諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】「新書」なる日本の伝統文化について。

何にでも歴史あり…

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新書の歴史は1938年創刊の岩波新書に始まる。ドゥガルド・クリスティーの著作である『奉天三十年』の上下巻で創刊した。

1938年当時、文庫はまだ判型が定まらず、小型の叢書という程度の意味であり、現在の新書に近い判型のものも含んでいた。そんな中、すでに岩波文庫を発行していた岩波書店が、判型・内容ともに岩波文庫とは違うものとして創刊したのが岩波新書である。古典を収録する岩波文庫に対し、岩波新書は書下ろしを中心として、「現代人の現代的教養を目的」(巻末「岩波新書を刊行するに際して」岩波茂雄)とした。現代的教養とあるように、時代のトレンドを色濃く反映した。創刊当時は太平洋戦争開戦の約3年前という時代であり、満州占領を受けた支那分析や、戦争における気象の影響など、帝国主義的な内容の物も数多く発売された。また、当時の記法の主流であった右書きの横文字や旧字体も当たり前のように用いられていた。

岩波新書創刊にあたって参考にされたのは、前年の1937年にイギリスで創刊されていたペリカン・ブックスであり、当時の判型は174×108mmである。これに対し岩波新書172×112mmであった。

岩波新書の後を追ったのは、翌1939年刊行開始のラヂオ新書日本放送出版協会)であった。

1954年~翌1955年にかけて多くの新書が出版され、第一次新書ブームが訪れた。きっかけは、1954年2月に発行された新書判の単行本、伊藤整女性に関する十二章』(中央公論社)である。当時チャタレイ裁判の被告として時の人であった著者のこの本は、ベストセラーとなった。他社からも新書判の単行本が各種出され、新書レーベル創刊の前に、新書判という判型がブームとなっている。

また、10月に光文社から創刊されたカッパ・ブックスをはじめとして、翌年にかけて多くの新書レーベルが創刊された。『岩波新書の50年』によれば、「当時、軽装判・新書判のシリーズは、九三種類あるといわれた」とある。『出版年鑑1956年版には、新書名93種が挙がっている。この中には、B6小判など、新書判以外のものも含まれているが、新書判の「文庫」は別にあげてあるので、新書の範囲を広くとれば、100種以上があったことになる。

なお、戦後初期創刊の新書としては、角川書店飛鳥新書1946年)、河出書房の河出新書1948年)、岩波書店岩波新書 青版1949年)、角川書店角川新書誠文堂新光社アメージング・ストーリーズ以上、1950年)、白水社文庫クセジュ、四季社の四季新書東京大学出版会東大新書以上、1951年)、朝日新聞社アサヒ相談室(1952年)、朝日新聞社朝日文化手帖三笠書房三笠新書早川書房ハヤカワ・ポケット・ミステリ以上、1953年)がある。

 最近はこんな話題も。

この辺りは民族性も現れてて、欧米ではラジオ放送が音楽やドラマ放送など娯楽方面に特化していたのに対し、日本やドイツでは最初から論説や教養や教育上の伝達手段としても活用されてきたという…一方、アメリカでは「テレビ説話」が宗教右派躍進の武器となり、ヒッピー世代がそれに抵抗した時代がありました。その時彼らが抵抗媒体としてイメージしたのは「ラジオの海賊放送」だったのです。

この辺り、時間があったらもっと調べ込んでみたいですね。そんな感じで以下続報…