諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【ジョゼと虎と魚達】とりあえずこれまでのネット評のまとめ。

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思わぬとばっちりを喰らってしまった「ジョゼと虎と魚たち」。何せ息が長いコンテンツなので、その影響の受け方も重層的だったりするのですね。

とりあえず今回はネットで流れてる所感の要約に取り組みます。

まぁ、一般的感想としてはこういう感じです。それに対して…

本作は総じて、社会の側の歪みをジョゼ個人の「甘え」や勇気の問題に回収する姿勢が目立つ。勿論その方向性自体は仕方ない。クリスマスにわざわざ障害者問題を考えに映画館に行くカップルなど居ないのだから。

それでも、ジョゼと同じアパートに住み「お乳房さわらしてくれたら何でも用したる」と言い寄る男だけは絶対に残すべきだった。彼は恋愛や性という『ジョゼ』の根幹を成すテーマに直接関わる存在だからだ。原作や実写では厳然と存在した彼が消された本作では、ジョゼが外の世界で立ち向かわねばならない恐怖の輪郭はひどくぼやけ、その象徴たる虎も抽象的な存在に成り下がった。

女性障害者が性犯罪の格好の標的とされる状況は今も変わっていない。今年、視覚障害者の女性が相次いで盗撮される事件が起きたが、その中には自宅まで侵入してカメラを仕掛けられた例もあった。ジョゼが悪意の気配に敏感なのも性被害を抜きには語れない。「女性である」ことと「障害がある」ことの複合的な困難の一端はNHKのサイトにまとめられている。

女性障害者達は恋愛や性の領域で次のようなジレンマを抱えていると考えられる。一方では桁違いに高い性被害のリスクと、そこからの「保護」を口実にした生活への厳しい管理・介入。他方で「恋愛や性では障害を言い訳にせず、もっと主体的にならないといけない」という規範圧力も根強い。まさに前門の虎、後門の狼である。

しかし本来「安全な環境の保証」と「性的主体になれる」ということは相反するものではない。むしろ両者は表裏一体の権利である。後者の自由を安心して行使するためには前者の存在が大前提となるからだ。

ジョゼは上記の男の振る舞いによって、安全を脅かされるだけでなく、同時に性嫌悪も否応なく植え付けられているのだ。それに拍車を掛けるような生い立ちもある。原作では生みの親にも継母にも半ば捨てられる形で施設に入れられていたのだが、疎まれた一因として「車椅子が要って生理がはじまっているという『ややこしい』」存在である事が挙げられている。

ジョゼが性愛の主体になるには、まずこの何重もの性嫌悪というハードルを大変な苦労により乗り越える所からスタートせざるを得ない。

それは苦しみの終わりではなく始まりだ。実写版のベッドシーン直前、「俺は隣のエロオヤジ(上述の男)とは違うし」と言う恒夫に対し、ジョゼは「どう違うの?」と問う。ジョゼはこの先の人生、相手が恒夫であれ他の誰であれ、男と交際している時は決してこの問いから解放されることは無いだろう。

 「実写版」 派はここを攻めてきますね。

ジョゼと虎と魚たち

「いろいろ見なあかんもんがあるんや。花とか猫とか。」

足の悪いジョゼがおばあの引く乳母車で散歩する理由。
周囲の人間は気味悪がってジョゼを殴り、ジョゼも包丁で応戦した。
そこまでしてなぜ散歩にこだわるのか。
(身の危険のことも考えて)もう散歩はやめたほうがいいよ、とアドバイスする恒夫にきっぱりと言い放ったジョゼの力強い台詞だ。

私はこの映画を観ることを避けていた。
なんとなく観たらいけないような気がしていた。
観終わった今、ジョゼが「ほらな。」と吐き捨てるように全てを見通したような澄んだ目で私に語りかけてくるような気さえしてくる。

「ジョゼ」という女性は赤ん坊のような無垢さと情愛に耽る女の淫らさ、そして深海を流れる冷たい水を思わせるような静けさという一見相容れない要素が複雑に絡み合って形成されている象徴的な存在だ。

念願の水族館に向かうシーン、「車椅子に乗ろうよ、俺がおじいちゃんになった時どうするんだよ。」とジョゼをおんぶしながら無邪気に笑う恒夫に対し、ジョゼは「あんたがおんぶしたらええんや。」と呟いて彼の背中で小さく身を屈める姿がとても切なくいじらしい。

「こんな幸せな日々が続くわけがない。」

冷めた目で社会と自分との距離を見つめるジョゼは前者と後者の間にぼんやりと、しかし確実に存在する「大きな溝」をはっきりと認識していたのだと思う。だからこそ、楽しくて仕方ないはずの恋人とのデートと何気ない会話のなかに泡のように浮かんでは消えてしまう儚さを感じてしまったのだろう。

いずれ恒夫が恒夫自身の「現実」に帰っていくことを知ったうえで、あのような立ち居振る舞いが出来るのは自立した大人の女性にしか出来ない。いや、ジョゼにしか出来ない。全てを見越したうえで最大限「今」を楽しむことができる精神的余裕がジョゼには少なからずあった。勿論、彼女自身が語る「いつもの海底暮らしに戻る」という現実を受容することに痛みが伴わないはずはなかっただろう。

ただ香苗の元に戻った恒夫が「俺は逃げた。ジョゼとはもう二度と会えない。」と大泣きしているいっぽうで電動車椅子に乗り、美味しいご飯を作って飄々と生きるジョゼの姿はあまりにも清々しく少女のような愛らしさがあった。

時間と空間の概念を飛び越えて、ジョゼは「リュウグウノツカイ」のようにゆらゆらと恒夫の心の奥底を静かに泳ぎ続けるのだろう。

恒夫がジョゼのことを忘れても、忘れていなくとも。

一方実写版にもこういう批判が寄せられたりもしてる訳ですが。

またこういう人達には上掲記事の「締めの言葉」が単なる付け足しと映る様です。実際にはむしろ社会はこの部分をこそ全力で受け止めないと著者の意図にも反してしまうと思うんですが。

現実の障害者やそれを取り巻く状況への興味から創作が導かれる訳ではないため、不勉強だったり腹が立つような表現は今後も登場し続けるに違いない。また、田辺聖子による原作が出版されてからの36年間を振り返っても、障害者にまつわる物語は複雑さを許容されるどころかむしろ退化しつつあるようにも見える。

だが創作表現と現実社会は互いに影響を及ぼし合っている。その事を忘れ、社会状況を問うことなく、責めを全て表現者に帰せば「そういう面倒なことを言われるから障害者を出したくなかったんだよ」と言われるのがオチだ。

今はまだ創作に登場するだけでも歓迎せざるを得ない段階にある。これから我々は気の遠くなるような時間をかけ、たとえ凡庸なものであっても障害者表象を蓄積していかなければならない。量をストックし続ける事が、優れた表現を芽吹かせるための土壌となる。

その先の遥か未来、豊かな物語が障害者からも健常者からもたくさん現れていくだろう。そして最終的には、障害者が何の理由もなく出てくるようになる事を願っている。

最後に、本作の白眉と言える箇所を紹介しておきたい。

ずっと届かんかった 屋根に引っ掛かった赤い風船にも 木にくっついとるセミの抜け殻にも 雨の日に水玉の傘さして歩くのも 神社の階段駆け上がるのも 全部…

車椅子に乗る者の実感を見事に掬い取っている。絶望を語る言葉でありながらハッとする程美しい。このジョゼの台詞だけで、本作が世に出た意義はあった。

  • 2010年代には国際SNS上の関心空間への滞留時間が長く、そこで匿名Black Establish系アカウントから(実際に知り合いとなった黒人からはかえって聞けない様な)様々な話を聞かせてもらったものだが、このビジョン自体はそうして得てきたた知見とも一致する。

  • もう一つの忘れてはならない歴史。2010年代国際SNS関心空間に集った「第三世代フェミニスト」連合は「政治的勝利」を最優先課題に掲げ1970年代~1980年代に一斉を風靡した第二世代フェミニズム勢批判を契機に成立し、21世紀に入ってからのいわゆる「リベラル的価値観の暴走」から常に距離を起き続けてきたのだった。そういえばジョゼ原作版におもジョゼの「死こそ幸福」と信じる価値観と「騒々しいばかりで代償として失われる物も大きい女性や障害者の権利拡大運動などから忘れ去られる」状況の緩やかな連続性が示唆されている。当時の作品としては珍しい事ではなく、ロシア映画オブローモフの生涯より(1979年)」なども同種のテーマを扱っていた。

    オブローモフの生涯より

    1980年オックスフォード国際映画祭最優秀作品賞、撮影第一賞、最優秀男女優賞
    ニキータ・ミハルコフ監督の「機械じかけのピアノのための未完成の戯曲」につづく長編第五作で1980年カンヌ映画祭に出品されて評判となった。

    19世紀の文豪、イワン・ゴンチャーロフの代表作で、主人公の名が、無気力、怠惰な人生の代名詞にまでなった「オブローモフ」(1859)の映画化である。

    世紀末、無為に過ぎゆく人生を、何とか有意義に送ろうと努力するものの、所詮は怠惰な生活に安住してしまうロシア・インテリゲンチャの典型、オブローモフ。一方、彼の友人で対照的にプラグマティックな生き方をするシュトルツ。そして知的で感情豊かな、自らの意志を持ったロシア文学の理想的なヒロイン、オリガ。映画はこの三人が織りなす人間関係を軽妙タッチで、そして時に諷刺を交えて描いていく。

    機械じかけのピアノのための未完成の戯曲」でその名優ぶりが日本にも知られることになったオレーグ・タバコフ、ユーリー・ボガトィリョフ、エレーナ・ソロヴェイに、ベテランのアンドレイ・ポポフを加えての見事な俳優のアンサンブル。ロシアの田園風景を捉えたパーヴェル・レベシェフの光と陰が綾なす美しい映像。エドゥアルド・アルテミエフの流麗な音楽と、この映画は"ミハルコフ組"の面目躍如といった作品である。

    「オブローモフの生涯より」<内外の反響より>

また、こういう切り口も。

  • 車椅子バスケを題材とする井上雄彦のスポーツ漫画「リアル(1999年)」が軸として選んだのも身障者問題そのものというより「手足の1本もがれたくらいでは頂点を目指すのを諦められない戦闘者達の性」であった。

    大今良時聲の形(A Silent Voice,2011年~2014年)」 も世界的に話題となったが、実はその裏で密かに国際的に同年代女子の注目を集めたのは聾唖者ヒロイン西宮硝子の妹結絃だったりする。

    連載版で初めて登場したキャラクター。硝子の妹(年齢は硝子の約3歳下)で中学生であるが、不登校で学校には通っていない。

    少年のような外見で自分のことを「オレ」と呼ぶ。そのため、将也・永束・植野はいずれも初めて会ったときには結絃のことを男性だと思い込み、硝子の妹だとは気付かなかった。

    幼い頃から姉のことを慕うがゆえに、その姉に偏見をぶつけたりいじめたりする周りの人間を憎んでいた。髪を短く切って男性のように振る舞うようになったのも、姉を守るための「強さ」を子どもなりに表現したものでもあった。

    硝子の補聴器を何度も壊され、筆談ノートを池に捨てられたあげくに硝子がボロボロになるまで取っ組み合いの喧嘩をした相手として将也の名前を知っている。また、よりによってその将也が硝子に会いに来て親密になろうとしてきたことに憤り、あらゆる手を使って妨害した。

    しかしその後、将也が邪心なく心から硝子のことを思い、また硝子もそんな将也に心を動かされて明るく積極的な性格に変わっていくのを目の当たりにした。このことから一転して二人の関係を応援するようになる。そして、自らも将也を兄のように慕うようになる。

    一方で結絃自身も母親との関係が悪く、社会に対する疎外感もあって不登校で家出を繰り返すという問題を抱えている。

    趣味は写真撮影で、いつも一眼レフカメラ[note 4]を首から下げているが、撮影するのはもっぱら動物の死骸ばかりである。その理由は硝子が小学生時代にいじめを苦に自殺を考えていたことに対し、動物の死骸の写真を見せることで自殺を思いとどまらせるためであった。市のコンクールで優秀賞を受賞した。

    学校に行っていないため当初は成績が悪かったが、将也の教えで少しずつ成績が上がり、植野や佐原の通った「太陽女子学園」に進学する。

    そういえば日本で黙殺されながら海外で話題となった「Katawa Shojo(2012年)」なるコンテンツが存在し、その精神的後継作は川原礫アクセル・ワールド(2009年~)」と目されていた時期もあった。

そして上掲記事が生んだもう一つの波紋…

もう一つ、原作・実写からの大きな改変として、本作でジョゼが新たに「芸術の天才」となったことが挙げられる。絵本作家を目指すに至る程の才能に恵まれたジョゼは、絵によって恒夫を励まし精神の危機から救う。単に恒夫から一方的に助けられるだけの存在ではない、という事を分かりやすく強調するシーンだ。

これは健常者との対等性を偽装するために障害者に履かされる下駄の典型例である。本作では、障害者であるジョゼと健常者である恒夫の関係の対等性を担保するために、ジョゼに才能が与えられた。同様の設定を用いた作品は『37セカンズ』(2019)をはじめ枚挙に暇がない。作り手としては手っ取り早く無難な表現として人気があり、そして当然その分だけ、多くの批判も存在するステレオタイプなのだ。

加えて、本作(特に中盤以降)のジョゼはあまりに恒夫に都合の良い存在だ。彼を無限に免責するような物分りの良い言動からは、彼を悪者にはできない制作側の事情が窺える。

この種の話は当然、突然出てきた訳ではありません。 

  •  この辺りの話?

  •  ただこういう話もセット。

しかし実は1970年代~1980年代に流行したスプラッタ・ムービーでは車椅子ユーザーも「平等に」容赦無く惨殺される事に、他ならぬ車椅子ユーザー自身が喝采した歴史も存在するのです。

この辺りの歴史は実に入り組んでいます。そのうちまとめないと…

そして。こうした話題への反論。

 こうした対立軸についての、ある種の総括…

 これとは別方面からグイグイ攻めてくる「原作」派の追撃。

一方、以下の様な擁護論も。

「ジョゼと虎と魚たち」重度障害者の車椅子ユーザーが感じた低評価の理由

レビューには肝心なことが書かれていません。この「ジョゼ」の本質はキャラクターの性格でもなんでもなく「円満な幸福を考えるとき、必ず死を考える」というジョゼの幸福論にあるでしょう。

ちなみに似た表現で「東京喰種」に「人生で最も幸福なことは、自分らしく死ねること」というセリフがあります。

ああ、自分は死んだのだ

わたしもよくそう思う。幸福なときほど死を意識する。あまりに刹那的だと笑われるかもしれない。けれど、もう1年か2年前になるけど未だに忘れられない「病人障害者は性奴隷になって死ね」そう言われた身として、また自分の役立たなさを知っている身として、幸せを感じる刹那こそが死の瞬間であり願望であり、つまりは障害者としての自分を忘れられるときだとわかるから。

作者は、短い作品であっても、小説という虚構の中に、ちょっとした現実を織り込むことを忘れない。たとえば、小説好きのジョゼが本を入手するのは「市役所からやってくる巡回婦人文庫」であり、そこに「障害者は会費無料で貸してもらえる」というカッコ付き説明が加わる。また、ジョゼは「就学免除で学校へはいったことがない」。さらに祖母と二人のときも一人になってからも「生活保護」で暮らしており、月に1回、ボランティアの女の人が来て、買い物もしてくれる、というように。

こうした描写によって、読者はかえって、この話を、どこにでもあるかもしれない男と女の話として受けとることができるだろう。作者の意図は、そこにある。「障害者が主人公の作品」として肩を張ることもなく、他の八編と違和感を感じることもなく読みふけることのできる作品である。

 この方面に関しては、また別種の論理展開が必要となりそうです。

そんな見通しが立った辺りで以下続報…