諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】「新しい〈問い〉のデザイン」?

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認識可能範囲外を跋扈する絶対他者」に向き合った場合問われる「どうふるまってよいかわからないときに、どうふるまうかを知っている」知恵を主題としている以上、このサイトが根の少なくとも1本を哲学分野に下ろしている事は否定出来ないのです。

G.ジンメル「他者理解論」考

哲学に答えはない」はドゥルーズガタリの共著「哲学とは何か」辺りからの思考様式の援用でしょうか?

そういう私が今年の初月にまとめた問題意識がこれ。

①とにかく最初にして最大の難関は「(それ自体は観測対象とならない観測原点と観測極限の間に横たわる)全観測結果集合の差異と相関関係が検出出来ない(統計学でいう名義尺度状態)」原始観測円/観測球面状態からの脱却と(無限遠点Inf(inty)を無限小-Infと無限大Infに峻別する)両側無限観測線樹立の瞬間にある。多くの過ちが、かかる初期段階からの認識エラー、およびその後の状況変化への対応不全に由来する。 
②人間は多くの場合数理に「順序付け」を求め、むしろそうした人間側の事情が鏡の様に最も反映される範疇だからこそ「数理による順序付け」は慎重に遂行しなければならない。かつてネットを介してコミュニケーションする相手から学習する人工知能が人種差別と性差別に染まって公開を注視される事件があったが、この方面の数理はしばしば「(現実の反映が不十分な)観測者が見たいものを見るだけの鏡」や、その真逆の「(観測意図に反する)予想外の状況を写し出す鏡」と化してその実用性を喪失する。ここで鍵となるのは「何処までを視野内に留め、何処からを誤差として切り捨てるか」は、あくまで究極的には人間の主観に拠るという現実だったりする。
③そして貨幣経済の浸透と産業革命の導入は、近世までは形骸化しつつも建前上はそれなりの形で存続し続けてきた既存の身分社会地方共同体の存続を許さなかった。それで当時勃興した統計学社会学は(王侯貴族や聖職者/士官/官僚供給層といったランティエ(Rentier、地税や家賃収入で暮らす不労所得者)の如き、収入制限選挙時代には議会政治を牛耳る事も可能だった)既存ブルジョワ=インテリ=政治的階層の存続を賭した自己正当化(実際それまでの科学と技術と芸術の発展はベルヌーイ一族やフラゴナール一族の様な名家と彼らへのパトロネージュに支えられてきたのではなかったか?)と、「教育の平等と性差別撤廃こそが天才発掘の可能性を最大化する」と考えたコンドルセ伯爵(Marie Jean Antoine Nicolas de Caritat, marquis de Condorcet, 1743年~1794年)やジョン=スチュワート=ミル(John Stuart Mill,1806年~1873年)の古典的自由主義(Classical Liberalist)=数理的大同主義者(Mathematical Daidoist)の闘争の渦中に否応なく巻き込まれる事になったのである。現代的価値観から振り返ると、どちらも「機会の平等」への配慮はあっても「成功の平等」への配慮は十分でなかった(この問題、考えれば考えるほど頭がこんがらがってくる)。そして双方ともにCaptains of Industry(国際的に通用する産業界のリーダー)の安定供給方法に一家言あったが、結局勝負はつかなかった。後発の科学的マルクス主義(Scientific Marxist)や社会自由主義(Social Liberalist)に至っては「我々は人倫問題も含め全て解決する」などと豪語しまくった割には所詮漁夫の利を狙っただけに過ぎず彼らほど数理的背景を背負う気概があった訳でもなく、結局口先だけに終わりつつある。要するに21世紀に至ってなおこの問題、まだまだ解決の(いとぐち)すら見えていない。
トマ・ピケティ『21 世紀の資本』

 さて、私は今なお哲学の領域に踏みとどまっているのでしょうか?