思わぬとばっちりを喰らってしまった「ジョゼと虎と魚たち」。何せ息が長いコンテンツなので、その影響の受け方も重層的だったりするのですね。
とりあえず今回はネットで流れてる所感の要約に取り組みます。
#ジョゼと虎と魚たち 個人的感想
— MeiMei✉️🍇💚💙👍 (@likeadaydream77) 2021年1月31日
①意外と「障害者と健常者」がテーマではない
1番いい意味で予想を裏切られました。ジョゼが恒夫と共に自身の障害を乗り越えて行く系かと思いきや、「個人個人の抱える悩みや状況は違い、向き合い方や乗り越え方も違う」がテーマかな、と。
象徴的なのがジョゼが↓
電車に乗るシーン。切符の買い方わからず、ぶつかられて舌打ちもされる。でもその後、「健常者」の女性もキャリーを男性に蹴られて逆ギレされる。でもその女性は怒鳴り返して男性を撃退した。
— MeiMei✉️🍇💚💙👍 (@likeadaydream77) 2021年1月31日
たぶんその時ジョゼは「車椅子だから」遭遇すると思っていたトラブルが、「健常者でも起こり得る」って↓
ことに気づいたんだと思う。もちろん車椅子だからこその不便や壁は沢山あるけども、「健常者」でもトラブルは起こる。それで、今まで「車椅子だから」と言い訳してたことを頑張ろうと思ったのかな、と。
— MeiMei✉️🍇💚💙👍 (@likeadaydream77) 2021年1月31日
そしてこの映画最大の転換点、「恒夫も障害者になる」。ここでジョゼと恒夫は「障害者」として↓
「対等」な立場になる。でもジョゼは加害者意識の塊だし、恒夫はヤケになって溝は深まる。つまり「障害の有無」は2人の関係において「対等」とは関係なかった、ということ。
— MeiMei✉️🍇💚💙👍 (@likeadaydream77) 2021年1月31日
たぶんこの「障害」の出し方が原作派と映画派の差なんだろうな。
ジョゼと虎と魚たち、二回目やっぱり素晴らしい映画でした。君の名は。級の大ヒットでもおかしくない映画…
— しゅとるむ (@MasterDs2) 2021年1月22日
繊細なホン作りで、ジョゼの恋のライバル舞が、恒夫に失恋覚悟で告白し泣き崩れる所、舞を気にかけてる隼人が目撃するのは立ち上がる所からにしてる。見られたくない場面を外す優しさと繊細さ
二回目を観て思ったのは、恒夫がジョゼに「(祖母に)甘え過ぎなんじゃないの?」と突っ込み。特にジョゼを腫れ物として扱うような対応をしてない。祖母が「コップに入れたお茶は運べないんや」と説明すると「ペットボトルにするとか」恒夫は割と大胆に踏み込むんですよね。恒夫のこの距離感が心地よい
— しゅとるむ (@MasterDs2) 2021年1月22日
恒夫は基本スタンスとして「それは無理じゃないの?」「それはできるのでは?」というのを中立的に発言している。車椅子では海に行けないとは言わないし、砂浜では車椅子は無理だろと当たり前に指摘する。やや、子供を扱うような態度ではあるが、それはジョゼが本当に子供のような所があるので。
— しゅとるむ (@MasterDs2) 2021年1月22日
出来る出来ないの見極めが他人に対してもナチュラルに出来てるので、障害者へ初めて接してもソツなく対応している。これは、恒夫がダイビングを趣味としているスポーツマンとして、身体感覚に優れているんだろうなというのを感じさせる。要するにぎこちなさがないのよね。但し、恒夫は心の問題で(続)
— しゅとるむ (@MasterDs2) 2021年1月22日
恒夫は心の問題について、身体障害者が身体の不自由さから心理面においても萎縮してしまうことがあるというのを前半、まだ理解できてない。だからジョゼが絵の仕事に挑戦しないで諦めるのを怒ってしまう。これが、ジョゼの「健常者にはわからん」と後半の展開に繋がっているのね。見事な脚本ですよ。
— しゅとるむ (@MasterDs2) 2021年1月22日
あとはまあ、恋のライバル舞のキャラクター造形の見事さにも言及しておきたい。彼女は原作にも実写版(別のライバルは出て来る)にもいないんだが、祖母を亡くしたジョゼを自ら励ましに行こうとするのに、いざ会うと「同情だから」と憎まれ口を叩いてしまう。大体作中、ジョゼの背中を押してるのは舞。
— しゅとるむ (@MasterDs2) 2021年1月22日
作中、自ら「私、いい女だから」と歯を食いしばる舞は、しなくてもいい憎まれ役を買って出てジョゼの背中を押し、かつ憎まれ役に徹しきれない所が本当に「いい女」なのだ。ジョゼが障害者である事に遠慮がないのは実写版の上野樹里同様である。
— しゅとるむ (@MasterDs2) 2021年1月22日
たぶん、将来のジョゼの親友ナンバー2候補だろうな、と
脚本家は桑村さや香さんだが、舞が恒夫の好きなところを百も二百も列挙できると言って、くだくだしく挙げていくところは女性脚本家の面目躍如といったところだろう。ああ、女性って男性のそういうディテールの積み重ねを見てるんだな、と。なかなか勉強になります(笑)#ジョゼ虎 #ジョゼと虎と魚たち
— しゅとるむ (@MasterDs2) 2021年1月22日
今更の気づきですが、ダイビングショップでインストラクターのバイト中の恒夫には「出来ない事がある人に手助けをする」のは基本的に手慣れたものなんですね。バイト仲間の隼人や舞が揃ってお人好し級で世話焼きなのも職業病なんだな。やっぱりスゴいな、この作品。#ジョゼ虎 #ジョゼと虎と魚たち
— しゅとるむ (@MasterDs2) 2021年1月22日
隼人が「ジョゼ子ちゃん」呼びするのは、恒夫のジョゼへの自覚せざる想いを察して(しょっちゅうジョゼの話をしてる事で判明済み)本名のクミ子とも恒夫だけの特別な呼び方のジョゼとも呼べないから、チャラ男キャラを生かしてチャラけてる訳で、配慮の塊だよねこの男。 #ジョゼ虎 #ジョゼと虎と魚たち
— しゅとるむ (@MasterDs2) 2021年1月22日
まぁ、一般的感想としてはこういう感じです。それに対して…
本作は総じて、社会の側の歪みをジョゼ個人の「甘え」や勇気の問題に回収する姿勢が目立つ。勿論その方向性自体は仕方ない。クリスマスにわざわざ障害者問題を考えに映画館に行くカップルなど居ないのだから。
それでも、ジョゼと同じアパートに住み「お乳房さわらしてくれたら何でも用したる」と言い寄る男だけは絶対に残すべきだった。彼は恋愛や性という『ジョゼ』の根幹を成すテーマに直接関わる存在だからだ。原作や実写では厳然と存在した彼が消された本作では、ジョゼが外の世界で立ち向かわねばならない恐怖の輪郭はひどくぼやけ、その象徴たる虎も抽象的な存在に成り下がった。
女性障害者が性犯罪の格好の標的とされる状況は今も変わっていない。今年、視覚障害者の女性が相次いで盗撮される事件が起きたが、その中には自宅まで侵入してカメラを仕掛けられた例もあった。ジョゼが悪意の気配に敏感なのも性被害を抜きには語れない。「女性である」ことと「障害がある」ことの複合的な困難の一端はNHKのサイトにまとめられている。
女性障害者達は恋愛や性の領域で次のようなジレンマを抱えていると考えられる。一方では桁違いに高い性被害のリスクと、そこからの「保護」を口実にした生活への厳しい管理・介入。他方で「恋愛や性では障害を言い訳にせず、もっと主体的にならないといけない」という規範圧力も根強い。まさに前門の虎、後門の狼である。
しかし本来「安全な環境の保証」と「性的主体になれる」ということは相反するものではない。むしろ両者は表裏一体の権利である。後者の自由を安心して行使するためには前者の存在が大前提となるからだ。
ジョゼは上記の男の振る舞いによって、安全を脅かされるだけでなく、同時に性嫌悪も否応なく植え付けられているのだ。それに拍車を掛けるような生い立ちもある。原作では生みの親にも継母にも半ば捨てられる形で施設に入れられていたのだが、疎まれた一因として「車椅子が要って生理がはじまっているという『ややこしい』」存在である事が挙げられている。
ジョゼが性愛の主体になるには、まずこの何重もの性嫌悪というハードルを大変な苦労により乗り越える所からスタートせざるを得ない。
それは苦しみの終わりではなく始まりだ。実写版のベッドシーン直前、「俺は隣のエロオヤジ(上述の男)とは違うし」と言う恒夫に対し、ジョゼは「どう違うの?」と問う。ジョゼはこの先の人生、相手が恒夫であれ他の誰であれ、男と交際している時は決してこの問いから解放されることは無いだろう。
とても理解が深まる内容でした。
— kiirotopan 👗🥧🦓💎 (@kiirotopan) 2020年12月27日
素晴らしい考察ありがとうございます。
実写のあの〝こころが痛くなる〟ほどの深い哀しみと絶望のラストと比べるとなんだか浅いな・・・と思ってしまいます。『君の名は。』でも感じたような私には居心地の悪いご都合ありきの雰囲気。
記事読ませていただきました。私自身も映画や池脇さんの演技が好きで、彼女の言葉一つ一つや仕草にたくさんの意味が込められていると感じます。それなのにアニメでは一場面が省かれ、無かったことにされてしまう。実際の性犯罪と重ねて考えるきっかけとなりました。ありがとうございました。
— gg (@4X57d) 2020年12月27日
「実写版」 派はここを攻めてきますね。
「いろいろ見なあかんもんがあるんや。花とか猫とか。」
足の悪いジョゼがおばあの引く乳母車で散歩する理由。
周囲の人間は気味悪がってジョゼを殴り、ジョゼも包丁で応戦した。
そこまでしてなぜ散歩にこだわるのか。
(身の危険のことも考えて)もう散歩はやめたほうがいいよ、とアドバイスする恒夫にきっぱりと言い放ったジョゼの力強い台詞だ。私はこの映画を観ることを避けていた。
なんとなく観たらいけないような気がしていた。
観終わった今、ジョゼが「ほらな。」と吐き捨てるように全てを見通したような澄んだ目で私に語りかけてくるような気さえしてくる。「ジョゼ」という女性は赤ん坊のような無垢さと情愛に耽る女の淫らさ、そして深海を流れる冷たい水を思わせるような静けさという一見相容れない要素が複雑に絡み合って形成されている象徴的な存在だ。
念願の水族館に向かうシーン、「車椅子に乗ろうよ、俺がおじいちゃんになった時どうするんだよ。」とジョゼをおんぶしながら無邪気に笑う恒夫に対し、ジョゼは「あんたがおんぶしたらええんや。」と呟いて彼の背中で小さく身を屈める姿がとても切なくいじらしい。
「こんな幸せな日々が続くわけがない。」
冷めた目で社会と自分との距離を見つめるジョゼは前者と後者の間にぼんやりと、しかし確実に存在する「大きな溝」をはっきりと認識していたのだと思う。だからこそ、楽しくて仕方ないはずの恋人とのデートと何気ない会話のなかに泡のように浮かんでは消えてしまう儚さを感じてしまったのだろう。
いずれ恒夫が恒夫自身の「現実」に帰っていくことを知ったうえで、あのような立ち居振る舞いが出来るのは自立した大人の女性にしか出来ない。いや、ジョゼにしか出来ない。全てを見越したうえで最大限「今」を楽しむことができる精神的余裕がジョゼには少なからずあった。勿論、彼女自身が語る「いつもの海底暮らしに戻る」という現実を受容することに痛みが伴わないはずはなかっただろう。
ただ香苗の元に戻った恒夫が「俺は逃げた。ジョゼとはもう二度と会えない。」と大泣きしているいっぽうで電動車椅子に乗り、美味しいご飯を作って飄々と生きるジョゼの姿はあまりにも清々しく少女のような愛らしさがあった。
時間と空間の概念を飛び越えて、ジョゼは「リュウグウノツカイ」のようにゆらゆらと恒夫の心の奥底を静かに泳ぎ続けるのだろう。
恒夫がジョゼのことを忘れても、忘れていなくとも。
実写版の、ゴミ捨てができないため近所の変態に胸を触らせて代行して貰っていると話すジョゼに対して恒夫が「え〜それってどうなの」と笑うシーンが、福祉の欠陥と、障害者・女性差別と、健常者との断絶が詰まっていて、どうしようもなく残酷だった。それがないなら別物だよ。https://t.co/AaiULuriQD
— 絶対に終電を逃さない女 (@YPFiGtH) 2020年12月30日
簡潔で鋭い批評なだけに最後の気遣いがなんとも気の毒というか。ミッドナイトといい、マイノリティをダシにする薄っぺらい意図。本欄も指摘してるが障害者の描写は退化してる。
— 青さン、ご主人様は神対応抗日デス (@hariotoko) 2020年12月27日
名作『ジョゼと虎と魚たち』アニメ版は“純愛推し”だが…消された「性被害」の重み https://t.co/uRWH2PuwUk
一方実写版にもこういう批判が寄せられたりもしてる訳ですが。
またこういう人達には上掲記事の「締めの言葉」が単なる付け足しと映る様です。実際にはむしろ社会はこの部分をこそ全力で受け止めないと著者の意図にも反してしまうと思うんですが。
現実の障害者やそれを取り巻く状況への興味から創作が導かれる訳ではないため、不勉強だったり腹が立つような表現は今後も登場し続けるに違いない。また、田辺聖子による原作が出版されてからの36年間を振り返っても、障害者にまつわる物語は複雑さを許容されるどころかむしろ退化しつつあるようにも見える。
だが創作表現と現実社会は互いに影響を及ぼし合っている。その事を忘れ、社会状況を問うことなく、責めを全て表現者に帰せば「そういう面倒なことを言われるから障害者を出したくなかったんだよ」と言われるのがオチだ。
今はまだ創作に登場するだけでも歓迎せざるを得ない段階にある。これから我々は気の遠くなるような時間をかけ、たとえ凡庸なものであっても障害者表象を蓄積していかなければならない。量をストックし続ける事が、優れた表現を芽吹かせるための土壌となる。
その先の遥か未来、豊かな物語が障害者からも健常者からもたくさん現れていくだろう。そして最終的には、障害者が何の理由もなく出てくるようになる事を願っている。
最後に、本作の白眉と言える箇所を紹介しておきたい。
「ずっと届かんかった 屋根に引っ掛かった赤い風船にも 木にくっついとるセミの抜け殻にも 雨の日に水玉の傘さして歩くのも 神社の階段駆け上がるのも 全部…」
車椅子に乗る者の実感を見事に掬い取っている。絶望を語る言葉でありながらハッとする程美しい。このジョゼの台詞だけで、本作が世に出た意義はあった。
- 2010年代には国際SNS上の関心空間への滞留時間が長く、そこで匿名Black Establish系アカウントから(実際に知り合いとなった黒人からはかえって聞けない様な)様々な話を聞かせてもらったものだが、このビジョン自体はそうして得てきたた知見とも一致する。
- もう一つの忘れてはならない歴史。2010年代国際SNSの関心空間に集った「第三世代フェミニスト」連合は「政治的勝利」を最優先課題に掲げ1970年代~1980年代に一斉を風靡した第二世代フェミニズム勢批判を契機に成立し、21世紀に入ってからのいわゆる「リベラル的価値観の暴走」から常に距離を起き続けてきたのだった。そういえばジョゼ原作版におもジョゼの「死こそ幸福」と信じる価値観と「騒々しいばかりで代償として失われる物も大きい女性や障害者の権利拡大運動などから忘れ去られる」状況の緩やかな連続性が示唆されている。当時の作品としては珍しい事ではなく、ロシア映画「オブローモフの生涯より(1979年)」なども同種のテーマを扱っていた。
1980年オックスフォード国際映画祭最優秀作品賞、撮影第一賞、最優秀男女優賞
ニキータ・ミハルコフ監督の「機械じかけのピアノのための未完成の戯曲」につづく長編第五作で1980年カンヌ映画祭に出品されて評判となった。19世紀の文豪、イワン・ゴンチャーロフの代表作で、主人公の名が、無気力、怠惰な人生の代名詞にまでなった「オブローモフ」(1859)の映画化である。
世紀末、無為に過ぎゆく人生を、何とか有意義に送ろうと努力するものの、所詮は怠惰な生活に安住してしまうロシア・インテリゲンチャの典型、オブローモフ。一方、彼の友人で対照的にプラグマティックな生き方をするシュトルツ。そして知的で感情豊かな、自らの意志を持ったロシア文学の理想的なヒロイン、オリガ。映画はこの三人が織りなす人間関係を軽妙タッチで、そして時に諷刺を交えて描いていく。
「機械じかけのピアノのための未完成の戯曲」でその名優ぶりが日本にも知られることになったオレーグ・タバコフ、ユーリー・ボガトィリョフ、エレーナ・ソロヴェイに、ベテランのアンドレイ・ポポフを加えての見事な俳優のアンサンブル。ロシアの田園風景を捉えたパーヴェル・レベシェフの光と陰が綾なす美しい映像。エドゥアルド・アルテミエフの流麗な音楽と、この映画は"ミハルコフ組"の面目躍如といった作品である。
また、こういう切り口も。
障がいのある子はアニメの主人公になれない。|杉本亜未 @SugimotoAmiInfo|note(ノート) https://t.co/z855eMh5mq
— イルカ (@diablo_delfin) 2019年9月18日
記事中では「ドラマも」そうだと書かれているが、「愛していると言ってくれ」「星の金貨」のヒットをこの人は知らないのかな?
映画ならば「ジョゼと虎と魚たち」も主人公が障害者。具体的にどういう障害かは触れられていないが、車いすを要する下肢の障害。
— イルカ (@diablo_delfin) 2019年9月18日
原作は海外のだけど「アルジャーノンに花束を」も障害者が主人公だ。
— イルカ (@diablo_delfin) 2019年9月18日
他にもありそう。
- 車椅子バスケを題材とする井上雄彦のスポーツ漫画「リアル(1999年)」が軸として選んだのも身障者問題そのものというより「手足の1本もがれたくらいでは頂点を目指すのを諦められない戦闘者達の性」であった。
大今良時「聲の形(A Silent Voice,2011年~2014年)」 も世界的に話題となったが、実はその裏で密かに国際的に同年代女子の注目を集めたのは聾唖者ヒロイン西宮硝子の妹結絃だったりする。
連載版で初めて登場したキャラクター。硝子の妹(年齢は硝子の約3歳下)で中学生であるが、不登校で学校には通っていない。
少年のような外見で自分のことを「オレ」と呼ぶ。そのため、将也・永束・植野はいずれも初めて会ったときには結絃のことを男性だと思い込み、硝子の妹だとは気付かなかった。
幼い頃から姉のことを慕うがゆえに、その姉に偏見をぶつけたりいじめたりする周りの人間を憎んでいた。髪を短く切って男性のように振る舞うようになったのも、姉を守るための「強さ」を子どもなりに表現したものでもあった。
硝子の補聴器を何度も壊され、筆談ノートを池に捨てられたあげくに硝子がボロボロになるまで取っ組み合いの喧嘩をした相手として将也の名前を知っている。また、よりによってその将也が硝子に会いに来て親密になろうとしてきたことに憤り、あらゆる手を使って妨害した。
しかしその後、将也が邪心なく心から硝子のことを思い、また硝子もそんな将也に心を動かされて明るく積極的な性格に変わっていくのを目の当たりにした。このことから一転して二人の関係を応援するようになる。そして、自らも将也を兄のように慕うようになる。
一方で結絃自身も母親との関係が悪く、社会に対する疎外感もあって不登校で家出を繰り返すという問題を抱えている。
趣味は写真撮影で、いつも一眼レフカメラ[note 4]を首から下げているが、撮影するのはもっぱら動物の死骸ばかりである。その理由は硝子が小学生時代にいじめを苦に自殺を考えていたことに対し、動物の死骸の写真を見せることで自殺を思いとどまらせるためであった。市のコンクールで優秀賞を受賞した。
学校に行っていないため当初は成績が悪かったが、将也の教えで少しずつ成績が上がり、植野や佐原の通った「太陽女子学園」に進学する。
そういえば日本で黙殺されながら海外で話題となった「Katawa Shojo(2012年)」なるコンテンツが存在し、その精神的後継作は川原礫「アクセル・ワールド(2009年~)」と目されていた時期もあった。
そして上掲記事が生んだもう一つの波紋…
"これは健常者との対等性を偽装するために障害者に履かされる下駄の典型例である。本作では、障害者であるジョゼと健常者である恒夫の関係の対等性を担保するために、ジョゼに才能が与えられた。…"https://t.co/t0UWKMc1wW
— ひでシス🖤ᕱ⑅ᕱ🎀 (@hidesys) 2020年12月26日
もう一つ、原作・実写からの大きな改変として、本作でジョゼが新たに「芸術の天才」となったことが挙げられる。絵本作家を目指すに至る程の才能に恵まれたジョゼは、絵によって恒夫を励まし精神の危機から救う。単に恒夫から一方的に助けられるだけの存在ではない、という事を分かりやすく強調するシーンだ。
これは健常者との対等性を偽装するために障害者に履かされる下駄の典型例である。本作では、障害者であるジョゼと健常者である恒夫の関係の対等性を担保するために、ジョゼに才能が与えられた。同様の設定を用いた作品は『37セカンズ』(2019)をはじめ枚挙に暇がない。作り手としては手っ取り早く無難な表現として人気があり、そして当然その分だけ、多くの批判も存在するステレオタイプなのだ。
加えて、本作(特に中盤以降)のジョゼはあまりに恒夫に都合の良い存在だ。彼を無限に免責するような物分りの良い言動からは、彼を悪者にはできない制作側の事情が窺える。
「健常者との対等性を偽装するために障害者に履かされる下駄」よくあるパターンだ。この言い方頭に入れておこう。
— ASA (@fusuian) 2020年12月27日
〜名作『ジョゼと虎と魚たち』アニメ版は“純愛推し”だが…消された「性被害」の重み | 文春オンライン https://t.co/sXJT7kaiUt
45年前には、戦う女性にもこの種のゲタが必要だった。モモレンジャーことペギー松山は爆薬の専門家、というあれだ。
— ASA (@fusuian) 2020年12月27日
そういえば、チップは2010には全く出てこなかったね。未来世界でも車イスでは天才がすたるが、ロボ足をつけて歩いていては車イスキャラが成り立たない。
— ASA (@fusuian) 2020年12月27日
あの頃、アメリカのテレビドラマやアニメに障害者を出す方針というか奨励か何かがあったと聞いたような気もするが、詳細は知らない。
— ASA (@fusuian) 2020年12月27日
義務化ではないと思うけど、障害者を出すと何かの補助でも出たのかな? その後この制度はどうなったのかな。調べられるかな。
— ASA (@fusuian) 2020年12月27日
トランスフォーマー以外ではどの作品で障害者のキャラクター設定がなされたのか? とか、よく考えたら疑問がつきないな。
— ASA (@fusuian) 2020年12月27日
よーく考えたら、車イスユーザーはゲタをはいても立てないな。立てる人でもゲタは勧められないんじゃないかな。
— ASA (@fusuian) 2020年12月27日
この種の話は当然、突然出てきた訳ではありません。
何かの映画見たときに障害のあるキャラクターが出て来て、感想で「あのキャラが障害持ってるの別に意味なかったよね」て言われててなかなか目の前が暗くなったな 世の中の人間は属性関係なくみな意味もなく存在している
— 味噌 (@nmngr20) 2020年12月27日
多様性ってよく言うけども、人によっては「枠を外して、いないことにされていた人々を同じ地平に存在させる」ではなく、「"多様性"という枠を作って入れてあげる」という解釈なんだろうなと感じる 言葉自体に罪はないけど
— 味噌 (@nmngr20) 2020年12月27日
ある種の「伏線厨」ですね。
— マセカワ キチヱモン☆印度映画はいいぞ (@DiscoDancer_K) 2020年12月28日
「この設定は何かの伏線かと思ったらそうでもなかった」
→「伏線にならないものはカットしてもいいのでは?」って発想。
「障害者という特別な設定なのだから、そのことがストーリー上意味を持っていなければならない」
— higedeka (@higedeka1) 2020年12月28日
という思い込みがそもそも差別的でおかしいって話なんでしょうかね
5-10年前くらいに読んだラノベ作家の話です。
— そうりょ ああああ (@anmalanicora4) 2020年12月28日
同様に障碍者を特に意味のない登場人物の一人として設定したところ、「これ出す意味あるの?」と言われボツになったとか。かなり自由に見えるラノベ界隈でもこうなんですね。
特に身体障碍なら普通に出会って友人になるのもおかしくないのですが…
カナダのアニメとかには普通に登場しますね。特別な役割を付与されることなく。
— アリョーシャK🌸 (@mentaishige524) 2020年12月28日
- この辺りの話?
mlpの特に何の説明も特殊設定もなくしれっと車椅子ポニー出してくるの好き(しかもおしゃれ)
— 🐴 (@pri_kyua) 2021年3月21日
車椅子ポニー、ファンからの名前はジンクス(jinx)。 pic.twitter.com/KnHqoKUiQ0
— ネクシク (@nekusiku) 2020年3月13日
マイリトルポニー久々に見ていたら義足付けたポニーが出てきて、ちょっと虚を突かれたというか軽い衝撃があった。そうかー、なんか今まで考えた事も無かったな、義足のポニーも当然いるか pic.twitter.com/7SzGrSUmRN
— BWTT (@BoyWithTheThorn) 2021年3月20日
ちなみにプロット上義足を付けている事は特に意味も無くて、彼女と初めて会った他のキャラも一言もその事に触れない。良いですねこういうの pic.twitter.com/Jz5oKq1QJm
— BWTT (@BoyWithTheThorn) 2021年3月20日
それなりに見てるようでいて、欧米のアニメのこういう所に未だにちょっと驚く
— BWTT (@BoyWithTheThorn) 2021年3月20日
- ただこういう話もセット。
馬繋がりでMLPでも同じような話あったなぁ…視聴者応募で当選した人は自分をモデルにしたポニーを作中に出してもらえるキャンペーンで、見事当選したのは車椅子の男の子。未成年ということもあり、比較的寛容な公式が珍しく「そのキャラの成人向け二次創作は遠慮して」とお願いを出した
— 積極春眠じょせ隔離所 (@jose_rambles) 2018年6月22日
しかしその異例のお願いに大きいお友達が反発。むしろ成人向け二次創作が量産されこちらでいうぴくしぶ的サイトに溢れるという地獄のような出来事があってな
— 積極春眠じょせ隔離所 (@jose_rambles) 2018年6月22日
日本のオタクの良識を信じたい…
しかし実は1970年代~1980年代に流行したスプラッタ・ムービーでは車椅子ユーザーも「平等に」容赦無く惨殺される事に、他ならぬ車椅子ユーザー自身が喝采した歴史も存在するのです。
この辺りの歴史は実に入り組んでいます。そのうちまとめないと…
そして。こうした話題への反論。
いや、目が見えないキャラクターに心眼を付与します、なんて話じゃないんだから。足の悪いキャラクターが、絵が上手いというのは別に「特殊な能力」でもないし障害者に「下駄を履かせてる」訳じゃないです。
— しゅとるむ (@MasterDs2) 2021年1月1日
ジョゼと恒夫それぞれに目標と得手を持たせる事が、カップルの未来にとって必要なだけです。 https://t.co/R0lUpv9p9B
こうした対立軸についての、ある種の総括…
どちらかというと、ジョゼ虎2020に関しては「障害者」という枠組みで語らないのが特徴的というか
— パダーニア共和国連邦大使館 (@ndng4330) 2021年3月7日
これをどう評価するかは人それぞれだと思うけどね。
— パダーニア共和国連邦大使館 (@ndng4330) 2021年3月7日
たとえばおばあちゃんにしても、原作や2003では「障害者だから」ジョゼを外に出さないようにしてるけど、2020では「ジョゼを守れないから」というニュアンスに変化してる。 https://t.co/Lzp1pboqCj
— パダーニア共和国連邦大使館 (@ndng4330) 2021年3月7日
ジョゼ虎2020はこの「障害者」という三文字をかなり無臭化していて、だからこそ「障害者の物語」ではなく「1人の女の子の物語」として描くべきものを描きしれてると言えるんだけど(続く)
— パダーニア共和国連邦大使館 (@ndng4330) 2021年3月7日
これはある意味で時代の変化とも言えるし、そうした時代の変化を反映して2020の創り手が意図的に排除した部分ともとれる。
— パダーニア共和国連邦大使館 (@ndng4330) 2021年3月7日
まぁ、つまるところ、ジョゼ虎2020でもジョゼは障害者ではあるんだけど、「障害者」としての描き方はされてないので、この作品を「障害者」という文脈で読み解こうとすると失敗するよ、って話。
— パダーニア共和国連邦大使館 (@ndng4330) 2021年3月7日
これとは別方面からグイグイ攻めてくる「原作」派の追撃。
#ジョゼ虎、実写版は恒夫視点で鑑賞してたのでラストは障害者に対する自分の臆病さを告発された気がしてグサっときたんだけど、ジョゼ視点で描かれた原作を読んでみたら作品の主題はそこじゃないと知って戸惑ったな。短編集の原作では女の社会的自立と家庭あるいは恋愛が一貫して対立項で描かれてる。
— UglySmile (@ugly_smile69) 2020年12月27日
原作はむしろ表題作の『ジョゼ』だけが浮いてる印象。他8篇のヒロイン達は手に職をつけて自活していて、その多くは男に心を預け過ぎないよう一線引きながら恋と自立心に折り合いつけて生きてく。そんな中『ジョゼ』は「完全無欠の幸福は、死そのものだった」の一文通り自意識の喪失をもって閉幕した。
— UglySmile (@ugly_smile69) 2020年12月27日
原作の刊行は85年。折しも男女雇用機会均等法が制定された年。女性の社会進出を無邪気に称揚する時代に、恋と社会的自立心の狭間で揺れる女の心の機微に焦点を当てた原作の意義は他の8篇を横断しないと見えてこない。先行して発表された『ジョゼ』は恋の側に堕ちた女の物語としてテーマの極地にある。
— UglySmile (@ugly_smile69) 2020年12月27日
幸福な死かデラシネの生か。その不安定な恋情描写は原作の一番の魅力だと思う。でも考えようによっちゃどうだろ。漂白脱臭したうえ安易な救済に帰着させて今時の胸キュン映画に仕立てたアニメ版の空疎さは、ある意味で実写版以上に「完全無欠な幸福」の虚無を再現してると言えるんじゃないだろうか?笑
— UglySmile (@ugly_smile69) 2020年12月27日
ジョゼと虎と魚たちの/田辺聖子
— 風太 | 読書とか (@reading_stars) 2021年1月30日
大阪弁のリズムが心地よい短編小説。
実写版、アニメ版と映画化されるだけの魅力を感じる。
短編ながら障害者が対峙している社会の歪みも垣間見た。
ジョゼと恒夫、ふたりの話は完結しないで構わない。
完全無欠な幸福は、死と同義である。#気まぐれ紹介おすすめ本 pic.twitter.com/dfLCaOsHr6
一方、以下の様な擁護論も。
「ジョゼと虎と魚たち」重度障害者の車椅子ユーザーが感じた低評価の理由
レビューには肝心なことが書かれていません。この「ジョゼ」の本質はキャラクターの性格でもなんでもなく「円満な幸福を考えるとき、必ず死を考える」というジョゼの幸福論にあるでしょう。
ちなみに似た表現で「東京喰種」に「人生で最も幸福なことは、自分らしく死ねること」というセリフがあります。
「ああ、自分は死んだのだ」
わたしもよくそう思う。幸福なときほど死を意識する。あまりに刹那的だと笑われるかもしれない。けれど、もう1年か2年前になるけど未だに忘れられない「病人障害者は性奴隷になって死ね」そう言われた身として、また自分の役立たなさを知っている身として、幸せを感じる刹那こそが死の瞬間であり願望であり、つまりは障害者としての自分を忘れられるときだとわかるから。
作者は、短い作品であっても、小説という虚構の中に、ちょっとした現実を織り込むことを忘れない。たとえば、小説好きのジョゼが本を入手するのは「市役所からやってくる巡回婦人文庫」であり、そこに「障害者は会費無料で貸してもらえる」というカッコ付き説明が加わる。また、ジョゼは「就学免除で学校へはいったことがない」。さらに祖母と二人のときも一人になってからも「生活保護」で暮らしており、月に1回、ボランティアの女の人が来て、買い物もしてくれる、というように。
こうした描写によって、読者はかえって、この話を、どこにでもあるかもしれない男と女の話として受けとることができるだろう。作者の意図は、そこにある。「障害者が主人公の作品」として肩を張ることもなく、他の八編と違和感を感じることもなく読みふけることのできる作品である。
この方面に関しては、また別種の論理展開が必要となりそうです。
そんな見通しが立った辺りで以下続報…