諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】「本物と偽物の往復」と「生存バイアス」の切ってもきれない関係について。

日台友好 (にったいゆうこう)とは【ピクシブ百科事典】

大学時代だから1980年代、日本ファンの台湾からの留学生に「もし突然日本が滅んだらどう感じる?」と聞いて「この上なく嬉しい」なる予想外の答えを得て驚いた事があります(どうしてそんな事をを聞く経緯になったかは忘れた)。

台湾人留学生「(一点の曇りもない満面の笑顔を浮かべて)だってそしたら、我が台湾が日本文化の第一継承者になるんだぜ。最高じゃないか

「(衝撃に震えながら)韓国も元第日本帝国臣民として同じ事を主張すると思うぞ

台湾人留学生負ける気がしないね

これも(少なくとも当時の)台湾人の一側面。とっさに思い出したのがシュメール/バビロニア文化に傾倒するあまり完全に(「絶地天通」の言葉を残し自文化を丸っ切り捨て去って中華化した春秋戦国時代の楚の様に)完全にその文化の継承者となり果てた同化民族集合{アッカドアモリ人カッシート人カルディア人(末尾にヘブライ人を加える考え方もある。ユダヤ暦にまざまざとその足跡を残す豊穣神タンムーズ信仰、シュメール/バビロニア文学が旧約聖書に与えた影響などを指摘する考え方だが、要するに生存バイアス。民族的流動性が激しかった古代大陸の伝統を遺跡以外の形で伝えるのは、むしろ当時から一貫して民族的同一性に執着してきたユダヤ人とギリシャ人くらいという皮肉)}のうちカッシート人についてはアッカド人に代わってメソポタミア再統一に成功したアモリ人王朝(バビロン第一王朝)滅亡に(ヒッタイトの現地誘導という形で)加担した状況証拠が残っているのです。「偽物と本物の間の往復」と「生存バイアス」…

 1970年代末から1910年代末にかけての半世紀に渡る自分の音楽観賞歴を振り返ると同様に「偽物と本物の間の往復」と「生存バイアス」なるキーワードが浮上してくる事に気付きました。とはいえ、このうち1970年代末~1980年代初頭に掛けてはラジオからだ断片的に入ってくる離散情報や映画での採用が唯一の情報源で、ラジオで聞いたScorpionsInheritance(1972年)」を聞いて衝撃を受けたり(そしてM.S.G.=Michael Schenker Groupのファンになる)、映画「地獄の黙示録(Apocalypse Now,1979年)」でDoorsを知ったりしていただけだったのです。

一方、当時はYMOやKraftworkといったテクノ音楽勃興期で、ニューロマ全盛期。

実はロンドンパンクとニューロマは仕掛け人が量なっていて、その混沌をそのまま受容したのが日本のロック界だったのです。

  • この曲(1982年)はTVアニメ「うる星やつら( 1981年~1986年)」挿入歌「星空サイクリング(1982年)」として有名になったがオリジナルの歌詞に甘い「My Darling」の文言はない。そもそも日本には暴走族全盛期に暴走族がバイク事故の死者を悼む独特のロマンティズムが存在し、これが反社会的側面を強調するロンドンパンクに触発され、自殺をも示唆する「限界への挑戦の称揚」なるジャンルが樹立したのだった。

    久保田利伸流星のサドル(1986年)」も同じジャンルに属する。


    この世界観はやがて独特な「逼塞状態での自問自答」なる内面性を備えていく事になる。

本物と偽物」の話でいうと、そもそも世界にレゲエ音楽を広めたボブ・マーリー自体が本国ジャマイカでは当時から今日までずっと「白人ロックの影響を受け過ぎている」と非難され続けているし、その「ボブ・マーリーのレゲエ」は想像しいロンドン・パンク音楽上演の際、耳安めとして演奏されつつ独特のFusionを引き起こしつつ日本のパンク界にも広まったのです。その間ずっと課題となってきたのは、このジャンルの抱える反社会性で、むしろそれから離れれば離れるほどセールスを上げて音楽史に足跡を残す結果となったのでした。で、その時点から振り返ると、途中で加えられた混ぜ物の分量の方が多い有様で「本当にジャマイカ音楽のレゲエがルーツだったのか?」という展開になってしまうのでした。

そう「本物」の「本物らしさ」は生き残る役に立つどころか、しばしばその阻害要因となってきたのです。しかし音楽のメインストリームはミュージシャンに常に自らの欲求の満足と同時に「他者性」とほぼ同意義のこの「本物らしさ」を求めてきました。その狭間で引き裂かれ、消えていった犠牲者の何と多かった事か…

  • 他者性」の話ついでに私の韓国音楽の視聴歴について。Seo Taijiは登場初期「KORNコピーバンド」と揶揄されましたが、私にはむしろその整理された分かりやすさが有り難かったものです。

    その雰囲気作りは、当時日本で流行していた田島昭宇/大塚英志の漫画「多重人格探偵サイコ」に登場する架空のサイコパス・ロックミュージシャンたるルーシー・モノトーンの影響も受けている様に感じていました。Seo Taijiは日本文化の影響も色濃く受けた人で、そレくらいの「遊び」はやりかねない雰囲気があったのです。そう1990年代に入るとGoth文化が花開くのですね。

    韓国の場合、日本以上に「法的手段まで持ち出して自分の気に入らないコンテンツを抹殺しようとする狂信的モラリスト集団」の影響力が大きいので、裏側で様々な苦労もしてきた様です。その一方で「韓国の北島三郎(あるいは内田裕也)」として君臨し、BTSに土下座させる局面も…

    大人は虎変す」。そのSeo Taiji21世紀に入ると(日本のRock音楽のさらに大源流にある)英国音楽文化に着目し、パンクロックというよりアイドル音楽から多くの影響を受ける様になります。

    あえて「日本にも影響を与えたオリジナル」のうち「日本に影響を与えなかったジャンル」を選んだ様に見えました。「現実は正解」であり、それで成功し続けているので選択肢として正しかったと言わざるを得ない。

 

本物」も色々で、早世故にそれほど名前を残せなかったケースもあれば…

 

冒頭の「ユダヤ人問題」の様に、ただひたすらオリジナリティを追求し続けてきただけなのに、生存バイアスでその界隈において唯一に近い生残者となり「(当時の面影を伝える)懐メロ」として楽しまれてしまう事も。

こういう話では「本物」としてちゃんと国際的成功を達成してきたNine Inch Nalesを率いるTrent Reznorを引き合いに出さざるを得ない訳ですが、この人クラスになるとオリジナルだけでなく「映画に全く別アレンジで採用されたCover曲」でも景況を与えてる訳で、それについてどう考えるべきか…

一方、私にはそのTrent Reznorから公然と「偽物」呼ばわりされているマリリン・マンソンに熱狂していた 時期があり…

その一方でそのTrent Reznorについて「日和ったな」と思っていた 時期があり、当人も「こうして世界は狭くなる」と認めていたのに(むしろ私が若い頃難解なKornより分かりやすく整理されたSeo Taijiに熱狂した様に)むしろその虎変を喜ぶ人達が現れたり…

最初から予想してた通り、全然上手くまとめられませんでしたが、とにかく重要なのは「生存バイアス」で「本物・偽物論争」は後からついてくると考えた方が良さそうです。さて数理再勉強を宣言する以前から続けてきたこの種の話題、これから私の中でどう統合されていくんでしょうか?

あえて(資料を調べまくって書いた)過去投稿を一切読み返さず書き起こした記憶スケッチ。人間、存外「補助記憶装置」なしには色々な事を覚えてないものです。そんな私の今年のモットーは「人機一体」という…そんな感じで以下続報。