは住み分け問題に過ぎず、それで「数学ガール」はむしろ逆にユーリへー!いろいろつながってんだねー!実際の話だからね」みたいな展開しか許されず、私は私で「何だよ2/5角形って…ああ5/2角形なら実在するのか。なら2/3角形には3/2角形か…「諸説あり」って定説なしかよ!!」とのたうちまわる毎日…

  • エンタメ業界的には極めて扱いの難しい問題。ある意味ロマン主義(Romantism)そのものの概念化であり、その精神はウィリアム・ベックフォードヴァセック(Vathek,1786年)」、 H.P.ラブクラフトランドルフ・カーターの供述(The Statement of Randolph Carter. 1919年)」「死体蘇生者ハーバート・ウェスト(Herbert West–Reanimator, 1921年)」、ミヒャエル・エンデはてしない物語(Die unendliche Geschichte,1979年 )」、映画「ファイト・クラブ(Fight Club, 1999年)」、つくしあきひとメイドインアビスMADE IN ABYSS,第1巻刊行2013年~)」の様な「オメガ・ファンタジー」の世界に継承された。トップハムハット狂が「Mister Jewel Box(2020年)」の歌詞「自分の生み出したものに殺されるそんなの芸術家として本望だろう」について「ネガティブでなくポジティブです」と言及しているが、この境地が理解できるか否かで評価がまるっきり変わってきてしまう訳である。

     

    あと1歩進んだら戻れない一線というのが確実に存在する一方で…



    でもその一戦までは超えられない人達が「デビルマン」や「ルパン三世」を絶賛する図式というのが確実に存在する訳で…


     

まぁ世界はそんな風に出来上がってる訳で?