諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】(中世自然法主義時代の)天動説と(近世法実定主義時代の)地動説の狭間にて

久しぶりに「グラタン料理」に関わる話題…

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偶然の産物として誕生した「グラタン」

グラタンLe gratin)」は、鍋にこびりついた「おこげ」や「こげ目をつける」という意味のフランス語です。もともとは「掻き取る」「ひっかく」という動詞「gratter」に由来し、フランス南部、イタリアにほど近いサヴォワ・ドーフィネ地方で、失敗した焼き料理のおこげが美味しかったという偶然から「グラタン」が誕生したと伝わっています(マカロニを使ったのも土地柄かもしれません)。それが転じて19世紀以降、料理の表面に焦げ目をつける調理法と出来上がった料理そのものをフランスで「グラタン」と呼ぶように。日本では「グラタン」といえば、ベシャメルソースを使ったマカロニグラタンが主流ですが、もともとは、この調理法を用いた料理はすべて「グラタン」なのです。

相変わらず、本当に最初から現地郷土料理の段階でマカロニが入っていたかは不明のまま。入っていたとしても不思議ではないのです。イタリアに隣接するドイツのシュヴァーヴェン地方(ゲルマン民族の一派であるスエビ族に由来し、神聖ローマ帝国皇統にしてシチリア王国王統のホーエンシュタウフェン家を輩出)だってパスタ料理は食べてます。ただし、大抵そういう土地には思わぬ激動の歴史が刻まれるもなので…

調和級数が発散することの証明を最初に行ったのは、14世紀パリ大学ニコル・オレームであるが、これには誤りがあり、正しい証明が得られたのは17世紀になってからである。その後ライプニッツなどは有限項の調和級数の近似式に関心をもつなど17世紀においても数学的な関心を集めていた。

ここで名前が挙げられているニコル・オレームNicole Oresme または Nicolas d'Oresme、1323年頃~1382年)はフランス絶対王政が樹立していく過程で重要な役割を果たした人物の一人でもあります。要するに中世から近世への橋渡し役の一人…

14世紀フランスの最も優れた哲学者のひとりであり、その活動範囲は広くあらゆる分野に及んだ。貨幣に関する著書、数学、天文学に関する多くの著書がある。アリストテレスの著書をフランス語に訳したことでも知られる。天文学の分野では『天体・地体論』の中で、アリストテレスらの、地動説へのさまざまな反論に対して反証をあげて、地動説を否定することができないことを示した。それにもかかわらず地動説も天動説も明証的ではないので、自らは天動説を信じるという立場をとった。

ノルマンディー地方アルマーニュ(現フルーリィ=スュル=オルヌ)村に生まれパリ大学のナヴァール学寮で学んだ。スコラ学派のジャン・ビュリダンザクセンのアルベルトアルベルトゥス・デ・サクソニア)らと学んだ。パリで神学を学び、学識が高いという評判は、フランス王家の注目を得て、後のフランス王シャルル5世の知遇を得た。シャルル5世の側近として仕え、その貨幣改革に理論的裏付けを与えた。1361年ルーアンの司教代理となり、1377年にノルマンディーのリジューの司教になった。

最初にドーファンDauphin=ドーフィネ公)の称号を有した王太子である。ドーフィネの支配はフランス王国にとって貴重であった。というのも古代から地中海とヨーロッパ北部を結ぶ商業上の大動脈ローヌ川を抑え、教皇の支配する街であり中世ヨーロッパにおいては、無視することのできない教皇の文書行政の中心地であるアヴィニョンと直接交渉することができたからである。

英国の皇太子がプリンス・オブ・ウェールズPrince of Wales)と呼ばれた様にフランスの皇太子がドーファン・ド・フランスDauphin de France)と呼ばれたのは、名目上(フランスとイタリアを陸路結ぶ街道を押さえる重要直轄領たる)ドーフィネ地方を相続したとみなされるから。

フランス宮廷料理は獲得した領土の郷土料理を導入して洗練させてきた事でも知られる(例えばナポリ獲得を契機にトマトソースを用いた「ナポリ風料理」を広めた)。ドーフィネ地方からは「(アルプス産の牛乳や濃い生クリーム、近郊で作られる硬質チーズなどを原材料とする)グラタン料理」が導入された。

ただし彼の治世下の1377年に、グレゴリウス11世在位:1370年~1378年)がアヴィニョンからローマに戻ると、複数の教皇が並び立つ教会大分裂(1377年~1417年)が起きている。

中世末期の行政機構の研究家フランソワーズ・オトランシャルル5世税金の父と呼ぶ。現在の税金の基礎となる定期的な臨時徴税矛盾した表現であるが)を行ったり、常備軍・官僚層を持つなど、後年の絶対王政のさきがけを成した。また、彼に仕えた軍人・官僚の中から、シャルル6世時代のマルムゼグロテスクな顔の小人)と呼ばれる官僚が現れた。

貨幣政策においては、リジュー司教ニコル・オレームらの学説に従い、貨幣価値を安定させて貴金属含有率の高い通貨を発行し続けた。祖父や父が貨幣の貶質によって利益を得ようとしていたのとは対照的であり、このことが臨時的な課税の恒常化に役立ったとされる。

 病弱で物静かな読書好きであり、武勇と騎士道を好む頑強な父と正反対で、戦闘を避け、敵の疲労を待って着実に城・都市を奪回して行く戦法、適切な妥協を含む外交手腕などの現実的な政策により、治世末にはブレティニ・カレー条約で失われた領土をほぼ奪回した。カレーバイヨンヌボルドー実質上イングランド軍が駐屯し、占領していたシェルブールはカルロス2世の所領で、ブレストもブルターニュ公ジャン4世の土地であった)のイングランド軍を完全駆逐せず、停戦したのも現実的な計算が働いたためである。

また膨大な蔵書を有し、アリストテレスの「国家論(ニコラ・オレームの貨幣論に影響を与えた)」、教父アウグスティヌスの「神の国」などの古典をフランス語に翻訳させている。その他にも、ドル司教エヴラール・トレモーゴンらに命じて政治的パンフレットである「果樹園丁の夢」「老いた巡礼者の夢」などを出版させ、フランス教会の独立(ガリカニスムの始まりとも言われる)を主張した。

また当時はブレティニ・カレー条約での休戦によって解雇された傭兵隊が社会不安(ルティエやエコルシュール(生皮剥ぎ)と呼ばれる盗賊化した傭兵が略奪行為をしたことによる治安悪化)の原因となっていた。これをカスティーリャ王国援助に誘導し、あわせて外交上の成功を収めている。解雇された傭兵達は、エドワード黒太子の支配する治安の安定したアキテーヌからも追い出され、アヴィニョン教皇庁周辺に屯しており、それを討伐しようとするラ・マルシュ伯らの軍勢は敗北した。また、オスマン帝国に対する十字軍として東方に派遣した傭兵達は、金だけを受け取って神聖ローマ帝国領内で略奪を働いた後、またフランスに戻ってきていた。

しばしば議論外に追いやられてしまいますが「ローマ教会からの独立性の確保」は欧州絶対主義成立過程で絶対欠かせない話題だったりするのです。

  • ゾンバルト恋愛と贅沢と資本主義(Studien zur Entwicklungsgeschichte des modernen Kapitalismus,1913)」も、ブルクハルト「イタリア・ルネサンスの文化(Die Kultur der Renaissance in Italien, ein Versuch,1860年)」も「(絶対王政樹立や資本主義浸透に至る)自由主義の伝統」の始まりを当時のアビニョン教会における「退廃(すなわち神のもたらした自然法と伝統を至高と崇め、それから逸脱する個人的快楽の追求を一切認めない中世的節制主義からの脱却)」と「世俗領主化(現世諸事情からの超越的立場の放棄)」に見出した。
  • その意味合いにおいてはアナーニ事件1303年、フランス軍がアナーニの別荘にいた教皇ボニファティウス8世を襲撃した事件)とアヴィニョン捕囚1309年~1377年,キリスト教カトリックローマ教皇の座が、ローマからアヴィニョンに移された)を画策したフランス王フィリップ4世Philippe IV, 在位:1285年~1314年, ユダヤ人やテンプル騎士団の財産を差し押さえて国家財源とし、従来の聖職者に代えて「レジスト」と称される世俗の法曹家を官僚に採用するなど官僚制度の強化に努めた)および彼がライバル視したイングランドエドワード1世(Edward I,在位1272年~1307年,法整備を進め代議制議会の要素が強い模範議会を招集。ユダヤ人の財産差し押さえは彼が先に行った)辺りが「中世的世界観からの最初の逸脱者」と目される事になる。ちなみに候補者としてさらに遡り神聖ローマ皇帝/ホーエンシュタウフェン朝シチリアフリードリヒ2世Friedrich II.,神聖ローマ皇帝1220年~1250年,シチリア王1197年~1250年)の名前を挙げる向きもあるが、ブルクハルトゾンバルトのこの人物に対する評価は必ずしも高くない(スイス人ながらルネサンス期イタリアへの思い入れが強かったブルクハルトの観点からすれば「隙あらばイタリアを征服しようと狙い続けた大悪人」、ドイツ人のブルクハルトからすれば「神聖ローマ帝国皇帝の立場にあるながら、ドイツ諸侯を放置してイタリア政策にかまけた暗君」となる。主観が入り過ぎでは?)。

    ちなみにフリードリヒ2世の時代とフィリップ4世/エドワード1世の時代の間を埋めるのが(私欲に駆られてプロヴァンス地方を荒らし、十字軍運動を終わらせ、シチリア王国征服の為にローマ教皇の支持を取り付けてホーエンシュタウフェン家を滅し神聖ローマ帝国空位時代に追い込み、さらにフリードリヒ2世の夢を継承して東ローマ帝国征服を夢見るも、アラゴン王国乱入などもあって結局果たせずに終わった)悪名高き王弟シャルル・ダンジュー(1227年~1285年)の暗躍である。いずれにせよロマネスク期(Romanesque period, 10世紀末〜12世紀)には(フランス北部に割拠しイングランドシチリア島支配下に置いた)ノルマン系貴族や(ピレネー山脈以北に割拠した西ゴート王国遺臣たる)アストゥリアス系貴族や(東ローマ帝国イスラム帝国の争いの隙を突いてイタリアのロンバルディア地方に侵攻した)ランゴバルド系貴族や(フランスのブルゴーニュ地方に割拠した)ブルグント系貴族の緩やかな部族連合的紐帯(およびそれにぶら下がったフランス北部やフランドル地方の諸侯)が歴史を動かしたが、彼らが影響力を喪失したゴシック期(Gothic period, 12世紀後半〜16世紀前半の欧州中心部では(アンジュー帝国成立に至る英仏間抗争の火種隣、エルサレム失陥を引き起こし、バロン戦争の原因ともなった)リュジニャン家や王弟シャルル・ダンジューの企んだ名族の陰謀に歴史が翻弄されたといえよう。そしてその反省を受けてゴシック期中盤よりイングランドとフランスの中央集権化が始まる訳である(イングランドとフランスにおける中央集権化の開始はペスト蔓延以前から始まっており、それだけでは説明がつかない)。

 そしてシャルル5世は(フランス絶対王政樹立過程と浅からぬ縁にある)フランス宮廷料理樹立史においても重要な役割を果たしているのです。

最初にフランス宮廷料理のレシピを執筆したのはシェフのギョーム・ティレルGuillaume Tire)、通称タイユヴァンTaillevent)と呼ばれる人物の登場と共に始まった。それまで料理の伝承はシェフから弟子への口答による説明だけで伝えられていたのだが、彼は印刷機が発明されるよりも前の1380年頃に著された『ル・ヴィアンディエ Le・Viandier』で初めて手書きのフランス語で成文化。当時、文芸と芸術を保護し賢明王とも呼ばれた国王シャルル5世在位1364年〜1380年)がそれを命じた結果であった。 

で、今回掘り当てたのが以下の論文。
ニコル・オレームの世界観 - 大阪府立大学 学術情報リポジトリ

オレームの『天体論註解』における地球自転説に関する思考実験は、地球の自転を擁護するための極めて説得力のある議論のゆえに有名であるのみならず、そのような説得力のある議論にもかかわらず、オレームが最終的に天動説を擁護しているということでも有名である。彼は、経験も理性も天界が回転していることを証明できないし、地球が自転していることに有利な議論を展開することもできるということを説得力のある仕方で示した後、「それにもかかわらず、天界が動き地球が動くのではないと誰もが主張するし、私自身もそう信じる。なぜなら〈神は地を堅く建て、地は揺らぐことがない〉からである。反対する諸理由にもかかわらずそうである。なぜならそれらは明証的に結論を下している説得ではないからである。しかし上述のことすべてを考慮するなら、動くのは地球であって天界ではないと信じることができるであろう。なぜなら、反対のことは明証的ではないからである。それにもかかわらず、一見したところ、このことは我々の信仰個条のすべてあるいは多くと同じくらい、あるいはそれ以上に自然理性に反しているように思われる。私がたわむれに述べてきたことは、このようにして、我々の信仰を理性によって論駁しようとする人々を論破して非難するのに価値があるであろう」と言う。地球の自転を擁護する議論が極めて印象的であるだけに、このことばはあまりにも意外である。

天界が動いているのか地球が動いているのかという問題がオレームにとって自然学にのみかかわる問題か形而上学、神学にもかかわる問題かということに関して、次のようなことに注意しておくことが必要であろう。

  • 世界全体が球形をしているとオレームが考える理由は、球が最も受容力があるからということであり、自然学的な理由ではない。
  • この世界の外に無限の空間があり、そこに複数の世界があって、その間が空虚になっていることが可能であるとオレームが考える理由は、神が全能なので矛盾のないことなら何でもできるということである。
  • 地球からの距離に関して、太陽、金星、水星の順序を決める自然学的な理由をオレームは示せない。オレームは完全性の順序によって決めているようでもあるが、完全性の明確な基準を示すことができない。
  • 惑星の運動は周転円や偏心円を用いなければ表されえないものであるにしても、惑星の運動が正確にどのようなものであるのかについてオレームはあまり関心を示していない。
  • 惑星は周転円や偏心円に沿って動くとオレームは考えているのであるが、それが自然学的にどのようにして可能であるのか、また天球、惑星の実体、平声円、偏心円の関係はどのようになっているのかを示していない。
  • 惑星の不規則な動きを説明するためにその引解として天使をオレームは考えているのであるが、そのことによってオレームは第9天球を不要にしている。

これらのことから世界の構造、世界を動かす者とその動かし方などについてのオレームの考えは、形而上学、神学と深くかかわっていると言えるであろう。確かに我々は視覚によって天体の動きを見ることができる。しかし天界は遠くにあり、我々は天界についての実際的経験をほとんど持っていないので認.それゆえオレームにとって天界が動くのか地球が動くのかというような問題は、自然学だけの問題というよりは、むしろ形而上学、神学にこそかかわる問題であった。事実、オレームは「時計の規則正しい運動が何らかの知的な力によって起こされることなしに偶然に起こるとは誰も言わないように、天界の運動は人間理性よりも崇高で偉大な知的な力にはるかに大きく依存しているのでなければならない」と言っている。それゆえ、そのような問題を理性と経験だけで解決できると思うことは、オレームにとって傲慢なのであった。

だとすれば、オレームが地球自転説の側に立つ主張も天動説の側に立つ主張も多く集めているのは、理性でもって理性を困惑させるためではなく、軽々しく判断を下すことを避け、真理を愛するという態度のもとに、両方いずれの側の主張もできるだけ集め、両方の側の主張を比較するためであるといえるのではないだろうか。

上掲の様な全体像を俯瞰すると「体制側の人間だったので、迂闊に教会の教義に逆らう様な結論を肯定は出来なかった(ただしギリギリまで地動説そのものは紹介した)」という結論に至る様にも思えるのですが、どうでしょう?

  • フランスには似た様な例として小説「カルメン(Carmen,1845年)」で著名なフランス文学者メリメ(Prosper Mérimée, 1803年~1870年)が「体制側の人間」であったが故に、あえて友人スタンダールの「赤と黒(Le Rouge et le Noir, 1830年)」を徹底的に貶める一方でプーシキンの「スペードの女王(1833年)」を推しに推しまくった逸話が伝わっている(前者がナポレオン的野心を抱く若者に同情的で、後者がその破滅過程を冷徹に描く内容だった為)。そのくせ皇帝ナポレオン三世が台頭すると変説し、ちゃっかりその側近に収まってしまう辺りにこの人物の抜け目のなさが窺える。

  • とはいえナポレオン失脚後の欧州ではフランスに限らず国際的に「ナポレオン的野心は破滅への道」と唱和する事を強要される空気が横溢していた状況も勘案しなくてはならない。例えばロマン派詩人パーシー・シェリ(フランケンシュタイン(Frankenstein,1818年)」作者シェリー夫人の夫)の代表作「オジマンディアスOZYMANDIAS,1817年)」もまた、当時のそういう空気を追い風に受けて人気作となっている。

そんな感じで、以下続報…