諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【数学ロマン】「観測者問題」は観測者の脳内にだけ存在する?

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はてなブログアクセス解析によれば、最近以下の過去投稿が急浮上。

語り得ることを語り尽くすことで語り得ぬことの輪郭を浮彫りにする事こそが、科学の本懐」なる考え方辺りが再評価されているのでしょうか。

この辺りにも絡んでくる?

ところで… 

私の一連の投稿ではこの話、以下の様な展開を遂げたのです。

以下のアニメーション、そもそも元データに進行方向が内向き外向きか、左回り右回りかについての情報が含まれておらず、それについて観測者はどちらに回っている様にも見てとる事が出来る。この現象こそが確率計算による期待値の算出(シュレディンガーの猫は1/2の確率で生きている/死んでいる)と「観測者の主観上における確率の収束」の関係とも見て取れる。

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「(条件付き確率における)ベイズの定理」はメモリレスと言われているが、こういう形での「不可逆的な(行き過ぎた)主観的枝刈り」も含む(客観的に見て実際には枝刈りが遂行されていない場合、数理の世界自体は元データに当たって再計算する事で容易く現実に復帰出来るが、人間の意識はそこまで器用でなく置き去りにされてしまう)。

この事には20世紀末、すなわち「人間の知能のシミュレーションを重視した第二世代人工知能言語Plologを触ってる時に気付きました。

  • 観測者は、ただ「真っ昼間歩いていたら、何の事もない地面の起伏に躓いて転んだ」なる情報を提示されたら「発熱していて朦朧状態だった」といった異常を疑う。
  • だが次いで「その時は皆既日食が訪れ、突然暗闇が訪れた瞬間だった」なる情報が提示されたら、そうした異常を疑う理由自体が消失する。これが私がこれまでの投稿でしばしば「代数演算の粗雑性」なる表現で表してきた「AはBである」「ところでΒはCでもある」「すなわちAはCでもある」なる三段論法の類が本質的に抱える欠陥である。
  • しかしながら、かかる「我々の認識可能範囲外を跋扈する絶対他者」の振る舞いを予め全て想定し尽くして計算しておく事は出来ない(その計算が可能なら、既にその対象は「我々の認識可能範囲外を跋扈する絶対他者」ではない)。すなわちこれこそが「名状し難きもの(The Unnamable)は名状し得る場合(Namable Case)、既にそこには存在しない。ならば名状し難きものものとは一体何者か?」ジレンマの本質で、こうした計算に本気で取り組めば取り組むほど個別ケースを想定せざるを得なくなり、抽象的な一般解から遠のく(実際、第二世代人工知能知能はこの問題に直面して挫折した)。

 そういえば、まさにこの種の問題に直面した事こそが、私が2018年末より数理再勉強に本気で取り組み始めた理由だったのです。その事実を思い出した辺りで以下続報…