久し振りに懐かしい旧投稿が参照されました。
改めて内容を読み返してみると…
1970年代に入ると「精神的超人になれなかった人々(すなわち「現実の宗教面」に足を踏み入れつつ、本物の宗教家に率いられていない人々)」は究極的に最終的に例外なく全て「(狂った教祖の公私混同が盲従する信者全てを巻き添えにした)ガイアナ人民寺院集団自殺事件(1978年)」の境地へと到達するのではないか? なる疑念が浮上してくる。
- 「例外なく」という事は「(贔屓筋が贔屓対象を経済的に支える泥臭い)リージョナリズム」も全てこの範疇に自動的に組み入れられてしまうという事。そもそも語源的に「贔屓=苦労して人に奉仕したりお金を貯めたりするのを好むが、しばしばその「未必の故意」に基づく振る舞いが究極的には破局を引き起こす中国伝承における悪魔的怪物」という解釈の余地もあるから概念上、相性は悪くない。
- その一方で1980年代に入るとエイドリアン監督がソフトSM映画「ナインハーフ(NINE 1/2 WEEKS、1986年)」で活写された様にBDSM界隈においては「M側にとって新しい体験を供給出来なくなったS側は捨てられる」「M側が寄せる基本的信頼感を裏切ったS側は捨てられる」といった「契約条件」が公然と語られる様になっていく。
そういえば日本においては「夜明けのヴァンパイア(Interview With the Vampire、1976年、映画化1987年)」を第1作とする「ヴァンパイア・クロニクルズ」シリーズでのみ知られるアン・ライスも「女性向けSMポルノ作家」なる顔も備えており、同時代に「全てのBDSM的情緒は宗教的感情に由来する」「M側はS側の前で頭を垂れる時、究極的には下克上を狙っている」といった名言を残していたりする。
要するに「蒲田行進曲も遠くになりにけり」という話…
むしろこういう状況には、下手に危険に対して過敏に反応してしまう人より「少しボォっとしてるくらいの人」の方が向いているのかもしれません。
ここでも「文化リージョナリズム」の概念は重要で、カソリック文化圏だと「全てのBDSM的情緒は宗教的感情に由来する」「M側にとって新しい体験を供給出来なくなったS側は捨てられる」と表現した方が理解も共感を得やすい内容が、日本文化圏だと「贔屓の語源は苦労して人に奉仕したりお金を貯めたりするのを好むが、しばしばその「未必の故意」に基づく振る舞いが究極的には破局を引き起こす中国伝承における悪魔的怪物」と表現した方が理解も共感を得やすかったりする訳です。
で、当時のこうした考え方の延長線上に以下の様な最新投稿がある訳です。
それにつけても当時と今では、それぞれの言葉の意味合いが随分と変貌を遂げてますね。まさしく「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。 淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」の世界…